第六章
閑静な住宅街だった。
風の通り道だけがわずかに揺れ、
家々の窓はどれも昼の光を静かに跳ね返していた。
凪音はインターホンを押した。
指先に、思ったより冷たい金属の感触が残る。
しばらくして扉が開き、被害者の父が姿を見せた。
やつれたというより、体温ごと色が抜け落ちたように見えた。
「……はい、どちら様ですか?」
「被疑者の弁護を担当しています。
弁護士の真木凪音と申します。
少しだけ、お嬢さんのことを伺いたくて。」
一瞬、男の表情が曇った。
拒絶というほど強くはないが、慎重に距離を測るような影が走った。
「娘は……とてもいい子でした。」
言葉の端がかすかに震えた。
声を整えるように、一度だけ喉が動く。
「どうしてあの子が、こんな目に遭わなければならなかったのか……。」
凪音は目を伏せた。
同情ではない。
ただ、胸の奥に触れた波紋をそっと落ち着かせるため。
「被疑者とは、面識はなかったのですか?」
父はゆっくり首を横に振った。
「……見たことも、聞いたこともありませんでした。
うちは普通の家族でした。娘は……ただ優しい子で……。」
言葉は途切れ、その空白に沈黙が落ちる。
やがて、父は凪音を見ることなく言った。
「もう……帰っていただけませんか。妻も、すぐに戻ってきますので。」
その“戻ってくる”という言葉に、生活と喪失が混ざり合った痛みが滲んでいた。
握られた父のこぶしがかすかに震えている。
凪音は静かに頭を下げた。
「……分かりました。
お時間をいただきありがとうございました。」
外に出ると、住宅街の静けさは来たときよりもわずかに重さを帯びていた。
父から感じ取れたのは、娘が本当に幸せに暮らしていたこと。
そして──
まこととは一切の接点がなかったこと。
(……じゃあ、どうして。
捜査報告書の“被疑者”と、あの接見室で向き合った少年は──
まるで別人のように違っていたのだろう。)
風の音だけが、凪音の疑問に寄り添うように通り過ぎた。
そのときだった。
胸の奥で、昔の気配がふっと揺れた。
幼い日の記憶。
背中を向けて働き続ける母の姿。
三人の子どもを不幸にしないように、何かを埋め合わせるように動き続けていた、その細い肩。
凪音は、その背中を誇りに思っていた。
けれど──
あの頃の胸の奥には、名前のない寂しさがいつも小さく沈んでいた。
思い出したくて思い出したわけではない。
ただ、父の震える拳を見た瞬間、その寂しさだけが静かに浮かび上がった。
凪音はゆっくりと息を吐いた。
風がそれに合わせるように弱く揺れた。




