ある邂逅
その森は平和な場所だった。木々は高く、昼間だが日の光は射さない。ここは背の高い、都心では見かけない針葉樹でいっぱいだ。光の届かないこの場所では下草は生えないようで、歩く度に足が湿った腐葉土に沈み込む。多分に水分を含んでいたので、ときどき滑ってしまいそうになる。昨日の真夜中に雨が降っていた。
ホテルのロビーで、私はそれを見ていた。夏の雨らしい豪快な土砂降りだった。でも今朝、私が起きた時には止んでいたので、長い時間降っていたわけではないらしい。深呼吸をすると青臭く、土っぽい森の匂いが鼻を突く。メグのコロンのグリーンノートなんて足元にも及ばない、もっとずっと深く、重苦しい木々の香りだった。
夏だったがここの日差しは弱く、大して暑くはなかった。それでも湿度は高く風も吹かないので、私は滝のように汗を流した。ここでは本当に風が感じられない。それでも時折、遥か頭上の木々が揺れる音がするので、きっと風は吹いているのだろう。ただその風は、私には感じられない。
木の幹には苔が生えている。毛足の長い、ビロードのように滑らかな苔だった。近寄って触ると、存外それはふわふわしていて、撫でていて気持ちがよかった。ふわふわ。そういえば先週、近所で可愛い子犬が産まれた。三匹の兄妹。オスが二匹とメスが一匹。彼らの手触りは、これよりももっと滑らかで、温かかった。
クリーム色の三匹の子犬は、ビションフリーゼとダックスフンドの合いの子だ。メグが欲しがっていたが三匹の子犬は小さい町では引っ張りだこで、早々に貰い手が決まってしまった。一方ここには、生き物の気配がない。時折、遠くや近くで鳥の声がしたが、深い森の奥でそれらは、何か得体のしれない音でしかなかった。
生き物の気配はしないが、ここには人のいた痕跡がある。歩いていると、枝葉にまぎれて、ジュースの缶や古い雑誌を見かけた。色があせても、缶や雑誌の派手で人工的な色は、暗い森の中で、どうしようもない程に異質だった。
雑誌の一つを拾い上げてみる。手に取ったそれは週刊誌で、聞いたこともないアイドルの熱愛が報じられていた。私はテレビを見る方ではないが、それにしたって聞いたことがない名前だった。短い髪をカールさせたモダンな髪型で、シャツから伸びた片腕を、背の高い男の腕に絡ませている。男の顔は、雑誌の写真から確認することは出来ない。雑誌の発刊日は、二十年も前だった。
私は雑誌を元の場所に戻して、森のさらに奥の方に進む。実際に奥に進んでいるかは定かではない。自分では真っすぐ進んでいるつもりでも、実はいつの間にか大きな弧を描いて、来た道を戻っているかもしれない。もしかしたら、私はこの深い森の円周を軽くなぞっているだけなのかもしれない。
知らない土地で自分の勘を信じるな。これは私の友人の口癖の一つだ。彼はよく道に迷う私に、何度もそう言い聞かせてきた。私はよく道に迷う。新しい建物がひとつ、見慣れないオブジェがひとつ出来ただけで、それが例え近所でも、私にとっては未知の場所となる。メグや友人は迷った私を見つけるたびに、不便な脳だと笑っていた。
今回、私は迷ってこの場所に来たわけではない。この森そのものが私の目的地なのだから、ある意味で私は一応目的地に到達していることになっている。しかし私は歩くことを止められない。もっと奥に行く必要がある。だけれども、そんな決意の割に私の歩みは遅い。ここはとても不快な温度と湿度で、見通しも悪く、枝で足を取られてぬかった土で足を滑らせることもある。でも、そんなものは言い訳でしかない。
いくらなんでも一時間歩いて、未だスタート地点の森の入り口が見えているのはおかしいだろう。ここから、まだ私の乗ってきたトゥデイが見える。泥が跳ねて汚れてはいるが、黄色のトゥデイはよく目立つ。
そう言えばメグがトゥデイを欲しがっていた。軽自動車のトゥデイ。丸みを帯びた愛嬌のある車体に、ペールイエローのカラーリング。トゥデイのCMをメグと一緒に見ていたが、きっと欲しいと言いだすに違いないとすぐに思った。
ここまで乗ってきたトゥデイはレンタカーだ。軽自動車なので格安で借りられた。格安というのがトゥデイを借りた理由だと思っていたが、こう思い返して見るとどうにもメグの影響の方が大きい気がした。
私の歩みは遅い。多分小学生がこの森を歩いても、私よりいくらかは早いだろう。私がメグとトゥデイに想いを馳せている間だって、私は立ち止まってしまっている。新幹線を乗り継いで、こんな遠くまで来てしまった。今更進むのをためらった所で、メグも彼も、もう見つけてはくれないだろう。
