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第8話 報酬

話の締め方もわかんないっピ…

 県庁からの撤退したヘリが名古屋港に帰還した。ヘリから第一、第二部隊の隊員と人質たちが降り、負傷した隊員はストレッチャーに乗せられ運ばれていく。

人質たちの返還などをはじめアルスヴィズが事後処理に追われる中、オペレーターとしてモニター室で後方支援を終え、疲れ果てていた鳴海の元へユウが現れた。

「よう、鳴海。お前の言った通り『あらゆる力の要求に応える者』として依頼を全うしてきてやったぞ?」

「あ、あはは…」

軽い口調のユウに、啖呵を切った事を再び蒸し返され、鳴海は気まずさがこみあげ乾いた笑みが溢れる。

「ふっ、冗談はさておき…鳴海、お前の仕事ぶりは中々悪くなかったぞ」

「いや、僕はただモニターを見ていただけで…」

鳴海が遠慮がちに返すと、ユウは笑みを浮かべる。

「謙遜するな、十分良くやってたさ。それで?報酬は何が良い?」

「報酬って…いや、別に…」

突然の問いに鳴海は言葉に詰まる。

流されるまま巻き込まれた事だ。報酬など考えていなかった。

「正当な働きには正当な対価を。当然のことだろう?」

ユウの言葉は揺るぎない。鳴海は目を逸らす。モニター越しに戦場を見ていただけなのに、何かを得るのは違和感がある。

「まぁ、今すぐとは言わない。少し考えておくと良い。……さて、お前の仕事は終わったわけだが、もう夜も遅い。今日は俺らの船に泊まっていくといい」

「いや、でも…」

鳴海はユウの背後の市民たちの姿に目を向ける。

アルスヴィズが提供したテントや寝袋があるとはいえ、全員に行き渡っているわけではなく、彼らの大部分は野宿だ。自分だけがちゃんとした場所で眠るのは気が引ける。

そういった鳴海の内心を察したユウは、背後を一瞥してから諭すように言う。

「連中に悪いってか?でもお前にはちゃんとした環境で休む権利がある。それも正当なる対価の内だ」

 真剣な目でそう言うユウに従い、鳴海は彼らの母船に乗り込む事にした。

ユウに導かれてタラップを渡り、船に足を踏み入れた鳴海は目を奪われる。広大なデッキ、ガラス張りの回廊、豪華な装飾。まるで浮かぶ宮殿だ。

見たことのない景色の数々に見惚れる鳴海に、ユウがわざとらしく手を広げて告げる。

「ようこそ、我らがアルスヴィズの象徴、ワン・オブ・ザ・ワールドへ」

民間軍事会社アルスヴィズの母船、ワン・オブ・ザ・ワールド。その名の通り、この船だけで1つの世界を形成しているかのようだ。

そのまま案内された客室も、まるでホテルの様でキングサイズのベッド、プライベートバルコニー、最新の設備を備えた豪華な空間だった。鳴海が呆然としていると、ユウが笑う。

「部屋自体は死ぬほどあるんだが…余ってるのは意外となくてな。中の上クラスで我慢してくれ」

「これで、中の上……」

中の上クラスでこれなら、最高クラスの部屋はどの様なものなのかと更に驚く鳴海に、ユウは続ける。

「アルスヴィズはあと3日、名古屋に滞在する。その間に報酬を決めといてくれ。ゆっくり休めよ」

そう言い残し、ユウは客室を後にした。



 そうして、鳴海は豪華なベッドに寝転び天井を見つめた。目を閉じても眠れない。頭の中を、今日一日の出来事が駆け巡る。

突然巻き込まれたテロ、地下鉄での出来事、県庁での激戦、そしてユウの呟いた言葉。

鳴海はベッドから起き、バルコニーに向かう。時刻は深夜だが、眼下ではアルスヴィズの構成員たちが忙しなく動いている。

 鳴海はバルコニーの手すりにもたれ、星空を見上げる。

報酬。何を望むべきか。金か、それとも別の何かか。間近で見たアルスヴィズの実力に圧倒され、未知の世界への憧れが膨らむが、それは人の生命という重い責任を伴う。鳴海自身も今日犯した罪。憧れだけで踏み込むには、あまりにも伴う責任が大きい世界だ。

