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三国志自由研究

魏延は関羽?

作者:練り消し
魏延といえば数多い三国志の人物の中でも、
未だ多くの人々から蛇蝎の如く毛嫌いされている筆頭くらいの人物だが、
しかしそのキャラクター性の多くは明代に成立した
白話小説の『三国志演義』に負っている面が強く、
これが実際、陳寿の手による歴史書としての正史『三国志』との間には、
知ればかなりのギャップが存在することに戸惑うことが多い。

唐・宋・元の時代を通し、主に民間の伝承などをベースに明の時代、
恐らく羅貫中の手により編纂されたのではないかとされる『三国志演義』は、
読み物としては『水滸伝』、『西遊記』、『金瓶梅』と並び“四大奇書”と
称される物語りで、
それらと同様、作中の登場人物がかなり現実とは懸け離れた神通力を持ち、
有名な、赤壁の戦いで孔明が祭壇で祈って東風を吹かせるシーンなど、
かなりSFに近い作りとなっている。

読み物としては面白いのだが、ただその反面、
主役以外の脇役が昔の日本のロボットアニメや特撮ヒーロー作品の敵役みたく、
主役との引き立てのため、
極端な差別化が図られるといった弊害もまた酷い。

周瑜などは、
「天はこの周瑜を世に生みながら、なぜ諸葛亮をも生まれさせたのだ!」と
絶叫しつつ、
血を吐いて壮絶な憤死を遂げるなど、
全く孔明のいい引き立て役にされてしまっているが、
魏延などもまた、
かなりその面で割を喰った被害者の一人のように思える。

魏延でいえば先ず彼を始めに見出し、
重用したのは劉備である。
しかもその厚遇振りが半端ではない。

魏延は211年、劉備が荊州から益州の劉璋を攻める一連の戦いに頭角を現し、
そこで目立った戦功を挙げ、
たったその僅かばかりの短い期間の間に、
一部隊長の身分から牙門将軍にまで昇進する異例の抜擢を受け、
そしてさらにまたその後、219年。
劉備が漢中王に即位した際にはその劉備から直接、漢中太守に任命されるなど、
とにかく劉備個人からの異常な程の寵愛で、
他の古参の重臣達を一気にごぼう抜きする程の大昇進を遂げる。

だからもうこの魏延に関しては他の誰が云々ではなく、
他ならぬ劉備本人の魏延好き振りが尋常なものではなかった。

特に魏延の漢中太守就任に関しては、他の多くの重臣達は皆、
張飛がその任に起用されるだろうと見ていたそうなのだが、
それを覆す異例の人事だった。
詰まり関羽と張飛の対比で、
しかしもし劉備にとって張飛を超える程の存在となれば、
これはもう関羽しかいない。
ということはそれでいえば、
劉備の中で魏延は張飛以上、関羽と同等だったことになる。
というより、
劉備にとって魏延は彼が人生で見つけた、
第二の関羽だったのではないか。

元より魏延には関羽との共通点が多い。
先ず他者に抜きん出て突出した圧倒的武勇。
そしてその武勇に対する己の自負心の強さと気位の高さ。
それと何より、最も重要なことは、
劉備に対して絶対の忠誠心を持っているという点。

劉備の関羽に対する扱いはやはり特別で、
それはたとえば、日本の西郷隆盛が郷土薩摩隼人の典型として
桐野利秋を可愛がっていたような、
そんな一種、人間の芸術品を見るような独特なまなざしを持っていたように
感じられる。

“こんな男にもう、人生で二人と巡り合うことはないだろう”という程の、
しかしそのような人間を、
劉備は再び見付けてしまった。
だから彼の魏延に対する異常な程の寵愛は、そういったところからくる、
劉備本人の強い感動の大きさの表れのように思えるのだが、
だとすれば現代の我々はこの魏延という人物の認識に、
相当な見立て違いをしていることにもなってくる。

魏延は劉備から漢中太守に任命され、
その劉備から新太守就任の抱負を聞かれた際、
「曹操が天下の兵を挙げて攻め寄せて来るならば、大王のためにこれを防ぎ、
配下の将軍が10万の兵でやってくるならば、
これを併吞する所存でございます」と語り、劉備やその他群臣一同、
その勇敢な発言を聞いた者達を大いに感心させたというのだが、
しかしこれは魏延の単に調子のいい言葉などではなく、
おそらく彼の心からの本心だったに違いない。
またこうした言葉は関羽が劉備に対し、
いかにも言っていそうな言葉だ。

魏延が孔明の最後の北伐で、
その孔明が陣中に没し全軍撤退の決断が下されたとき、
彼一人のみがその決定に従わず、北伐の継続を頑なに主張した態度こそ、
彼の亡き劉備の志に対する忠誠心の現れだと捉えることができる。

