第一章
裁判には負けた。
だが、凪音の胸に残ったのは敗北の重さではなく──
少年の心が一瞬だけ震えた、あのかすかな揺れだった。
あの瞬間、彼の言葉の奥で、形になりきらない感情がふっと揺れた。
ただそれだけのこと。
けれど、凪音にはそれで十分だった。
暗闇の中を、誰かが走っていた。
追っているのか、逃げているのかさえ分からない。
背中の輪郭だけが、胸の奥をざらつかせた。
「……痛い。」
凪音は目を開けた。天井の白が、現実の温度もなく広がる。
湯を沸かし、カップに注ぐ。湯気が薄く揺れた。
感情はいつも後ろから遅れてくる。
凪音はそれに気づかないふりをしていた。
コーヒーの苦味の奥で、夢の中の影だけがまだかすかに揺れている。
無言で髪を整え、散乱した本と紙類に指先で触れ、鍵を閉める音に背中を押されるように部屋を出た。
***
事務所の蛍光灯は冷たく、誰の感情も映さない白さだけが空間を満たしている。
「おはようございます、真木先生。」
パラリーガルの三輪だけが、凪音を揺らさない声音で声をかけてきた。
「おはようございます。」
それだけ言い、凪音は席に座った。
「真木先生。」
振り返ると、川崎が立っていた。
パートナー弁護士。
笑っているのかどうかも分からない、薄い表情。
「国選だ。君に向いていると思ってね。」
淡々と封筒が置かれる。
凪音は礼だけを述べ、封筒を開いた。
──被疑者:泉 真人(20)
──女性を自宅へ連れ込み、首を絞め死亡
──供述:『名前、知らない』『嫌がったから分からせないと』
文字はすべて冷たく、言葉の体温がなかった。
(……違和感。)
理由のない小さな揺れだけが、胸に沈む。
「明日、接見に行きます。」
凪音は川崎の方を見ずに告げた。