しかし何よりも、エン・ソフという謎が頭を離れない。アレクセイの動揺、雲母の曖昧な態度、その名前の意味。すべてが繋がっている気がする——もしかしたら、10年前の福岡のテロさえも。

心の中で、決断が形を成しつつある。答えはまだ口にしない。だが、この選択は間違いなく自分の未来を変えるだろうという確信があった。



 翌朝、客室のドアをノックする音で鳴海は目を覚ます。寝惚け眼でドアに向かうと、ドアの向こうからユウの声がした。

「鳴海、俺だ。朝メシでもどうだ?」

「あ、はい。すぐ行きます」

この船の知識がない鳴海を考慮して、わざわざ迎えに来てくれたのだろうか。ユウの意外な気遣いに、鳴海は好感を抱く。

「おはようございます」

 5分ほどで準備を終えた鳴海が部屋を出ると、ユウの横には雲母といのりもいた。

「おはよう、鳴海。いい朝だな」

「おはよ〜、鳴海くん」

「おはよう」

三者三様に挨拶が返ってくる。ユウ一人だと思っていたのに、雲母といのりまで。実の妹と、娘のような存在とはいえ、朝から2人を連れているユウに、鳴海は妙な気後れを感じる。だが、すぐにその考えを恥ずかしく思い直す。