蜀中で劉備個人に対しての忠義から、
魏打倒の北伐を何がなんでもやり遂げようとしていたのは、
孔明最後の北伐遠征の当時でいえば、
その孔明本人を除いてはもう魏延くらいしかいない。
他の者達にとっては、
仮にもし蜀が魏に制圧されることがあっても、
また仕える君主が変わるだけのことだ、くらいにしか思っていなかったろう。
そもそも後主の劉禅からしてそうだった。

魏延は孔明の死後、孔明の残した遺言通りに全軍を撤退させようとする、
丞相長史の楊儀と激しく対立する。
元々それまでも、北伐の軍中では非常に険悪な仲で有名だった二人だが、
楊儀とは魏延と同じ荊州の出身で、
魏延は劉備に見出されたが、楊儀の方は元々曹操軍の配下で、
荊州刺史・傅羣の主簿として仕えていた。

しかしやがて傅羣の下から関羽の下へと走って関羽から郡功曹に取り立てられ、
さらに中央へと送られ、
そこで今度は劉備からもいたく気に入られて、
219年、劉備が漢中王として即位し、
魏延が漢中太守となった時には、楊儀は楊儀で彼もまた劉備の信任を勝ち取り、
彼は中央で尚書(人事担当の要職)となった。

楊儀は軍務に明るく、特に孔明の北伐ではその実行に不可欠な
補給面で大いに手腕を発揮して、
蜀軍の困難な遠征を助けた。
実際この楊儀の働きがなければ孔明の北伐遠征自体にも、
相当な支障が生じたことだろう。

が、
彼は優秀だったがその一方で己を才を誇る余り非常に自尊心が高く、
また狭量で傲慢な人間だった。

といって無論、
自己の才能に対しての自負心ならば魏延も持っていたし、
魏延に限らずのことだったが、
ただ特に楊儀と魏延との違いで言えば、
楊儀には劉備に対してそこまでベッタリの忠誠心などはなかった。
だから北伐に関しても彼には孔明や魏延のような拘りがない。

魏延はもう実力行使で蜀軍が帰ろうとする途中の桟道を落とし、
成都に「楊儀が謀反を起こした」と報告をする。
が、楊儀もまた「魏延が謀反を起こした」と報告し、
そしてその結果、劉禅の決定により、
最終的には魏延が謀反人として討伐されることとなってしまった。

劉禅の諮問に対し、董允と蒋琬が楊儀のほうを支持したことで
そのような仕置きとなってしまったのだが、
その理由はやはり、
孔明の遺命が撤退であり、
またその際、もし魏延が撤退を聞き入れなければ、
構わず魏延だけ残して引き揚げろとの言葉まで孔明が残していたため、
董允と蒋琬は飽くまでその指示に対し、
忠実に従ったということだろう。

しかし決して孔明が魏延を謀反人扱いしたわけではない。
やはり孔明がいなければ北伐は難しい。
後に姜維がその孔明を上回る程のペースで魏への北伐を行うが
芳しい戦果は挙げられず、
むしろ無理な遠征で国内を疲弊させたとの厳しい批判を
受けてしまうほどだった。
そして最後にはもう、
姜維は成都にも戻れず北方の陰平郡で孤立してしまうが、
五丈原の戦地に一人残された魏延もまた、
状況的には良く似ているようにみえる。

孔明としてはだから、魏延の北伐続行の意思に、
蜀の国として賛成することまではできないが、
せめてそっとしておいてやれといったところではなかったか。

この点については正史『三国志』の作者の陳寿自身が、
「魏延が北へ行って魏に降伏せず、南に帰ったのは、
政敵の楊儀を殺そうとしたためで、謀反を起こそうとしたのではない」と
ワザワザ書いているほど、
魏延の孔明死後の彼の行動は、飽くまで楊儀との政争だ。

楊儀の方は逆に、魏延との争いには勝利するものの、
その後、孔明の後継に自分が指名されなかったことに不満を持ち、
「こんなことなら嘗て丞相(諸葛亮)が死んだ際に、
軍をあげて魏についていれば、
今このように落ちぶれることもなかったろうに」と、
迂闊にポロッと本心を漏らしたところ、
その言を密告されて庶人にまで落とされ、
やがて自殺した。

後世に現代人が見ていわゆる“嫌なヤツだ”と思う典型は
まさにこの楊儀のことなのだが、
これがだからどうも、
『三国志演義』ではこの史実に於ける楊儀のキャラクターが、
かなり魏延に覆い被さってきてしまっているようである。

魏延には関羽などと同様、“士大夫に驕る”といった気位の高さはあったものの、
演義で見られるような蜀の国への“反骨心”などは全く持ち合わせていない。
それを持っていたのは“魏に寝返っていれば”と漏らした
楊儀のほうだ。

