90.煩悩
心がとてもついていかない。
紅児は紅夏にしがみついたまま意識が朦朧としてきた。その時だった。
「エリーザ、我はそなたと叔父上の会話を聞くことができた。そなたの国の言葉も、そなたに触れたままなれば聞き取ることができる。……1人で抱え込むな」
「え……」
紅児は目を見開き、ばっと顔を上げた。
途端紅夏の気遣うような表情が見えて、紅児は一瞬目を伏せた。
それにしても驚きだった。
「あの……では、叔父との話は……。母のこととか、ええと……」
「そなたに告げぬのは悪いと思ったが全て聞かせてもらった。聞き取れるとわかっていれば叔父上殿は我に退出を促したであろう。だがそれは聞けぬ相談なのでな」
「あ……はい……」
事前に己に告げることはできなかったのだろうか、という疑問が浮かんだ。それが顔に出ていたらしい。苦笑される。
「エリーザ、そなたは顔に出やすい」
紅児は赤くなった。
「我が同席を拒まれた場合他の者が付くことにはなるが、叔父上殿が許すとしたら女性だけだろう。我ら眷属でこの世界の言葉が聞き取れるのは第一世代のみ。もし黒月が同席を許されたとしても役には立たぬ」
「……そうなのですか」
眷属にも世代によっていろいろ制限があるらしい。
「……やっぱり、花嫁様に報告する為ですか……?」
「それもある。が、我はそなたとセレスト王国に行くことになっているだろう。事情がわからぬでは話にならぬ」
そういえばそうだった、と紅児は納得して頷いた。
だけど。
「……そのことなんですけど……」
ここまでお膳立てしてもらって悪いとは思う。
だけど。
「私……どうしたらいいのかわからなくなっちゃいました……」
正直、怒られるかと思った。怒られないまでも諭されるかと。
けれど紅夏はただ頷いた。
「そなたのよいようにするといい。ただ今回帰国するならば決断は早い方がいい」
どこまでこの方はできた方なのだと紅児は思う。それと同時に気になった。
「今回、って……?」
「セレスト王国からの貿易船は1年に1、2度訪れる。叔父上殿と共に帰国するのが嫌なればその後に来る船に乗るということもできる。……何より花嫁様の言で今後セレスト王国からの貿易船はこの国に敵意を持たない限り四神の加護を得る」
「それって……」
「今後船は決して沈まぬということだ」
紅児はどういう表情をしたらいいのかわからなかった。
それが本当ならありがたいことだ。貿易もやりやすくなることだろう。
ただ、敵意とはどういうことだろうか。
「あの……敵意ってどういう……」
「利害の関係で国同士が争うこともある。戦争、というものはわかるか?」
「ああ、はい。歴史の授業で習ったことがあります」
「……そなたの国は平和なのだな」
「はい、そうなのだと思います。もうここ何百年も戦争は起きていません。でも……周辺の国はその限りではないようですが……」
「この大陸も同じだ。この国は四神の加護がある為攻撃してくるような愚かな国はないが、周辺諸国は小競り合いをくり返している」
「……花嫁様は、私の国が唐に攻めてくると考えているのですか……?」
口にしてみて少しショックだった。そんな風に己の国が思われているなんて。
「可能性の話だ。花嫁様の世界では貿易による齟齬で実際に戦争が起きたらしい。花嫁様の世界でのこの国は海からの敵を全く想定していなかった。それ故に戦争に負けたのだと伺った。だから想定できることは全て想定した上で対策を取っているだけだ。そなたの国が攻めてくる、と本気で思われているわけではない」
「そうなのですね……」
世界が違えば歴史も違うということなのか。
花嫁は帰れないのだと聞いた。この世界に花嫁の故郷はない。親兄弟も友達も何もいない。そんな過酷な経験をしているのに、それなのに花嫁はこの国の為に尽力している。
その花嫁に縋って、わざわざ迎えの船まで来てもらったというのに。
「……私、甘えすぎ、ですよね……」
さすがに自己嫌悪になった。
「花嫁様から言わせればそなたは子供だ。甘えられるうちに甘えておけばいい」
「でも……!!」
なんてことないことのように言うから、本当に甘えてしまいそうな己が紅児は嫌だった。
実際紅夏にとってはたいしたことではないのだろう。紅児が想像もつかないぐらい、長い、長い時を生きているのだから。
「ならば花嫁様に一度顔を出してやれ。話までする必要はない」
「そうします!」
即答してから気付いた。
そういえば昨日謁見室で別れてから、まだ紅児は花嫁に顔を見せていなかった。
そして、紅夏と話したことで少しだけ気持ちが上向きになっていることもまた。
花嫁の想定は、阿片戦争(1840-1842)やアロー戦争(1856-1860)に由来します。元は貿易摩擦から起こった戦争でした。
煩悩、中国語で悩み、という意味です。