ユウがじとっとした目で鳴海を見る。

「おい、なんか変な事考えてただろ。言っとくが、俺が呼びつけたわけじゃないぞ。いのりはいつも一緒に飯食いたがるし、こいつはたまたまエンカウントしただけだからな」

「自分の妹をRPGのモンスターみたいに扱う?」

「………」

雲母は即座に突っ込むが、いのりは無言で毛先を弄り、待っている。

「……まぁ、いいや。行こうぜ、腹減った」

そんな2人に挟まれているユウに鳴海は少し遅れてついていく。

 船内を見渡しながら廊下を歩いていると、鳴海の耳に、前を歩くユウといのりの会話が入ってくる。

「で、まだ拗ねてるのか?」

「拗ねてない」

いのりの声は少しむくれた調子だ。

「悪かったって。3ヶ月ぶりの休暇が半日で終わったのは納得できないだろうけど、しょうがないだろ?」

「別に…それはいつもの事だから」

「じゃあ何をそんなに拗ねてるんだよ」

「だから、拗ねてない」

昨日とは少し様子が違う。何かあったのかと思い、鳴海は雲母に小声で尋ねる。

「あの2人は何を…?」

「あぁ、気にしないでいいよ。あの子も年頃だからね。ユウと2人でお出かけ!と思ってたのに銃撃戦になるわ、夜通し作戦に投入されるわでご機嫌斜めなのよ」

 雲母の返答に鳴海は、なるほどと思った。

いのりは15歳だと言っていた。福岡でユウに拾われてから10年、当初抱いていた感謝の気持ちが、そのまま別の気持ちに変化するのには、十分な時間だろう。

食事を共にしたがる。2人での散策が中断されて不機嫌になる。その事からこの2人の関係性…いや、ユウに対するいのりの感情が鳴海にはなんとなく分かった。

「………意外と普通の子なんですね」

「そ、誤解されやすいけどね」

雲母が愉快そうに笑うが、鳴海は自分と同じテロに巻き込まれた少女が、人並みに成長している事にどこか安心感を覚えた。

 食堂に到着すると、鳴海は船の優美さに改めて息を呑む。広大なダイニングホールは、豪華なシャンデリアと海を望む窓に囲まれ、高級レストランのようだ。

「食堂はいくつかあるんだが、今日は避難民たちへの配給もあるからな。バイキングで我慢してくれ」

ユウはそう言うが並ぶのは多種多様な料理、焼きたてのパン、鮮やかなフルーツ、香ばしいコーヒー。鳴海はアルスヴィズの生活水準に驚く。

「本当にすごい船ですね…」

 好みの料理を器に盛り、席についた鳴海の呟きに、先に座ってパンにバターを塗っていたユウが肩をすくめる。

「オアシス級っつー昔は世界最大のクルーズ船だった船のネームシップ、オアシス・オブ・ザ・シーズを紆余曲折の末に手に入れてな。好き放題改造してやった。もはや元の原型はデカさくらいしか残ってねぇな」

「色々と試行錯誤しながらだったけど、楽しかったよね〜」

ユウがバターを塗り終えたタイミングでやってきた雲母が、鳴海の横に座りながら懐かしむ。

 そして最後にやってきたいのりがユウの横に座る。

パンを千切りながら、いのりの皿の上を見たユウが眉を顰める。

「いのり、野菜も食え」

いのりが持ってきたのは、パンやベーコンなどありふれた朝食だが、確かにユウの指摘通り野菜類はなかった。

苦言を呈されたいのりはユウの皿を見て、反論する。

「ユウも同じのばっか」

「俺はいいんだ、大人だから。お前はまだまだ成長期だろう」

ユウの方も、同じ洋食テイストのラインラップだが野菜類は皆無で、その上同じ料理が多めの量で盛られていた。これではいのりが反論するのも無理なかったが結局2、3のやり取りの末いのりが言い負かされた。

「……あとでサラダ食べる」

「それでいい。じゃなきゃ大きくなれないぞ」

まるで父親と娘か、あるいは兄と妹のようだな。

2人のやり取りを眺めながら食事を進める鳴海はそう思った。いのりの気持ちをユウが気付いているのかは分からないが、少なくともユウの中ではいのりはそういう括りには入っていないようだ。

部外者である鳴海に出来ることはないが、せめてと心の中でいのりの前途を応援することにして食事を続けた。


 その後各々の食事が終わり、コーヒーを飲みながらユウたちと歓談していた鳴海は意を決して口を開く。

「ユウさん、報酬の件ですが…」

「お、なんだ。もう決めたのか?やっぱ金か?それなら分かりやすくてこっちも助かるぞ」

ユウが眉を上げ、興味深そうに鳴海を見るが、鳴海の求めるものは金ではない。

「いえ、お金はいりません。それ以外でもいいですか?」

「む、なんだ。物か?言っとくが銃はやれんぞ?」

「違います。僕が望む報酬は…」

銃もある意味では合ってはいるが、それも違う。

鳴海が求める報酬。それは——鳴海は一瞬躊躇うが、目を上げてユウを見つめる。


「僕をアルスヴィズに入れてください」


 鳴海の言葉にユウは目を見開く。

「は?」

「へぇ?」

ユウの驚きの声に、雲母の興味津々な声が重なる。予想外の答えに、ユウは言葉を失い、コーヒーを置いて鳴海を凝視する。雲母はカップを手に頬杖をつき、口元に浮かぶ笑みを隠さない。

「……え、なんでだ?お前分かってるだろ?俺たちの仕事は殺したり殺されたりする仕事だぞ?」

ユウの声には困惑が滲む。昨日、初めて人を殺したことに動揺し、金銭を理由に人質救助を断ったユウに反発した鳴海が、一晩でアルスヴィズへの加入を決めた理由が分からない。いのりが無言でカップを握り、鳴海を横目で見つめる。