この楊儀に関し、
かつて劉巴という人が病死した法正の後を継いで蜀の尚書令だったころ、
彼がこの楊儀を徹底的に嫌って中央から地方へと左遷し、
一切用いようとはしなかった。
元々楊儀は主君の劉備本人、直々の任用だったわけだから、
それを辞めさせるのというのはもう余程のことである。

尚書令とは中央の人事を受け持つ尚書組織の長官で、
名目上のトップは録尚書事といい、これは丞相だった諸葛亮の兼任。
尚書令は実務を担当する最高の責任者となり、
だけでなく、
もし丞相の孔明が何か不慮の病などで倒れてしまった場合、
尚書令の劉巴はそれに代わる、実質の政権№2。

劉巴という人も現代、一般的に知名度は非常に低いが、
実際には龐統や法正にも並ぶ才幹で、
孔明に代わって宰相の任をこなすことも、北伐の続行も可能な、
蜀中数少ない希少な人物の一人だった。
残念ながら若死にしてしまったのだが彼もまた、
龐統や法正同様、
その早世が惜しまれるスーパー級の軍師の一人だった。

そんなスーパーな彼だから、別に楊儀一人辞めさせたとして、
その分の働きは全部自分一人でカバーできたのだろうが、
しかしそんな劉巴に先立たれ、
さらに北伐という難事業を遂行せねばならない孔明では、
楊儀はどうしても使わざるをえない。

これはだから例えば馬謖の任用などにしても、
元々人材難の蜀という弱小地方国家に在って、限られた才能を最大限、
有効活用していくようにしなければ、
とても北伐のような大規模事業は起こせない。

馬謖は確かに孔明が劉備からも直接、
「口先だけから重用してはならない」と注意を受ける程の要注意人物だったが、
しかし蜀中でそんなことは馬謖に限らず、
関羽・張飛・簡雍・糜芳・傅士仁・法正・李厳etc・・・、
皆いつ誰がどこで何を仕出かすかもわからない者達の集まりである。

人から指摘されるような問題は当然、孔明にもわかっている。
だが彼らを使わなければ仕事にもならない。
むしろ孔明こそ、そんな欠陥だらけの人材を上手く活かし、
蜀漢の建国を含め、大業を成就させたと見るべきで、
だから李厳がしでかした事件や街亭の馬謖の失態などにしても、
似たような失敗は、程度の大小の問題で過去にもたくさんあったろう。
しかし劉備みたく、危ないからと言って選り好みなどをしていれば
何もできないまま。
が、それでも敢えて、魏打倒というような困難な事業に
立ち向かおうとするのであれば、
とても選り好みなどしてはいられない。
それでも細かいリスクは止むを得ず覚悟の上として、
孔明は全体に於いて最大限の成果を引き出したと言えるだろう。

だからこれがもしその孔明でもなければ、
それこそ“ああ、もうこんなヤツらばっかで、これじゃどうにもならない”で、
終わっていただけの話である。

大体、馬謖を他人事のように非難していた劉備にしたところで、
彼は演義では、孔明に政戦の一切を任せ、
その助言に対しても全て言われるがまま、ホイホイ何でも素直に従っているが、
史実における実態ではこれがどうして、内政は未だしも、
劉備は軍事に関してだけは、
決してその統帥権を他人に譲り渡すことがなかった。

孔明は確かに劉備の存命中には、
彼が直接軍を引率して戦争に出向くということは殆どなかったが、
それは別に彼が軍事に疎かったからではなく、
そもそも劉備は本人、あれだけ戦下手のクセに、
にも関わらずどんな戦場にも必ず自ら、
直接兵を率いて出ていくことを絶対に止めず、
また軍の指揮権を決して他人に譲ることがなかった。

しかも劉備は現場で帷幕の参謀達の助言などにも碌に耳を貸さない。
そしてそれこそが恐らく彼を戦下手にしている最大の要因だったに違いないが、
それで延々、毎回パターンのような負け戦さの繰り返し。

その負け戦に一々従わねばならない配下の者達こそまったく哀れなところだが、
ただそんな中で唯一人、法正だけが例外で、
彼のみは非常に上手く劉備にアドバイスする要点を掴み、
何とか劉備に稀有な戦勝を齎すことができたのだが、
しかし夷陵の戦いでは黄権や馬良を従えながら、またも大敗を喫した。

彼らのレベルなら、危難を避ける的確な助言を与えることは問題なく、
黄権は実際劉備に対してそのような進言を行ったのだが、
どういうわけか劉備はその言には従わず、
だけでなくそれ以上、黄権からの諫言を嫌うように、
彼を配置変えして自分の身辺から遠ざけてしまった。

