第2話:『無能』という名の完璧なカモフラージュ
「……おい、耳の聞こえまで悪くなったのか? この穀潰しが」
資料室に、鋭い叱責が飛ぶ。
声の主は、王宮執事長——ベリウス。
ユリウス王子の忠実な猟犬であり、実務の多くを仕切る「王宮の門番」だ。
「……申し訳ございません、ベリウス様。古い羊皮紙の整理に没頭しておりまして」
俺は慌てて立ち上がり、手にした羽ペンを落とす。
指先を微かに震わせ、怯えた小動物のように肩をすくめる。
ベリウスの視線は、俺という人間ではなく、俺が着ている安物の制服の「汚れ」に向けられていた。
「これを見ろ。昨夜、貴様が整理したはずの公文書だ。インクが数滴、端に飛んでいる。王宮の記録を汚すとは……万死に値するぞ」
ベリウスが書類を俺の胸元に叩きつける。
実際には、俺が汚したのではない。彼が自分でつけた汚れか、あるいは言いがかりだ。
だが、俺は「気づかないフリ」を貫く。
「ひっ、申し訳ございません! すぐに、すぐに修正魔法のスクロールを……」
「魔力ゼロの貴様に、スクロールなど使えるか。素手で消せ、この泥棒猫め」
ベリウスは鼻を鳴らし、俺の横を通り抜けようとする。
——その瞬間だ。
俺はわざと足をもつれさせ、ベリウスの豪華な燕尾服の裾に、派手にぶつかった。
「おっと……!」
「貴様! 汚い体で触るな!」
ベリウスが俺を突き飛ばす。俺は床に無様に転がり、平謝りを繰り返した。
ベリウスは忌々しそうに服を払い、資料室を去っていく。
静寂が戻った室内で、俺はゆっくりと起き上がった。
卑屈な笑みは、すでに消えている。
「『タグ付け』完了だ」
俺は指先に残った、微かな銀色の粉末を見つめた。
ミリセント教授(変人教授)から以前融通させた、『追跡型魔力触媒』。
魔力を持たない俺が触れても発動しないが、魔力を持つ人間が身につけると、その主の魔力を糧にして、極微弱な「共鳴波」を発し続ける。
今の俺には、資料室の棚の裏に隠した小型の魔力感知盤を通じて、ベリウスが「今、宮殿のどこにいるか」がリアルタイムで観測できるようになった。
(さて……『シグナル・インテリジェンス(電波諜報)』の開始だ)
俺は感知盤の針を見つめる。
ベリウスの動線は、執事としての執務室だけではない。
彼は定期的に、王宮の裏門付近……下級役人が出入りする「賭博場」へと足を運んでいる。
第1話で俺が拾った「ゴミ」——ベリウスが捨てた、端のちぎれた借用書。
そこから導き出した彼の負債額は、執事長の給料30年分に相当する。
「借金で首が回らない執事長と、隣国と密約を交わす王子。……繋がったな」
ベリウスは王子の横領を隠蔽する見返りに、賭博の負債を肩代わりさせている。
だが、その「金」がどこから出ているかまでは、ベリウスも知らない。
俺は懐から、一通の封筒を取り出した。
差出人は不明。中身は、ベリウスの「借金リスト」と、彼が横領を幇助した証拠の写しだ。
「これを、王太子のライバルである『第二王子派』の密偵に拾わせる。……俺が直接渡す必要はない。彼らが勝手に『手柄』だと思って見つけてくれればいい」
情報の価値は、それが「偶然手に入った」と思わせることで跳ね上がる。
これを諜報の世界では『ソーシャル・エンジニアリング』と呼ぶ。
俺は再び、猫背の「無能な書記官」へと戻り、資料室の外へと歩き出した。
向かう先は、街の路地裏。
そこに、俺の最初のエージェントとなるべき「折れた剣」が転がっているはずだ。
「待たせたな、リナ。……君の復讐を、情報の武器で完了させてやる」
闇の中で、俺の瞳だけが冷たく光っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ついにベリウスへの「タグ付け」が完了し、物語が動き始めました。
次回、いよいよヒロインのリナ・フォン・フェルトが登場します。
没落令嬢である彼女が、アルスの手によってどのように「最高の道具」へと作り変えられていくのか。
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第3話、リナとの契約編をお楽しみに。




