89.愛人 ※R15
クイ、と頤を持ち上げられ、口づけが降ってきた。
まるでよく言えたご褒美といわんばかりなそれに頭がぼうっとなる。
「エリーザ、そなたは我の終生の妻だ」
溶ける、と紅児は思った。
そんな魅力的な顔で、そんな甘い科白を言われたらぐずぐずに溶けてしまう。
母や叔父に対する憤りも何もかもどうでもいいことのように思えてしまう。
「……とても……とても長く生きるのに……?」
耳元に口づけられ、首筋を辿られる。甘すぎて愛しすぎて怖くなり、紅児はついそんなことを口にしてしまった。
「”つがい”は絶対だ。心変わりなどありえぬ」
ひどく真摯な言葉に紅児はその身を震わせた。
「それよりも……」
テナーなはずなのに低い声が鎖骨の辺りからする。
「そなたが心変わりをするなど、許さぬぞ」
「あっ! そんな……心変わりなんて……」
「まぁよい。そなたが心変わりなどできぬほど愛してやればいいだけだ」
(……だからどうしてそういうことを言うの!?)
恥ずかしさと嬉しさで瞳が潤んでくる。
「紅夏、さま……」
(抱いて、くれるの?)
紅児は身も心も紅夏に捧げたかった。そうすることで何もかもを忘れたかったのだ。
それは己を大事にしてくれている紅夏に対してとても失礼なことだったのかもしれない。けれど今の紅児には彼を思いやる余裕はなかった。
丹田から”熱”を与えられる。
「ああっ……!!」
”熱”を受けた体が蕩けていく。
紅児は泣いた。泣いて泣いて泣きじゃくり、そうしてやっと眠ることができた。
結果として、紅夏は彼女を最後までは抱かなかった。
報告に向かった紅夏は「なんて忍耐力が強いの!?」と花嫁たちに驚かれたのだが、それはまた別の話である。
* *
翌朝、紅児は紅夏の腕の中で目覚めた。かなり長いこと眠っていたようで、体がうまく動かせない。
(昨日……私……)
寝転がったまま昨日のことを少しずつ思い出す。
叔父に会った。衝撃的なことを聞かされた。
信じられなかった。信じたくなかった。
紅夏の腕の中にいた。そして、紅児から「お嫁さんにしてほしい」と言った。
そこで紅児は真っ赤になった。
けれど。
(……抱いてくれなかった……)
眉根を寄せる。己を抱き込むように眠っているであろう紅夏の頬をつねった。その手を掴まれる。
「……朝の挨拶は口づけでお願いしたいものだ」
ぱちりと開いた目は全然眠気を感じさせなかったことから、もっとずっと前に紅夏が起きていたことがわかる。
紅児は恨みがましい目で紅夏を見た。
「……私……お嫁さんにしてって……」
言ったのに、までは言えなかった。彼の唇に塞がれてしまったから。
ごまかされたいわけではないのに、いつだって紅夏の口づけには逆らえない。
諦めて紅児は目を閉じた。こうするからには紅夏がきっとよいようにしてくれるのだろう。いろいろ考えすぎて疲れているというのもある。
正直、もう何も考えたくはなかった。
「エリーザ、そなたは我の妻だ。抱くのは……そなたが落ち着いてからだ。逆らうことは許さぬ。妻は夫に仕えるものだ、わかったな?」
「……はい……紅夏さま」
きっと元気な時ならば紅児も反論しただろう。この国ではそれが当たり前だろうが自国の教えはそうではない。ただ自国の教えとやらも建前ではあるのだがそれは紅児の知るところではなかった。
決めるのが紅夏だと宣言してもらったことで紅児は気持ちが少し楽になった。
頭の中がぐちゃぐちゃでまだよくわからない。けれどいずれ叔父も帰国しなければならない。商売のついでだとして何日この国に滞在するのだろうか。
(帰りたいのかどうか……わからなくなっちゃった……)
船に乗れるかどうかという不安もある。またあのような発作が起きたら乗れないだろう。
母には会いたいと思う。
でも再会を喜んで、それで?
叔父に男の子が生まれた。
(私はもう、跡取りじゃない……)
両親に会いたいという願いもあったが、紅児ががんばってきたのは跡取り娘だという矜持だった。
けれどそれももう否定された。
(私は……もう必要じゃない……)
紅児の様子に気づいたのか、紅夏にまた抱きしめられた。
つがいとは心も添うのだろうか。
紅児はまた彼にしがみついた。
帰国する意義もなくし、この先どうしたらいいのかわからない不安の中で、また彼女は途方に暮れてしまった。
愛人 中国語で夫、妻の意味。日本でいう愛人の意味はございません。




