39.再見
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北京の夏は日の出が早い。
まもなく盛夏とも言えるこの頃、馬車に乗った時間はすでに東の空が明るくなってきていた。
前日、翌朝が早いから紅夏の部屋に泊まるかなどととんでもないことを言われたが、紅児は丁重にお断りした。婚前に性行為をすることのタブーは感じないが、紅夏に抱かれたいと思うほど好きとはまだ言えなかったからだった。
実際何事もなかったにしろ好奇の目にさらされることは避けたい。そうでなくても昨夜は質問責めにしようと手ぐすねを引いて待っていた侍女たちに、朝が早いからと遠慮してもらったのである。その分今夜は避けられそうもないのだが……。
ふわぁ……とあくびをしかけて急いで口元に手を当てる。そんな紅児をすぐ横で紅夏が優しい眼差しで見つめていた。
「まだ眠いだろう。着くまで我にもたれているといい」
頭を紅夏の肩にもたせかけられる。紅児は頬を染めた。
これではまるで恋人同士のようではないか。
けれど誰が見ているわけでもないし、逆らう理由も思い浮かばなかったので紅児は素直にその提案を受け入れることにした。
そんなところがすでにほだされている証拠なのだが、鈍い紅児にはまだわかっていない。紅夏は内心ほくそ笑みながら紅児の髪を優しく撫でた。それが気持ちよかったのか、馬の家に行くまでの短時間に紅児は少し眠ってしまった。
「紅児、着いたぞ」
耳元で心臓に悪いテナーを囁かれ、紅児は一気に覚醒した。
「あ、あああありがとうございます!」
紅児は思わず耳を押さえた。一歩間違えば目覚める前に昇天してしまいそうだと思うほど紅夏の声は甘かった。
顔は真っ赤だが仕方がない。気を取り直し紅夏にエスコートされて馬車を降りる。
そこはバラックと言っていいほど粗末な家だった。馬の家だけではなく、そこら一帯の家が全てそんなかんじの造りである。道も一応敷石で舗装はされているが、いろいろな物が落ちていて進むのがたいへんそうに見えた。
紅夏が家の扉を軽く叩くと中から馬が出てきた。
「お、ホントに来られたんですかい。ちょうどよかった」
そう言って馬は一旦家の中に戻り、しばらくもしないうちに養父を伴って出てきた。
「……紅児」
養父は紅児の姿を見て目を見開いた。
「おとっつぁん、ごめんなさい! どうしてもおとっつぁんの見送りをしたかったから、わがままを言って連れてきてもらったの!」
紅児は否定の言葉を聞きたくなかったから、遮るようにして一気に言い俯いた。
養父の反応が怖くて、紅児は顔を上げることができない。養父はしばらく黙っていた。
紅児は何を言われるのかとどきどきして心臓が壊れてしまいそうだと思った。
その肩をそっと大きな手が抱く。顔を上げずともわかる。そんなことをするのは紅夏に違いなかった。
「……そうか」
ぽつり、と言った科白はどうしてか泣いているように聞こえた。
紅児は弾かれたように顔を上げる。
養父が片手で顔を覆っていた。
馬がそれを優しく笑んで見守っている。
「……おとっつぁん?」
もしかして養父は泣いているのだろうか。おそるおそる声をかけると、養父は覆っていた手で顔を拭った。
「……だから嫌だったんじゃ。お前の顔を見たら、泣いちまいそうじゃったから」
なんでもないことのように言う養父の目は赤い。
「おとっつぁん!!」
紅児は思わず養父に駆け寄り、抱きついた。養父は少しよろけたが、それでも紅児をどうにか支えた。
「……全く、今生の別れでもないんじゃがなぁ……」
そう呟く養父に、それでもきっともう二度と会えないことも覚悟しているのだろうということだけはわかった。
「そう、そうだよね……でも……」
紅児もまた涙腺が決壊したようだった。後から後から涙が溢れてくる。
「寂しいよ」
3年間支えてくれた養父母に会えなくなるのは、心にぽっかりと穴が空いてしまいそうなほど寂しい。
素直に心情を吐露した紅児の背を、養父はぽんぽんと軽く叩いた。
「寂しいのはお互い様じゃ。ここに『思い』があるから、寂しいんじゃ」
紅児は養父に抱きついたまま何度も何度も頷いた。
「参りましょう」
紅夏に促され、養父は荷物をしょって馬車に乗り込んだ。
「お世話になります」
長距離の馬車は行き先によっては1日に1便しか出ないこともある。紅児は申し訳ない気持ちになり俯いた。
馬車の中で紅児は養父母たちが当座必要になるであろうお金を渡した。養父は難色を示したが紅児も引きさがらなかった。
「今まで迷惑かけ通しだったんだから、少しは親孝行をさせて!」
と言ったら、養父は照れたように笑ってどうにか受け取ってくれた。
金額がそれほど多くなかったというのも理由の一つかもしれない。残りは後日店に直接届けてもらうようすでにこっそり話は通してある。あまり大金を持たせて狙われてもかなわないし、それに金額が大きければ大きいほど受け取ってもらえないだろうと思ったからだった。
馬車はそれほど経たず、目的地についた。
長距離乗合馬車の乗り場は朝も早い時間だというのに活気に満ちていた。
「天津! 天津!」
「石家庄! 石家庄!」
「唐山! 唐山!」
馬車の前で男たちが行き先を叫んでいる。その行き先を頼りに馬車を探すのだ。
紅児は目立たないように頭に布を被り、養父に付き添っていた。
「ここまででええ」
「うん……」
途中まで行く馬車も特定できたし、早く乗せないと人でいっぱいになってしまうだろう。
わかっていてもいつまでも名残惜しく付いていく自分が紅児は嫌だった。
「おとっつぁん、元気で……」
「紅児もな。……紅夏様、紅児をどうかよろしくお願いします」
少し離れたところで2人を見守っている紅夏に養父は声をかけた。
喧騒に紛れて届かないだろうと思ったが、振り向いた紅児には紅夏が頷いたのが見えたような気がした。
「おっかさんによろしく!」
「ああ」
養父が馬車に乗り込み、姿が見えなくなる。けれど紅児はその馬車が出発するまで離れたところでじっと見守っていた。
いつまでもいつまでも。
秦皇島に直接向かう馬車はないので、養父はまず唐山に行き、乗り換えることになっています。どうでもいい設定でしたー。




