第11話:ハニートラップの逆説:元婚約者の不穏
深夜の王宮資料室は、墓場よりも静まり返っていた。
だが、その静寂を破る、場違いな衣擦れの音と、微かに震える吐息が聞こえる。
「……アルス。そこに、いるのでしょう?」
書架の影から現れたのは、フィオナ・フォン・エトワール。
かつて俺の婚約者であり、ユリウスの権力に目が眩んで俺を捨てた女だ。
その顔は青ざめ、目元には涙の跡がある。……だが、俺の『観測』は、その涙が「反省」ではなく「自己保身」によるものだと告げていた。
(呼吸:浅く不規則。指先の震え:過剰。……なるほど、わざと化粧を崩したな? 自分が最も悲劇的に見える演出を選んだわけだ)
「……何の用かな、エトワール令嬢。ここは無能な書記官の仕事場だ。君のような『未来の王妃様』が来る場所じゃない」
俺は椅子に深く腰掛けたまま、顔も上げずに書類を整理し続けた。
「ひどいわ、アルス……! 私、怖いの。ユリウス様があんな恐ろしい計画を立てていたなんて知らなかったのよ! 私まで隣国に売られるなんて……お願い、あなただけが頼りなの!」
フィオナが俺の膝元に縋り付いてくる。
かつての俺なら、この香水の香りに惑わされたかもしれない。だが今の俺にとって、それは単なる「ターゲットが放つ不快なノイズ」でしかない。
「……離れてくれないか。その香水の成分は、古い羊皮紙を傷めるんだ」
「アルス……?」
俺は冷徹な眼差しで、彼女を見下ろした。
「君は勘違いをしている。君がここに来たのは、俺への愛が再燃したからじゃない。審問会でユリウスの敗北を確信し、沈みゆく泥舟から逃げ出すために、最も安全そうな岸辺を探しに来ただけだ」
フィオナの顔から、一瞬だけ「女」の表情が消え、醜い困惑が浮かんだ。
俺は畳み掛けるように、彼女の『ハニートラップ』をプロファイリングする。
「泣き落としは三流の工作員がすることだ。……君が本当に助かりたいのなら、涙ではなく『情報』を持ってくるべきだったな」
「……っ。な、何を言っているの……? 私はただ、あなたに謝りたくて……」
「謝罪に価値はない。……だが、リソース(資源)としての価値なら、まだ君に残っている」
俺は彼女の顎を指先で持ち上げ、冷たく言い放った。
「ユリウスはまだ、君を『自分の所有物』だと思っている。……君には、彼の籠の中に戻ってもらう。そして、彼が最後の悪あがきで隠そうとしている『ゾルダン帝国との真の通信記録』を奪ってきてもらいたい」
「そんな……! あんな恐ろしい男のそばに、私を戻すというの!? 殺されるわ!」
「断ってもいい。だが、その場合は『王子の共犯者』として、君の家門もろとも処刑台に並ぶことになる。……どちらが生存率が高いか、君なら計算できるはずだ」
フィオナは絶望に目を見開いた。
彼女が求めていたのは「かつての恋人による無条件の救済」だった。
だが、目の前にいる男は、彼女を「使い捨ての二重スパイ」として査定している。
「……わ、分かったわ。やればいいんでしょう……。その代わり、終わったら私を……」
「終わった後の君の処遇は、君が持ってくる情報の質で決まる。……行け、エージェント・フィオナ。君の『嘘をつく才能』を、今こそ公のために役立てるんだ」
フィオナがふらつきながら資料室を去っていく。
その背中を見送りながら、俺は冷めた紅茶を口にした。
情は毒だ。だが、かつて自分を裏切った毒を、今度は敵に流し込む毒として再利用する。
これこそが、情報のサイクルにおける「有効活用」というものだ。
「……観測完了。リナ、彼女の監視を頼む。裏切りの兆候があれば、その場で『処理』して構わない」
暗闇から、短く「了解」という声が響いた。
夜はまだ深い。
王子の首を撥ねるための最後の一片は、皮肉にも彼が最も愛でていた「宝石」が運んでくることになる。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。桜庭ユウトです。
かつての婚約者を「女」としてではなく「使い捨ての駒」として扱う。
アルスの徹底したプロフェッショナリズムを描きました。
読者の皆さん、お待たせしました。これが本当の「復讐」の形です。
フィオナがユリウスの元へ戻り、命懸けの盗み出しに挑む……。
彼女が抱く恐怖と、それすらも利用するアルスの冷徹さの対比を、
これからも緻密に描写していきます。
「アルスが一切妥協しなくて最高にスカッとした!」
「二重スパイ展開にワクワクする!」
そう思っていただけましたら、ぜひブックマークや評価をお願いします。
皆さんの「期待」という名の情報が、次のプロットをさらに鋭くします。
第12話、毒は回った。あとは背中を押すだけだ編をお楽しみに。




