パン一の男
都内某所のアパートに、肺炎で苦しむ男の姿があった。
男の名は是崎魔弾。
体調が悪いにも関わらず、無理を押して出社し続けていたが、金曜日の退勤後、ついに限界がきてしまった。
帰りがけに最寄り駅の薬局で総合風邪薬を買い、急いで家に帰ってすぐに寝床へ。
しかし体調は一向に良くならず、日曜日の夕方にはすでに意識が朦朧としており、起き上がることもできないほど衰弱していた。
――苦しい。
頭の中でその言葉が繰り返される。
暗闇の中、聞こえるのは自身の荒い呼吸音だけ。
頭の片隅を死への恐怖がよぎる。
もう、ダメかもしれない。
そう思った瞬間、呼吸ができなくなった。
できないというより、本能で「してはいけない」と理解した。
目を開けると、魔弾は水の中にいた。
なぜ? そんなことはどうでもよかった。
とにかく苦しかった。
――早く空気を吸いたい。
それしか考えられなかった。
もがくように水面を目指す。無我夢中で。
ようやく水面が見えてくる。魔弾は勢いよく顔を出し、目一杯空気を吸い込んだ。
呼吸ができたことで少し冷静さを取り戻したつもりだったが、流されていると気づいた瞬間、混乱で体が動かなくなった。
流れは早く、手足をばたつかせて呼吸を維持するのが精一杯だった。
その時、一部始終を見ていたキャンパーの夫婦が助けに入った。
女は岸から縄を握り、縄を体に巻きつけた男が川に入り、魔弾の腕を掴んで岸へ引っ張った。
岸に近づくと、男は無言で魔弾に肩を貸した。
すぐさま女が駆け寄り、布を手渡してくる。
「早く体を拭いて火にあたったほうがいい」
男は体に巻きつけた縄を解きながら言った。
魔弾は素直に礼を言って体を拭いた。
その時、自分がパンツ一丁でいることに気づく。
混乱と不安が同時に押し寄せ、魔弾は立ち尽くしてしまった。
その様子を見た男は魔弾の手を引き、焚き火の前に座らせる。
二人はしばらく無言で焚き火を見つめていた。
やがて、いつのまにかいなくなっていた女が木の椀を持って戻ってきた。
女は焚き火の上に吊るしてある鍋から汁物をよそい、男に渡す。
男は椀を受け取ると、魔弾の肩を軽く叩きこう言った。
「何があったか知らねぇが、これ食って元気出せ」
魔弾は差し出された椀を受け取ると、勢いよくかき込んだ。
無理もない。魔弾にとっては金曜の昼食以来、初めての食事だった。
キャンパーの夫婦は魔弾の勢いに驚き、一瞬目を見開いたが、次第に安心した表情に変わり、食事を始めた。
椀の汁物を平らげ、一息つくと魔弾は口を開いた。
「こんな格好ですみません。不躾なお願いで申し訳ないのですが、スマホを貸していただけませんか?」
夫婦は互いの顔を見合わせ、不思議そうに言った。
「スマホ?」
二人の視線が魔弾に向けられる。
その表情を見て、魔弾はあることに気づいた。
――そういえば、自己紹介をしていない。
魔弾はすぐに頭を下げて謝罪した。
「ごめんなさい、自己紹介していませんでした。自分は是崎魔弾、巣鴨に住んでいます。三十三歳、会社員です。」
簡単な自己紹介を終えて二人の表情をうかがったが、まだ困惑したままだった。
少しの沈黙の後、女が口を開いた。
「私はサキ。」
サキに続いて男も口を開く。
「俺はゴウ。」
魔弾は改めて頭を下げた。
「ゴウさん、サキさん、助けてくれて本当にありがとうございました」
二人は少し照れたように笑った。
しばらく沈黙が続いた後、サキは食事の片付けを始めた。
魔弾は手伝おうと立ち上がったが、何をすればいいのかわからず、焚き火の周りをうろうろしていた。
ゴウは座ったまま焚き火を見つめ、何か考え事をしている様子だった。
結局、手伝うこともできずうろうろしただけの魔弾は、先ほどまで座っていた場所に戻り、また腰を下ろした。
サキの片付けている姿を眺めていて、ふと気づく。
使い込まれたギア、現地調達と思われる食材や木材――この二人はかなり本格的なキャンパーだ。
魔弾は木の枝で焚き火をつつきながらゴウに話しかけた。
「よくこの辺に来るんですか?」
ゴウは突然話しかけられて驚いたようだった。
「近くの街に住んでるからな。ところで、さっき言ってた“スガモ”ってのはどの辺だ?」
魔弾は考えた。
――東京で巣鴨が通じないなんてことがあるのか?
そもそも、ここはどこだ?こんな大自然が23区にあるのか?
「東京都豊島区の巣鴨なんですけど……池袋の近くです。」
ゴウは少し考え、首をかしげた。
「うーん、やっぱ知らねぇな。この近くでそんな街の名前、聞いたことねぇぞ。」
魔弾の表情が少し曇る。薄々気づいてはいたが、確証が持てなかった事。
ーーきっと、ここは東京ではない。
魔弾は恐る恐る聞いた。
「ここは……どこですか?」
ゴウは答えた。
「レテ」
ーーえ?レテって......何処???