「分かっています」

鳴海は落ち着いて答えるが、声には微かな震えが混じる。ユウが眉を寄せ、腕を組む。

「じゃあなんでだ。昨日の今日で変わりすぎだぞ、ちゃんと考えたのか?」

 ユウの鋭い視線に、鳴海は一瞬沈黙する。テーブルの木目を指でなぞり、言葉を慎重に選ぶ。

「……知っての通り、僕はあの福岡のテロに巻き込まれて両親を亡くしました。今でも首謀者も目的も明らかになっていません。でもユウさん、あなたはあの場にいたんですよね?」

「真実を知りたい…ってことか?」

鳴海の言葉から推測を立てたユウが口を挟むが、鳴海は首を振る。

「いえ、それもありますが少し違います。テロの実行犯や、あなた方の住む世界自体を知りたいんです。動機そのものよりも、どんな人間があの様な事件を起こすのかが知りたいんです」

「それは同じことじゃないのか。大体知ってどうする」

ユウが感情を抑えた口調で返す。鳴海はユウの目を見つめ直す。

「昨日1日で、世界は広いという当たり前の事を本当の意味で理解できた気がします。だからこそ、その知らなかった世界に触れてみたいんです」

「悪いが理解できん。もう少し時間をかけて考えた方がいい」

 ユウが肩をすくめ、コーヒーを一口飲む。鳴海はユウの反応に納得しつつも、自分の思いを言語化する難しさを感じる。それでも、紛れもない本心だ。どう説得すべきか考えあぐねていると、雲母が悪戯っぽい笑みを浮かべ、わざとらしく手を挙げる。

「技術部門長としての権限を行使するわ。入れてあげましょう」

「は?」

雲母の突然の言葉に、ユウがカップを置いて絶句する。いのりが眉を上げ、雲母をチラリと見る。

「いいじゃない、理由はともかく、入りたいって言ってるんだから。人手はいくらあってもいいでしょう?いのりんはどう思う?」

雲母が軽やかな口調でいのりに視線を向けると、いのりは鳴海をじっと見つめ、顎に手をやる。

「戦闘経験ゼロ。訓練コスト高そう」

冷静な分析に、ユウが力強く頷く。

「そうだよな!割りに合わん!」

だが、いのりはカップを手に、淡々と続ける。

「でもオペレーターとしては悪くなかった。最悪そっちならなんとかなりそう」

「は?」

思わぬ好評価にユウはまたしても絶句するが、すぐに我に戻り鳴海を指差す。

「いやいや、お前ら…そもそもコイツは大学生だろう、学校はどうする?友人や身内にはなんて言う?」

「そんなの行方不明扱いでいいんじゃない?昨日の件で安否不明になってる人なんて大勢いるだろうし、その数が1人分増えるだけじゃない」

雲母がケーキをフォークで切りながら、こともなげに言う。鳴海が即座に続ける。

「それに友人はともかく、僕に身内はいませんよ」

ユウの反論を即座に雲母と切り捨てた鳴海だが、同時に硬い表情のユウを見て、考えを変えさせるのは難しいと感じ始めた。雲母やいのりを味方につけたところで、最終決定権を持っているであろうユウを説き伏せられなければ意味がない。