馬良にしても同様、彼もまた劉備の側仕えではなく、
夷陵遠征時に彼に与えられた役目は南方、
武陵の蛮族を服属させて呉の討伐に協力させる任務だった。

そんなことは他に誰でも適任者がいそうなもので、
詰まり彼に至ってはもう、現場で言われそうなことは始めからわかっているから、
あらかじめ劉備に参謀から外されたのだろう。
だから法正にしたところで、
彼だって劉備への助言は決して容易なことではなかった筈だ。

だから厄介なのだ。

孔明が演義とは逆に、劉備に付き添って軍を率いることがなかったのは、
先ず劉備がその軍権を他の誰にも渡さないということと、
そして何より、
彼までがそんな、人の言うことを聞かない劉備に付いて、
一緒に負けてしまってはどうにもならないからだ。

そのため、後はただひたすら、
孔明は負けて帰ってくる劉備にまた必要な兵員その他、補給物資を整え、
何とか軍の没落を底支えしていくということが、
史実での彼の劉備軍での役割となった。

大体、歴史上の事実とはやはり、
そのような必然の積み重ねで作られたもので、
だからたとえば現代の、
過去の歴史の結果を全て知っている人間がタイムスリップして、
その過去に戻って歴史を変えようとしても、
先ず変わってはくれない。

仮にハンニバルやスキピオのような軍事的天才が劉備の下に仕官したとしても、
そこではやはり史実での孔明と同じような役割しか与えられず、
たとえ夷陵の敗戦を知った後世の人間が、
劉備のところにいってその行動を正そうとしても、
そもそも劉備はわかり切った先の危険に対する諫言に
まったく耳を傾けようとしないのだから、
これもまた上手くいかず、
史実での馬良と同様、戦場で共に命を落とすハメに陥りかねない。

非常に諸葛孔明の苦労も偲ばれるところだが、
蜀とは詰まり、そんな人達ばかりの集まりで、
楊儀などにしても、
彼のような偏狭で小器量の人物がとても一国の宰相など、
まったく笑止でしかないのだが、
本人は至って大真面目にそう考えていた。
だからこれなども詰まり、
孔明が普段から楊儀を気分良く煽てて使っていたということだろう。
元より下手にその機嫌を損ねれば、
それまで有能だった官僚がいつ反逆者になってもおかしくはないという、
“叛骨心”の持ち主である。

だから孔明は自分の死後の後継者にしても内密に蒋琬を尚書令に指名し、
楊儀は孔明の死後、実権の無い中軍師に回された。
自分の死後に問題を起こしそうな人物、
そしてその者に対しての対処法と・・・。

『華陽国志』には、
「初,亮密表後主,以「儀性狷狹,若臣不幸,可以蔣琬代臣。」
於是以琬為尚書令,總統國事。以儀為中軍師、
(初め、諸葛亮は密かに後主に上表して、以って“楊儀の性は狷狹にして、
若し臣に不幸が訪れれば,蔣琬を以って臣に代える可きです。”と
言い残していたため、
是に於いて以って蔣琬を尚書令と為すと、国事を総統させ、
また以って楊儀を中軍師と為し・・・)」とあり、
詰まり演義では魏延の謀反を警戒して、
孔明が楊儀に対して事前に策を与えているが、
これも史実では真逆で、
楊儀のほうがその対象人物として警戒されている。

孔明亡き後、その後継候補から除外され、
政治的な実権も奪われた楊儀は、
「こんなことならいっそ・・・」といった不満を費禕にブチまけ、
費禕はその言葉をそのまま劉禅に報告した。
が、
或いはここまでもう、孔明が授けた策だったかどうか・・・・・。

魏延にとっては全くいい迷惑な話だが、
恐らく魏延の本来のキャラクターは、
演義での黄忠の姿だ。

『三国志演義』に於けるあの黄忠の武勇の高さと負けず嫌いの性格、
そして忠誠を捧げる主君・劉備のため、ひたすら頑張るひた向きな態度と、
まさに演義の黄忠は今一人の関羽の登場といった感じで、
黄忠は正史に、彼が「三軍に冠たる勇」の持ち主で、
「義に厚い壮士」だとも書かれてはいるのだが、
しかし特に本人の言も残されておらず、伝の記述自体が非常に淡白で、
演義での彼の派手な活躍と比べて見た場合、劇中のあの黄忠の姿は、
むしろ史上の魏延に重ね合わせたほうがシックリとくる。

挿絵(By みてみん)

本来のキャラを黄忠に奪われ、
さらにはまた、他人の反骨キャラまで身に背負わされるなど、
魏延もまた周瑜や魯粛などと同様、演義という創作の物語製作の過程で、
その都合上、適当に人物設定が置き換えられてしまった
悲しい被害者の一人なのではないだろうか。
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