第五章
事務所に戻ると、外の静けさとは別の、紙と蛍光灯だけでできたような空気が凪音を包んだ。
扉を閉めた瞬間、さっきまで手の中に残っていたまことの“気配”がわずかに遠ざかる。
しかし完全には消えなかった。
凪音は机に座り、接見で取った走り書きのメモを広げた。
字は震えていない。
けれど行と行のあいだに、少年の呼吸がまだ薄く残っている気がした。
深く息を吐き、目を閉じて、まことの姿をもう一度頭の中に置いていく。
──落ち着かない指。
──視線が床から上がらない。
──言葉の“理解”が遅れる。
──呼吸が浅くなる瞬間が周期的に来る。
──質問が変わると身体が少し後ろに引かれる。
──“怒り”ではなく“恐怖”で声が揺れる。
凪音はゆっくりと目を開いた。
次に、一行ずつ書き起こしていく。
──入室時、前屈姿勢。
──視線は床。
──返答まで平均3〜5秒。
──声は小さく、語尾が消える。
──遠慮ではなく、“言葉の器”が足りていない印象。
──緊張時、右手で左腕を触る。
──「眠れていますか」に対し過剰に素直。
──「警察とは話せていますか」で反応が急変。
──呼吸停止、肩の硬直。
──「どうして僕は捕まっているのですか」と発言。
──認識が事件の全体像に達していない可能性。
書きながら、胸の奥にひとつ引っかかりが生まれる。
(……この子は、本当に“理解”していない。)
罪を認めないとか、言い訳をしているとか、そういう種類の不誠実さではない。
もっと根の浅いところ──
幼いころに誰かが教えるはずだった“世界の形”がすっぽり抜け落ちているような。
そんな空洞。
ペン先が紙の上で止まった。
まことの“わからなさ”は、拒絶ではなく、ただ“知らない”だけなのかもしれない。
けれど“知らないまま人を傷つけた”という事実が、その空洞に冷たい影を落としている。
凪音は手首を軽くほぐし、まとめた接見メモを閉じた。
その瞬間、背後から声がした。
「真木先生、初接見どうでした?」
振り返ると、川崎が立っていた。
相変わらず、感情の揺れを外に出さない顔つきだ。
凪音は資料を閉じたまま答える。
「……捜査報告書とは全く違う人物でした。
揺れがありました。」
川崎は少しだけ目を細めた。
興味か、懐疑か、判断できない。
「……そうか。」
短い返事だけを残し、川崎はまた歩き去っていった。
凪音は視線をメモに落とす。
紙はただの紙のはずなのに、そこに記された文字の温度だけが胸の奥でゆっくりと広がっていく。
まことが“揺れた”あの瞬間。
説明できない震え。
恐怖とも悲しみとも違う、心の奥に触れた何か。
(……これは、なんだろう。)
揺れは逃げずにそこにあった。
凪音の呼吸に合わせて静かに沈んだり浮かんだりしながら。
それがどこへ向かうのか、まだ分からない。
けれど──“見たい”と、確かに思った。
それは弁護士としての興味ではなく、もっと曖昧で、もっと個人的で、名前のつけられない衝動だった。
胸の奥で小さく波立つその感覚を抱え、凪音はメモを丁寧に閉じた。




