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78.香山

 国では山というものを見たことがなかった。セレスト王国は平野が非常に多い。紅児(ホンアール)が住んでいた王都の周りにはなく、山があるのは国境線の近くが主だった。しかも国境に近くなればなるほど標高が増していき、高く聳え立つ山々が人間を圧倒する。その山々に三方を囲まれた大国、それがセレスト王国である。

「見ればわかる」

 紅夏(ホンシャー)の言葉に紅児は頷く。今まで香山(シャンシャン)というのはただの地名だと思っていたが”山”であったらしい。

 大門の脇の扉から香山の敷地に足を踏み入れる。清漪園の時のように門の前では案内役と思われる男性が待っていた。今回は下見も兼ねているためか、案内役の申し出を紅夏が一蹴することはしなかった。

「香山に登りたい。登山口を教えよ。それから食事をとる場所を伝えるように」

「はっ。突き当りを右に曲がりまっすぐ行かれれば登山口が見えてまいります。ですが香山は些か道が険しくなっております。よろしければ輿を用意いたしますが……」

「必要ない」

「承知しました。なにかございましたらお声掛けください」

 清漪園でもそうだったが、人の気配は感じないがきっとかなりの人数が配置されているのだろう。そうでなければ案内役がちょうどよく現れることなどないからだ。

 紅夏は香山、と言っていたが正式名称は静宜園(ジンイーユエン)という。香山の他に宮殿、楼閣、庭園などで構成されている非常に広い皇族所有の避暑地である。きちんと見て回ろうと思えば一日ではとても足りないが、紅夏はそれほど長居するつもりはないようだった。

 腰を抱かれ、案内役の男性に教えてもらった方向に進む。昼食は山を降りた後でとるらしい。

(降りる、ってことは上るのよね?)

 おそらく自国の言語で言われればわかるのだろうが、さっぱりである。

(『丘』かしら?)

『丘』なら上ったことがある。けれど「道が険しい」と言っていた気がする。紅児は首を傾げた。

 やがて登山口と思われる場所に着いた。扉のついていない門のようなものをくぐると石造りの階段があった。見上げるとどこまでも続いている。

 こんなにいっぱい上れるだろうかと紅児は不安になった。

 だが紅夏にくっついているせいか、登るのは全く苦ではなかった。しかも彼はかなりのスピードで上がっている。一応移動が目的ではないようで、ところどころで足を止めてくれる。木々が開け、景色がよく見えるようになる。

「わぁ……」

 思わず紅児は感嘆の声を上げた。

 赤・橙・黄色、ところどころに緑、そして茶色っぽく見える葉。

 山々は美しく、萌えるように色づいていた。

「きれい……」

 こんなにも美しい景色を、紅児は今まで見たことがなかった。

 紅児の国は一年中春と言われる気候の国だったから、最初この国のそれにはひどく戸惑いを覚えた。なにせこの国に着いた時、王都は冬だったのだ。あまりの寒さに初めての防寒着を買い、そして……。

 その後のつらいことまで思い出しそうになり、紅児は軽く首を振った。せっかくこんなきれいな景色を見せてもらっているのにあんなことを考えるのはもったいない。

「朱雀様の領地でも見られるのですか?」

 顔を向けて尋ねる。

「残念ながら領地は冬でも春のような陽気でな。雨季と乾季に分かれているだけだからこのような美しい紅葉は見られぬ。ただ、高地に行けばまた別だが……」

「そうなのですね」

 こんなにきれいな紅葉が見られないのは残念だが、暖かいところだと聞いて紅児は嬉しくなった。

 例え帰国したとしても年をとらない紅夏と紅児がずっとセレスト王国に住むのは無理だろう。誰かに跡目を譲ったらこの国に戻ってきて、朱雀の領地で暮らすというのはいい案のように紅児には思えた。

「朱雀様の領地はどこにあるのですか?」

 紅夏が嬉しそうに目を細める。そういえばまだ聞いたことがなかった。

「この国の西南の外れにある。内陸だな」

「西南……」

 紅児がいた村は東北だからまるきり反対の方向にあると言っていいだろう。流れるように歩を進め、やがて頂上についた。

 頂上は香炉峰というらしい。それなりに高さがあるらしく、王都が一望できた。

 丘よりも高さがあるものを”山”というらしい。紅夏に抱かれて登ってきたせいかそれほど距離があるようには感じなかったが、きっと自分の足で登ったらかなり時間がかかるに違いなかった。

 王都を遠くに見ながら、王城を探す。しばらく探してみたが土地勘のない紅児にはよくわからなかった。改めて周りの山々を見る。王都の中心地に向かうにつれ緑が多くなっているが、この辺りの山々は赤く色づいていた。

「花嫁様も、この景色をご覧になるのですね……」

 感慨深そうに呟くと、顎をクイ、と持ち上げられた。

「エリーザ」

 しまった、と紅児は思った。

 そっと口づけられる。

 優しい口づけだった。けれどやはり紅夏の目は笑っていなくて。

(今度ちゃんと話し合わなくちゃ……)

 紅夏は嫉妬深いのが玉に瑕だ。だが紅児は花嫁に仕えているのである。しかも花嫁は紅児の恩人だ。

 花嫁の話をする度に焼かれていてはたまらない。

(もう……)

「紅夏様……下見に来たのですよね?」

 そう確認するように言うと、紅夏は笑った。

「そうであったな」


 彼らはしばらく頂上からの景色を眺めた。

 紅児は目に焼き付けるように。

 もう2度とこの景色を見ることはないだろうから。

朱雀の領地は雲南省辺りの設定です。

四神の領地は辺鄙なあまり人が住まない地域です。(実際の雲南省はとてもいいところです)

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