カラの小瓶
よく晴れた午後。
午前中を執務に追われ、珍しく真面目に仕事をしていたヘリオスはここでようやく一休みができると会って、ゆっくりと伸びをした。凝り固まった身体をほぐし、椅子から立ち上がる。
執務室の窓からは屋敷の中にある騎士たちのためのちょっとした鍛錬の場が見下ろせる。そこではキースと先日からここに滞在している王宮の近衛騎士、ハヴェルが何やら話しこんでいた。
ツェツィーリアとルイゾンから事のあらましをある程度聞いているヘリオスはその様子を見てクスリ、と笑った。騎士として細身で男性にしては小柄、かつこんなド田舎の領主に仕えるキースと立派な体格と大きな背丈、近衛騎士として申し分ない気品と武官としてのいくらか強すぎる威圧感を持つハヴェル。言葉にすればあべこべな二人だが、とても相性が良いようだった。
「今日も平和で嬉しいねぇー……。これで執務も少なければもっと嬉しいのだけれど」
そう呟いてゆっくりと茶をすすっていると、コンコン、というノックの音と共にヘリオスの侍女クレアが入室して、そして言った。
「ヘリオス様、お客様がお見えです」
その客はヘリオスを平和から遠ざける土産を持ってやってきた。
*****
「突然押し掛けてしまい、申し訳ありません」
「いえいえ。神父様がわざわざこちらまでくるのは、それなりの理由があるのでしょう?」
ヘリオスが応接間へと行くと、それまでソファに座り、落ち着かなさそうにきょろきょろと周りを見渡していた若き神父ボリス・ハンセンは反射的にガタンッとものすごい音を立てて立ち上がり、まくしたてるように謝罪を始めた。
その様子を見ながら、やんわりと言葉を返したヘリオスが思った事は面白い男だなぁ、である。どうもこの神父、貧乏性なのかヘリオスの屋敷へ来たがらない。
ヘリオスの屋敷自体は、王都の貴族やそれこそ地方領主達よりもよほど質素で無駄かつ華美な装飾を好まないヘリオスに合わせて小ざっぱりとしているのだが、それでもボリスには足が遠のくには十分な理由になる程度には裕福に見えるらしい。おもに、敷地の面で。何せ田舎。しかも辺境。若干過疎化が進んでいない事もないので、土地には困らない。
「それで、その用とは?」
ヘリオスから話を促すまで、落ち着かなそうに手の中の布に包まれた何かをぎゅうと握っていたボリスはその言葉に、恐る恐る、といった様子でその何かをテーブルへと置いた。
それは、小さな空の小瓶だった。
「……それは?」
「これの中身に心当たりのある者が、不穏な気配を感じたら領主殿のところに、と言っていたもので」
ふうん。
ヘリオスはその小瓶を手に取った。どう見ても中身は空で、軽く振っても、当然ながら音もしないし、何も起こらない。本当にただの小瓶だった。
「神父様が感じた不穏な気配って?」
「俺……いや、私にも明確な説明はできません。元々、神父として十分な力を持っているとは言えないので。……ただ、それを置いた窓の周辺が日に日にどす黒い何かが集まっているように思えるときがあるのです」
ボリスは元々そこまで丁寧な話し方をする男ではないのだろう。それが堅苦しそうにぎこちなく敬語を使っている。このあたりも、こちらへ来たがらない理由なのだろう。
本当に、神父らしからぬ面白い男だなぁ。
そんな事を思い、改めて小瓶へと視線を移す。ヘリオスは魔力があるわけではない。ただのしがない辺境伯だ。誰が、領主殿のところへ持っていけ、といったのだろうか?
小瓶を見つめていると、クレアがお茶と菓子を用意して表れた。カチャ、と静かな室内に茶器の音が響く。そうして、そのまま退出するかと思ったクレアが中々動き出さない事に気付て顔をそちらに向けた。
クレアは目を見開き、こちらを凝視していた。正確にはヘリオスの手の中の小瓶を。
「……わかりました。とりあえずこちらで預かりましょう。後日で構わないので書面にてこの小瓶について何かわかる事、感じた事を提出して下さい」
「では、明後日までにこちらに送りますので。私は、失礼します」
クレアが用意したお茶に手もつけず、外に控えていた侍女に伴われてそそくさと退出していく。よほど長居はしたくないらしい。
「……ヘリオス様」
小さな声で、クレアが呼んだ。その声は細く、震えている。
「なんだい?」
「その小瓶は、長く手元に置くべきではありません。……私にはとても不吉な影が見えます」
クレアがそう言うのなら、信憑性が高いのだろう。彼女は元々、聖女につき従っていたのだから。
「僕にはそんなに危険なモノに見えないけどねぇ……」
「一度、フレア様にお見せしたく思います」
強張ったクレアの言葉に、ヘリオスは簡単に良いよ、と言った。そうして手の中の小瓶を渡す。
クレアはそっとその小瓶を握り、故国が滅ぼされた時の事を思い出した。
敵の隙をついて、命からがら逃げ出したあの日。
フレア様に異常な執着を見せたあの男。
フレア様をとらえた安心感なのか、逃げ出す途中、薄く扉のあいた部屋。
その奥でくつろぐあの男の側。
置かれた小瓶。中身は無い。
それを愛おしそうに眺めていた。
この小瓶は確かにあの時の小瓶なのだと、クレアは確信していた。
はい、クレアとクロエは同一人物でした―。
登場人物紹介のもう一つの秘密とはこの事です。おそらく超バレバレだったと思います。私がただの読者でもきっと気付きます。