第2話 砕かれた常識
「ここを歩いていくの?」
「ああ、この地下鉄路線は港まで続いてる。どこに敵がいるかわからない地上よりかは安全だろう」
「でもだいぶ距離があるように見えるけど…」
「なに。2時間ちょっとだろ。行くぞ、鳴海」
地上での戦闘を切り抜けた後、増援の兵士たちから逃れるため、ユウといのりと共に地下鉄に逃げ込み今は路線図を前に作戦会議をしている。
その間、鳴海はこの奇妙な2人と彼らの属する組織について考えていた。
アルスヴィズ(Alsvid)—彼らの組織。
数十万人の従業員を抱える世界最大規模の民間軍事会社。
彼らを象徴するものの一つとして巨大な船があり、日本では基本的に活動が認められていないが、名古屋だけは例外的に補給などのために解放されており稀に寄港するのだとか。
現在も停泊しているその船に向かい彼らの仲間たちとの合流を目指している。
鳴海はユウからその話を聞き、混乱しながら路線図を眺めた。
「おい、鳴海。聞いてたか?」
「え、あ、すみません。なんですか?」
突然のテロと非日常の世界に触れて頭が追いつかない。
曖昧な返事をした鳴海にユウの瞳が怪訝そうに光るが、すぐに指示を出す。
「まぁ、いい。先頭は俺、いのりは後ろだ。鳴海は俺の2〜3m後ろを着いてこい」
「……わかりました」
ユウがホームから線路に降りる。いのりが無言で背後に立ち、緋色の瞳で促す。
鳴海は線路に足を踏み入れる。初めての感触。今日だけで何度「初めて」を味わうのか。
薄暗い地下鉄内を歩く。
駅のプラットフォーム付近は広告や照明によって眩い輝きを放っていたが、離れるにつれ照明は減り、見る間に暗くなっていく。
歩き始めて30分程経っただろうか。前後の2人は一言も発さず、ただ線路の砂利が靴底で軋む音だけが響く。
「それにしても…」
無言の間に耐えられずつい口が開く。
それに反応して前方のユウが肩越しに鳴海に視線を寄越す。
「民間軍事会社。正直縁遠い世界ですね」
「おいおい、今や世界のトレンドだぞ?どんだけ平和ボケしてんだ?」
てっきり声を出した事を咎められると思ったが意外にも会話に応じてくれた。
「国軍すら維持できないほど弱化した国家という枠組みに代わって軍事力を提供する。今の時代はPMC最盛期だ」
ユウの言葉が、薄暗い地下鉄のトンネル内に反響する。鳴海は彼の背中を見ながら、頭の中でその言葉を反芻していた。民間軍事会社、PMC——確かにニュースやネットで耳にしたことはあったが、こんなにも身近に、しかも命を賭けた戦場の一部として感じる日が来るとは思ってもみなかった。
「トレンド、ですか…」
鳴海は小さく呟き、足元の砂利を踏みしめる。ユウの言う通り、世界は変わりつつあった。国家の枠組みが揺らぎ、武力の需要が高まる中で、アルスヴィズのような存在が台頭している。それでも、鳴海にとってそれは遠い世界の話だった。つい数時間前までは。
後ろを歩くいのりが、ふと視線を鳴海に向ける。緋色の瞳が暗闇でほのかに光るように見え、鳴海は思わず身を縮めた。彼女の無言のプレッシャーは、言葉以上に多くを語っている気がした。
「なぁ、鳴海」
ユウが振り返らずに声をかける。
「こんな状況でも、頭でっかちに考え込むタイプか? だったら生き残れねえぞ。戦場じゃ、考えるより先に動くことが大事だ」
「動くって…どうやって?」
鳴海の声には戸惑いが混じる。戦場なんて、映画やゲームでしか知らない。銃声や血、死体の匂い——それらが現実だと受け入れるには、まだ心が追いついていなかった。
ユウは小さく笑い、肩をすくめる。
「簡単だ。生き残りたければ、俺の言う通りに動け。でなきゃ、死ぬだけだ」
その言葉に、鳴海の背筋に冷たいものが走る。ユウの声には冗談の響きがなかった。まるで、死が日常の一部であるかのような口ぶりだ。
トンネルを進むことさらに10分ほど。
「止まれ」
突然ユウがピタリと足を止め、右手を軽く上げて合図する。いのりは即座に反応し、身を低くして銃を構える。鳴海は二人の動きに遅れながらも、慌てて身を屈めた。
「敵だ。2人…いや3人か。次の駅のプラットフォームにいる」
ユウが囁くように言う。声は落ち着いているが、鋭い緊張感が漂う。
