79.文化の違い
香山を降りるにもそれほど時間はかからなかった。
その分上に長くいられてよかったと紅児は思った。降りてしまうと木々に遮られて山が見えない。降りたところでは案内役の男性が待っていた。
「昼食は見心斎にご用意させていただきました」
そう言って西側の道に先導される。手前に見えてきたのは彩色された荘厳な門だった。そこは昭庙というラマ教の寺院であるらしい。案内役は特に入ってはどうかなどと声はかけてこなかった。そこから更に北に行くと壁に囲まれたところがあった。
そこが見心斎だった。
「こちらはかつての皇帝が大臣の衷心を審査された場所だと言われております」
(ああ、それで……)
見心斎という名の由来に紅児は軽く頷いた。一応事前に紅夏に昼食を取る場所の名前とその文字の意味を教えてもらっていたのである。
この国の文字はとても多くてまだよく使うもの以外は理解できないことが多い。花嫁が手配してくれた教育係の老師はいつもにこにこして「ゆっくりでいい」と言ってくれる。でもできれば花嫁の役に立ちたいから、紅児はできるだけ時間を見つけては練習するようにしていた。
先ほどとは違い落ち着いた色合いの門から中に入る。建物に囲まれた中庭、というのだろうか、池があり風光明媚な情景を作り出していた。
「すてき……」
こういう庭園も素敵だと紅児は素直に感嘆の声を上げた。それに案内役の男性が口元を緩めた。
庭園をぐるりと見て回ってから食事が用意されているという建物の中に入る。清漪園のようにまた豪華で繊細な料理が用意されていた。
それはいいのだが、やはり紅夏に食べさせられるというのが慣れない。四神宮の食堂ではもう諦めて半ば開き直っているが、ここは初めてのところだし冷たい物は冷たいまま、温かい物は温かいまま出すようにと給仕の者たちが側に控えているのである。だからといって紅夏の給餌をやめさせるというのは不可能だろう。
紅児は心の中でそっと嘆息した。
料理はとてもおいしかった。失礼かと思ったが食べた料理の名前を書いてもらった。もし花嫁に聞かれた時答えられるように。
そんな紅児の様子を紅夏は微笑ましく見つめていた。
静宜園の敷地はとても広いらしい。いくらなんでも見きれないので元来た道を戻り、遠目に昭庙にある琉璃塔を眺め、少し散策した。木々が冷たい風を遮ってくれるのと、紅夏に抱き寄せられるようにして歩いているので寒さは少しも感じなかった。
(ずっとこうしていられたらいいのに……)
紅夏の妻になればこうしてずっと二人きりでいられるのだろうか。
寒くなってきたせいか紅夏への依存が強くなってきているように紅児は思えた。
「そろそろ戻ろう」
「はい」
静かな、2人だけの世界から騒がしい王都の中心地に戻る。紅児にはそれがなんとなくもったいなく感じられた。
行きと同じだけの時間をかけて馬車は王城の近くの繁華街に着いた。時刻はすでに夕方に差し掛かろうとしている。
馬車に乗っている間に、いつのまにか紅児は眠ってしまった。紅夏によってここ2か月程睡眠時間が削られているのだからしかたないのだが、紅児はもったいないことをしたとひどく残念に思った。
侍女たちが教えてくれた店は馬車を降りてすぐに見つかった。荷物になるのでそのまま馬車を待たせておくことにし、紅児はその比較的高そうな店に足を踏み入れた。
これからの時期物のせいか、綿入れはすぐ見える位置に並べられていた。どこの店でも衣類は注文されてから仕立てるのが一般的だが、綿入れなどは時間がかかる為基本の形はこうして置かれているらしい。そういった物でよければその場で包んでくれる物もあると聞いたのでこの店を選んだのだった。
それほど種類はなかったが紅児は養父母を思い浮かべてどれにしようかと悩んだ。
基本の形、と言われるだけあって刺繍なども一切されていないシンプルな物しか置かれていない。目立つところには見本と思われる品もあったがさすがにそれはすぐに譲ってはくれないだろう。
「お嬢様、どういったものをお求めでしょうか?」
だから店員に声をかけてもらった時は助かったと思った。
「中年ぐらいの方に差し上げる棉袄を探しています。男性用と女性用の2着で」
「お急ぎでしょうか」
「はい、できればすぐにほしいです」
「それではこちらなどはいかがでしょう?」
店員が選んでくれたのは少し色味が沈んだ物ばかり。紅児としては年をとっているのだからかえって明るい色の物がいいと思ったが、そういった物を養父母が着てくれるかどうかを考えて結局諦めた。店員が選んでくれた中で一番色が明るい物を包んでもらう。自分の服ではないが久しぶりにこういう店にこれて楽しかった。
いい買い物ができたとほくほくしていたら、それまで気配を感じさせなかった紅夏が後ろから声をかけてきた。
「エリーザ、そなたはいいのか?」
「? なにがですか?」
振り向いて首を傾げる。なんの話だろう。
「そなたにも棉袄が必要だろう」
「でも私はいつも四神宮にいますし……」
暖石も持っているからいらないと思ったが、紅夏はさっさと店員を呼んであれこれと指示を出した。紅児は目を白黒させてそれを見守ることしかできない。
どうやらここに置かれている物ではなく、改めて注文したようだった。
(慣れてる……)
紅児の国では既製品がかなり普及している。しかも紅児は王都に住んでいたからオーダーメイドこそ慣れないものだった。けれどこの国では布から選ぶのが当たり前。貧しい者は自分たちで服を縫う。いろんなところで違いを目にしてその度に紅児は驚いている。
「後日四神宮に届けてくれるそうだ」
「……ありがとうございます」
なんだか気恥ずかしくて小さい声になってしまった。そんな紅児を紅夏が抱き寄せ耳元で囁いた。
「ご褒美は後ほどいただこう」
紅児は誰が見てもわかるぐらい真っ赤になった。
書き言葉を習っているというのは60話を参照のこと。