「ユウさん、アルスヴィズへ入れてくれないなら、その代わりに教えて欲しいことがあります」

 ユウが訝しげに目線で続きを促す。鳴海は昨夜耳にした言葉を切り札に選ぶ。

「エン・ソフとはなんですか?」

「なぜそれを……ってあぁ、そういうことか、俺としたことが……」

鳴海の口から出た意外な単語にユウが目を見開くが、すぐに納得したように頷く。コーヒーを一口飲み、探るような視線で鳴海を見る。

「なぜそれを知りたい?」

「分かりませんが…なぜかそれが僕にとって、とても大きな意味を持つと感じるからです」

「…………」

ユウは黙り込み、腕を組んで目を閉じる。ユウの沈黙に、鳴海はほとんど確信した。やはりエン・ソフは自分に、あのテロに関係している。

「正当な働きには正当な対価を、ですよね?ユウさん。僕が望む報酬は以上の2つのどちらか、あるいは両方です」

「鳴海くん、揚げ足取りうまいねぇ…」

雲母が呆れ半分、感心半分の声で言う。鳴海はユウから視線を逸らさず、静かに圧をかける。ユウが目を開き、虚空を見つめる。

「一般人にそれを教えることはできねぇ…つまり……2つに1つじゃねえか…」

低い声でぶつぶつと呟くユウに、鳴海、雲母、いのりの三人が注目する。ユウは大きなため息をつき、視線を逸らす。

「クソが………アルスヴィズへようこそ」

そして、吐き捨てる様にそう言った。鳴海が拍子抜けして目を瞬かせる。

「え?」

雲母がいのりに身を寄せ、楽しそうに囁く。

「入隊を認めた時に言うお決まりね。いのりんも言われてたよね?」

「クソが、は言われてない。ユウ、甘いのもってくるね」

いのりが訂正しつつ立ち上がり、ユウにデザートコーナーを指差す。視線をそらし、頬を掻くユウを尻目に、軽い足取りで歩いていく。

「それで?もう1つの理由は?」

「え?」

 いのりの姿を目で追っていた鳴海に、雲母が声をかける。身を乗り出し、瞳を覗き込む。

「まだ言ってない理由がある、そんな感じがするわ。違う?」

雲母の洞察力に鳴海は舌を巻く。この人はやはり底知れない。隠すつもりだったが、素直に話しておいた方が賢明だろうと鳴海は判断した。

「……両親がいなくなった後、僕は祖父母に育てられました。お陰で金銭的には苦労した事はなく、大学にも行けています。ですが、常に刺激を求める様になりました」

鳴海はカップを手に、ゆっくり語り出す。視線をテーブルに落とし過去を、ずっと抱えていた平凡な日常に対する葛藤と、それを打破しようと足掻いていた日々を振り返る。

「それがなぜかずっと分かりませんでした。ですが、昨日ようやく分かった。考えてみえれば当然だったんです。日常にあのテロ以上の刺激なんてあるわけない」

雲母の笑みが深まり、目を細める。ユウも腕を解き、静かに耳を傾ける。

「僕は昨日初めて目の前で人が死ぬところを見ました。それどころか、自らの手で命を奪った。あなた方の戦いぶりに圧倒されました。どれも衝撃的でした。とても1人では受け止めきれないくらいに」

鳴海はコーヒーを一口飲み、苦味を噛みしめるように続ける。

「同時に、言葉にできない感情を抱きました。高揚や興奮とも少し違う……1つ間違いなく言えるのは、かつてないほどの刺激を感じたんです。この世界なら、アルスヴィズなら僕が探していた刺激が見つかる。そう思ったんです」

鳴海は自分の内面を初めて他人に曝け出したと感じ、胸がざわつく。なにせ、昨日まで自分でも知らなかった一面だ。どう思われるか、わずかに不安がよぎる。だが、ユウは喉を鳴らして笑い、向き直る。

「なるほど、イカれてるな。でも、そっちの理由ならすぐ納得できた。なぜそれを言わなかった?」

「えーと、それは…」

 ユウの問いに鳴海は視線を横に滑らす。つられてユウと雲母も鳴海の見ている方を見る。その視線の先にはデザートコーナーを物色しているいのりがいる。

「あぁ、なるほど」

ユウと雲母はすぐに理解した。鳴海は自分の感情が正常ではないと自覚していた。テロを刺激的な出来事と捉え、同等の刺激を求めてアルスヴィズへ入りたいと望んだ。とてもまともではないが、それ自体は良かった。問題は同じテロに巻き込まれ、頼るべき肉親も帰るべき家も失った少女がどう思うか?鳴海はきっと良い感情は持たれないと思い、いのりの前では口にしなかったのだ。それでも、ユウと雲母は小さく笑った。