耳を澄ますと薄暗い照明が点々と続く中、確かに遠くでかすかな物音が聞こえた。
「どうする、ユウ?」
いのりが短く尋ねる。彼女の声は無感情だが、どこかユウの指示を待つ信頼が感じられる。
暗がりへ移動しつつ遠くの敵を観察したユウは逆にいのりに問いかける。
「いのり、もう一度確認するが残弾は?」
「あと1マガジン半。ユウは?」
「あと半分もない。しょうがない、アイツらから拝借するとしよう。静かにやるぞ。鳴海、お前はここで待ってろ。合図するまで動くなよ」
唐突な戦闘の気配に驚く鳴海をよそにいのりが小さく頷き、腰のホルスターからナイフを取り出す。刃は黒くコーティングされ、闇に溶け込むようだ。ユウも同様にナイフを手にし、まるで獲物を狩る獣のような目で前方を睨む。
「左の奴をやれ。右の2人は貰う。タイミングは俺の合図で」
「了解」
そういうやいなや2人は鳴海を置いて音もなく動き出す。鳴海は息を殺し、トンネルの壁に身を寄せて見守るしかなかった。心臓がバクバクと鳴り、冷や汗が背中を伝う。
プラットフォームの明かりが、遠くで揺れている。そこには黒ずくめの兵士が3人、武器を手に歩いているのが見えた。ライフルを肩にかけ無線で何かを話している。
ユウといのりは、まるで影のようにプラットフォームの端に忍び寄る。ユウが指で「3、2、1」とカウントダウンし、最後に親指を立てる。それが合図だった。
一瞬の静寂の後、二人の動きが爆発する。
ユウが右側にいた1人の兵士に背後から飛びかかり、ナイフで喉を一閃する。血が噴き出し、声にならない声を出しながら倒れる兵士。
ほぼ同時に、いのりが左側の兵士に飛びつき、ナイフを首の後ろに突き刺す。小柄な体からは想像できないスピードと正確さだ。
残った最後の1人が突然の強襲に慌てて銃を構えようとするが、それより早くユウのナイフが突き出される。脇腹を突き刺され悶絶している間に、追撃の一撃を喉に刺される、そのままナイフが横に滑らされ、おびただしい量の血飛沫を撒き散らしながら倒れ絶命する。
戦闘は10秒もかからなかった。
「クリア」
いのりが淡々と報告し、倒れた兵士の装備を素早く確認する。
ユウはライフルを手に取り、弾倉をチェックしながら鳴海に手招きする。
「よし、いいぞ。鳴海、上がってこい」
鳴海は震える足でプラットフォームに上がる。
そこは地獄絵図だった。目の前には血に塗れた兵士たちの死体。さっきまで生きていた人間が、こうも簡単に命を失うことに、鳴海の頭はまたもや混乱の渦に叩き込まれた。
「そら、みんな大好きカラシニコフだ。貧乏国家や犯罪者、ゲリラの強い味方だ。これで今日から君も兵隊だ」
衝撃から抜け出せていない鳴海に、ユウは死体から奪い取ったライフルを差し出す。
その様子を見ていたいのりが鳴海を精査するよう見る。
「ユウ、いきなりライフルは無理じゃない?」
「……ふむ、それもそうだな。じゃあサイドアームを」
いのりの進言を受けてユウは、差し出していたライフルをくるりと回して肩に掛けると今度は拳銃を兵士のホルスターから抜き取って渡してくる。
受け取ろうと伸ばした手を見ると震えていたが構わず銃を受け取る。
鋼の塊は思っていたより重く、ずしりと手の中に収まる。
またもや新たな「初めて」を経験した。
「通信はどうだ?」
ユウが死体を調べながら呟く。いのりは無線機を手に取り、耳に当てて何かを聞いている。
「だめ、暗号化されてる。船に戻らないと解析は出来ない」
「まぁ、いい。とりあえずこいつらの装備を剥げ。弾薬、手榴弾、スモーク、全部だ。鳴海、お前も手伝え」
「え、僕が!?」
銃の重さに圧倒されていた鳴海が思わず声を上げると、ユウがニヤリと笑う。
「戦場じゃ、使えるものは何でも使う。死体から物資を奪うなんて日常茶飯事だ。それに、生き残りたいならお前も少しは協力しろ」
鳴海はゴクリと唾を飲み込み、震える手で兵士のポーチを漁り始める。まだ温かさの残る身体に怯えながらも弾倉や手榴弾を取り出し、ユウに手渡す。いのりはすでに別の兵士から装備を剥ぎ取り、素早く自分の装備に組み込んでいる。
「これで少しはマシになったな。さぁ、行くぞ。港までまだ距離がある」
ユウがライフルを肩にかけ直し、トンネルの奥へと歩き出す。いのりが無言で鳴海を一瞥し鳴海も慌てて後に続く。