私はいい加減に歩くことにした。途中で古いゲームのカセットやガスコンロと、何故ここにあるのか興味を惹かれるものもあったが、手にも取らずに先を目指す。あまりにも急ぎ過ぎて、私は二回も転んでしまった。急いで行動するのは、あまり得意な方ではない。得意ではないというより、苦手といった方がいいだろう。
つい何年か前までは東京に住んでいたが、東京の急かされるような空気に慣れることが出来ずに、さっさと地元に帰って来てしまった。私は泥だらけで歩く。地元にいようが東京にいようが、この森にたどり着いてしまえば、結局は同じだ。
遠くの方で鐘が鳴った。深い森に似合うような、かえって場違いの様な、澄んだ鐘の音だった。本当に鐘が鳴っているのかは分からない。この森に来る道に鐘のある様な建物は無かったから、放送なのかもしれない。時刻は一二時を回っていた。
私は少し空腹と疲労を感じていたので、幹のしっかりした木に寄りかかって、ショルダーバッグを漁る。バックの中には、今朝食べきれなかったイチゴのジャムパンと、チョコレート菓子が入っていた。旅に出る時は必ずチョコレートを鞄の中に入れておくのだと、友人が言っていたのを思い出して買ってみた。
しかし買ってから気付いたのだが、彼の言う旅と、私の旅行はスケールが違いすぎる。しかも彼がチョコレートを推す理由は、過酷な環境で生き残るためである。私がここに来た理由に、チョコレートはそぐわなさすぎる。それから私が買ったチョコレート菓子は、ビスケットに申し訳程度にチョコレートがかかったものである。生命維持には役にたたなそうだ。
映画などで雪山で板チョコをかじって生き延びるシーンがあったが、彼が勧めていたのも、多分板チョコの方だ。メグは、チョコレートならなんでも大好きだといっていたけど、私は板チョコが嫌いだ。パキパキと噛み砕くのはなんとなくスマートじゃないし、安っぽくべとべとしたチョコレートが口の中に残るのも好きになれなかった。
私はジャムパンを食べることにする。よく考えれば、私にはもう食べる必要なんてなかったが、せっかく買ったのだしと、袋からジャムパンを取り出した。甘い匂いがする。パンはぱさついてしまっていて飲み物もなかったが、虫が寄ってこない内に手早く食べてしまうことにする。
でも私はどうやら食べることさえ早く出来ないらしく、すぐにむせてしまった。呼吸を落ちつけて、残ったパンを飲み込み、少しだけビスケットを食べることにする。ビスケットにかかったチョコレートは少し融けかかっていて、私の指はべとついた。さくりと、ビスケットに歯を立てながら、私は辺りを見回してみる。
木々はいつの間にかまばらになり、私の立っている一帯が明るくなっていた。しかし森の終わりというわけでもない。大きな木が根元から倒れていて、その分だけ差し込む光が増えたのだろう。黄色い花も咲いている。その花は家の近くでも見た事があるが、名前が分からなかった。メグなら分かるだろうか。
私はその花に近づいた。黄色の薄い花弁が五枚ある、近所でよく見る花だった。日当たりがいいからか、ここ一帯に群生しているようだ。私はその一本に手をかけ、折り取ろうとする。そして屈んだ所で、やはり止めておくことにする。この花を折り取ると臭みのある乳液が出てくると、メグが教えてくれたことがある。
私は花の茎から手を離し、もう一枚ビスケットをかじる。かじりながら、私は浅く生えた草の上に腰を降ろした。ここにしようと決めた。だからもう、動く必要がない。私は大きく深呼吸をする。土が近くなった分だけ、土の匂いと草の匂いが強くなった気がした。野の香りとでもいうのだろうか。
湿度がひどく高く感じられるため、快適というわけではない。それでも居心地が悪いわけでもなかった。慣れない旅のせいで、少し眠くなってくる。時々聞こえる虫の羽音さえ気にならなくなって来たので、私は木に寄りかかって目を閉じることにした。
しばらくしてここでは珍しいことに、私の頬を風が撫でた。風は生ぬるく、けして涼しさを感じることはない。しかし私の目を開けるのに、その風は十分な威力をもっていた。異臭がしたのだ。嗅いだ事のない匂い。
チーズ、野良犬の体臭、胃液。私の嗅いだ事のある匂いで思い当たるのはこの三つだったが、しかしそれともかけ離れている。腐臭。こんな森だ。大型の野生動物が一匹ぐらい死んでいてもおかしくはない。
私は腐臭をごまかすためにもう一枚ビスケットをかじる。そうして私は鼻に抜けるチョコレートの濃厚な匂いを感じながら、優しい光に抱かれて眠る、匂いの元を見つけた。