「多分気にしないと思うけどね」

「だろうな」

ユウが肩をすくめ、雲母がクスクスと笑う。

ちょうどその時、いのりがユウと自分の分のデザート――チーズケーキとチョコレートムース――を手に戻ってくる。席に着き、黙々とケーキを食べ始める。

「それはそれとして、どうするの?雇うのはいいけどズブの素人よ?」

 雲母がフォークを手に、ユウに尋ねる。ユウがケーキを切りながら眉を寄せ、呆れたように肩をすくめる。

「真っ先に賛成しておいて丸投げか?お前も考えろ」

「う〜ん…あ、教育担当を決めれば?その方が都合がいいでしょ」

雲母がケーキを口に運びながら、こともなげに言う。ユウはコーヒーを飲み、首を振る。

「それは構わんが……言語の面がな。いや、もちろんそれも勉強してもらうんだが……」

ユウが鳴海をチラリと見る。鳴海が口を開く前に、雲母とユウの視線はいのりに向いていた。

「……」

「……」

「……?」

 いのりはフォークを止めて顔を上げ、疑問符を浮かべた表情で2人を見る。

「どう思う?」

「いいんじゃない?」

「なんの話?」

いのりの困惑した声に、ユウと雲母がニヤリと笑い合う。互いに頷き、納得したように視線を交わす。鳴海も思わずいのりを見る。

「いのり、今この瞬間からお前が鳴海の教育担当だ!」

「え」

「がんばってね〜いのりん」

ユウが勢いよく宣言し、雲母が冷やかすように笑う。いのりが目を丸くし、声を上げる。

「なんで私が?」

いのりが不服そうに言う。ユウがニヤリと笑い、コーヒーカップを置く。

「まず、言葉の面だな。うちは日本語話者少ないからな。お前なら問題ない」

雲母がフォークを振って続ける。

「鳴海くんとも他の人よりは関係性あるしね。鳴海くんも全く知らない人に教わるよりいいよね?」

いのりが唇を尖らせ、フォークでケーキを軽く突く。鳴海が慌てて口を開く。

「え、でも…僕、迷惑かけるつもりは…」

「それに同じテロの被害者同士、話も合いやすいんじゃない?」

雲母が悪戯っぽくウインクし、鳴海の言葉を遮る。いのりがムッとした顔で雲母を見る。

「それとこれとは別でしょ」

「まあ聞けよ、いのり」

ユウが身を乗り出し、真剣な口調で言う。いのりは渋々視線を戻す。

「誰かに教えるってのは、お前にとっても得になる。自分のスキルを整理するいい機会だろ」

ユウの翡翠の瞳に見つめられたいのりはしばらく黙り込み、やがてため息をつくと視線をテーブルに落とす。

「……それがユウの命令なら」

不服そうな声だが、渋々頷く。鳴海はいのりの表情に少し気後れしつつ、彼女の決意に安堵する。

 ユウが笑みを浮かべ、鳴海に視線を移す。

「さて、鳴海。エン・ソフのことを知りたいなら、まずはいのりの課す訓練を乗り越えろ。きっと甘くねえぞ」

ユウが腕を組み、口元に不敵な笑みを浮かべる。鳴海はゴクリと唾を飲み、頷く。

「分かりました。やります」

雲母がクスクスと笑い、ケーキを口に運ぶ。

「いい意気込みね~。楽しみだわ」

ユウがコーヒーを飲み干し、席を立つ。

「それと、昨日も言ったが2日後には出航して本拠地に向かう。必要な物があれば、家に帰って取ってこい」

鳴海がハッとしてユウを見る。

「本拠地って…どこにあるんですか?」

ユウが振り返り、不敵な笑みを深める。

「フィリピンだ」

その言葉に、鳴海は目を丸くする。遠い異国の地への旅立ちに、胸が高鳴る。いのりが小さく首を振ってケーキを食べ、雲母がニヤリと笑う。新しい世界への一歩が、今始まる。

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