再び無言で歩く。
しかし、先ほどまでと決定的に違うことが手の中に収まっている。
「あの…コレはどう使えば…?」
銃。簡単に人命を奪える道具——を渡されたのはいいが使い方なんて知るはずもない。
振り返ったユウは一瞬疑問符を浮かべた様な表情を見せるが、すぐにあぁ、と得心した表情になる。
「そりゃそうか、知らないよな。いのり、歩きながらでいいから説明してやれ」
「わかった」
いのりが背後から鳴海の持つ拳銃をひょいと奪い、くるくると手の中で回す。
「この銃はMP-443、あるいはグラッチ。旧ロシアのイジェフスク機械工場が設計、開発した9x19mmのパラベラム弾を使用する自動拳銃で…」
「え、えっと」
「いのり、説明ってのはそうじゃなくてだな?」
そのまま饒舌に語り始めたいのりに鳴海が戸惑っていると、ユウが助け舟を出す。
不思議そうな顔をしているいのりに、鳴海が平和な日本の人間であり銃に馴染みがないから「使い方」を教えてやれ、とからかう様に指示をする。
それを受けていのりが鳴海の横に並び問いかける。
「まず銃についてどれくらい知ってる?」
「ゲームや映画くらいの知識なら…」
「つまり素人って事だね」
多少はある、という意味のつもりだったが一刀両断される。
日常的に銃に触れ、それを「正しく」使用している人種からしたら確かに素人なのだろう。いのりは気にせず銃を持ち上げる。
「まずはスライドを引く、そしてここの安全装置を外す。これで引き金を引けば撃てる状態になった」
一拍置いて、続ける。
「色々言っても一度では覚えられないと思うけど、トリガーに指を掛けるのは撃つ時だけ。最低限これだけ覚えておいてくれれば、私達は背後から撃たれる心配がなくなるから絶対に覚えて」
真剣な眼差しに、思わずたじろぎながらも「分かりました」と答える。
「まぁ、あなたがこれを使う状況にならないといいけど」
「それは僕もそう思います」
いのりは安全装置をかけてから銃を反転させ、鳴海に返す。
「それにしてもいのりの銃器オタクぶりは相変わらずだな」
やり取りを見ていたユウが先ほどと同じ口調でからかうと、いのりは少し不満げに唇を尖らせる。
「命を預ける武器に詳しいのは悪い事じゃないと思う」
ユウは苦笑しながら再び歩き出す。いのりは何か言いたげだったが、結局何も言わなかった。鳴海は、若さの割に大人びた印象のいのりが、存外年相応の反応を見せることに少し驚きながら、ユウの背中を追った。
「おいおい、マジか。各駅を巡回してんのか?どんだけ兵力展開してるんだ」
歩みを再開してから10分ほど。
次の駅に近づいていると再びユウが立ち止まり呆れたように声を上げる。
目を凝らせば次の駅のプラットフォーム上に5〜6人の兵士たちがいて何かを話し合っている。言葉は分からないが、やはりロシア系のアクセントだ。
「………というより私たちの存在がバレてるみたいだね。でもあの人たちからしたら襲撃早々に一部が壊滅して、さっきの駅の巡回兵も排除されたんだから、当然かな」
いのりが兵士の会話を聞きながら分析する。鳴海は「ロシア語分かるんだ…」と感心するが、ユウは舌打ちをする。
「こうなると地下を通り続けるのは時間の無駄だな。連中を排除してここからは地上を進もう」
「数が多いよ。今度はどうするの」
いのりの言う通り前の駅には3人しかいなかったが今回はその倍だ。いくらこの2人の練度が高くとも、不意打で一挙に全滅させるのは難しいだろう。
だが、ユウはライフルを眺めてから「そりゃあもちろん」と前置きしてから獰猛な笑みを浮かべる。
「正面突破だ」
彼のその言葉が合図だった。
ユウは一瞬でライフルを構え、プラットフォームの兵士たちへ向けて発砲する。消音器付きの銃声がトンネルに響き、最初の2人が頭を撃ち抜かれて即座に倒れる。だが、さすがに訓練されたプロだ。残りの兵士たちはすぐに遮蔽物に身を隠し、反撃の銃声を上げる。
「左から回れ! 俺が正面を押さえる!」
ユウがいのりに叫びながら、遮蔽物の陰から射撃を続ける。ユウの援護を受けたいのりは素早く動き、プラットフォームの側面に回り込む。小柄な体が闇に溶け、兵士たちの死角を突く。
鳴海はトンネルの壁に身を寄せ、息を殺して見守る。銃声と火花が飛び交う中、心臓が喉から飛び出しそうだ。ユウの射撃が兵士たちを牽制し、いのりが側面から一人を仕留める。だが、敵の反撃も激しい。鳴海の元まで飛来する弾丸がコンクリートを削り、破片が飛び散る。
戦闘は膠着状態に突入する。ユウといのりの連携は完璧だが、敵の数と訓練度が予想以上だ。兵士たちは互いに無線で連絡を取り合い、徐々に包囲網を狭めてくる。
「ユウ、残り3人!」
銃声の中、いのりが叫びながら正確な一発でさらに一人を倒す。
「くそ、しぶといな! 鳴海、隠れてろ!」
ユウの声が響く中、突然、背後から足音が聞こえる。鳴海が振り返ると、別のルートから回り込んできた兵士が一人、銃を構えて立っていた。距離はわずか数メートル。鳴海の手には拳銃があるが、構える暇もない。
兵士の引き金が引かれる瞬間、ユウが鳴海の前に飛び込み、盾となる。銃声が響き、ユウの体が何度も震える。胸、肩、腹——複数発の弾丸が彼を貫く。血が飛び散り、ユウが膝をつく。
「ユウさん!」
鳴海が叫ぶが、ユウは倒れたまま動かない。兵士が次の標的として鳴海に銃口を向ける。だが、その瞬間、いのりが側面から飛び出し、ナイフで兵士の腕を切り裂く。兵士が悲鳴を上げ、銃を取り落とす。いのりの追撃が喉を貫き、兵士は倒れる。
最後の1人となった兵士が反撃を続ける中、いのりは鳴海に駆け寄り、彼の手を掴んで引き起こそうとする。
「立って鳴海!」
だが、その背後で銃を構える兵士が見えた。いのりが反応しようとするが、兵士の動きが一瞬早い。引き金が引かれようとしたその刹那、鳴海は咄嗟に目を閉じ、手に持った拳銃を乱射する。
銃声がトンネルに響き、奇跡的に数発が兵士に命中。胸と腹を撃ち抜かれた兵士が倒れ、動かなくなる。
戦場が静寂に包まれる。
いのりが振り返り、驚いたように鳴海を見る。
「ありがと、助かった。でも次はちゃんと目を開けて撃ってね」
「あ、あぁ…」
初めて人を殺した鳴海は、震える手で拳銃を握ったまま、呆然と立ち尽くす。地面に広がる血溜まりと、倒れた兵士の姿が脳裏に焼き付く。吐き気がこみ上げるが、それを抑えるのが精一杯だ。
視線を移すと、ユウが血まみれで倒れている。鳴海の心臓が凍りつく。
「ユウ…ユウさん!」
いのりに支えられながらユウに近づくが、彼は動かない。胸に開いた穴から血が流れ、目は閉じられている。鳴海の頭はパニックに陥る。
「なんで…なんでこんなことに…」
だが、いのりは驚くほど落ち着いた声で、ユウに声をかける。
「ユウ、はやく起きて」
「い、いや、もう…」
鳴海が動揺する中、ユウの体がわずかに動く。血まみれの傷口が、まるで時間が巻き戻るように塞がっていく。肉が再生し、弾丸が押し出されて地面に落ちる。数秒後、ユウがゆっくりと目を開け、起き上がる。
「いてて…らしくないことするもんじゃないな」
ユウが軽く首を振って立ち上がる。何事もなかったかのような態度に、鳴海は言葉を失う。
「な、なんなんですかアナタは…!」
「自分の常識が全てだと思わんことだ。世界には俺みたいな存在もいるんだ」
ユウが笑いながら肩を叩くが、鳴海の混乱は収まらない。いのりはそんな鳴海を一瞥し、淡々と告げる。
「最初は誰でも驚く。でも慣れるよ」
「慣れるって…そんな簡単に…!」
鳴海の声は震えていた。目の前で人が死に、生き返る。そんな非現実的な光景を、頭が受け入れるはずがない。だが、ユウはそんな鳴海を気にも留めず、倒れた兵士の装備をチェックし始める。
「いのり、弾薬を補充しとけ。鳴海、よくやったな。初めてにしては上出来だ」
「よくやったって…僕、人が…人を…」
鳴海の声が途切れる。自分が引き金を引いた瞬間の感触、兵士の体が崩れ落ちた光景が、手と網膜に残っている。ユウはそんな鳴海を見やり、静かに言う。
「戦場じゃ、躊躇すれば死ぬ。お前が撃たなかったらいのりが、そしてお前も死んでたかもしれない。覚えておけ」
ユウが無言で鳴海の肩に手を置き、軽く叩く。その仕草は、どこか励ますようでもあった。
「さぁ、行くぞ。警戒を緩めるなよ」
ユウが再び歩き出す。いのりが後に続き、鳴海は震える足で彼らを追う。手の中の拳銃が、さっきよりも重く感じた。