7話「相談」
「改めて、お久しぶりです。焔ユガミさん。お元気でしたか?」
「……っ」
サヌちゃんは微笑みながら私を見下ろして言います。
見るからに怪しさを感じる不気味な笑顔。私は恐れ慄きました。
サヌちゃんが一歩ずつ私のもとへと歩んできます。壁に反響して足音がよく響きます。
私は怖すぎて立ち方を忘れてしまい、思わずぺたんとその場に割座の体勢になってしまいました。
(あっ……えぅっ……)
私は人生で一番の絶望を私は味わっていました。
心の中ですら言葉を紡げないほどの深い絶望が刻まれていました。
これまで犯した過ち。その罪悪感がまず私を押し潰していました。
それから、チンピラ三人に絡まれたときの恐怖の余熱と、自らが傷付けた相手が目の前にいる恐怖が、私を取り巻いていました。
罪悪感と申し訳なさ。純粋な恐怖と得体の知れない恐怖。様々な要因が重なって、いくつもの負の感情が私に牙を向きます。
私が一人発狂してしまいたくなるほどの絶望を感じていると、サヌちゃんが目の前までやって来て言います。
「そもそも私のことを覚えていますか? ほら、小学生のときに清水香サヌというクラスメイトがいたと思うのですが……。もしかして記憶にないですか?」
「……!」
忘れるはずがありませんでした。
あの日から今日に至るまで、常に身に刻んで生きてきました。
(あ、あっ……謝ら……ない……とっ……!)
私は反射的に謝ろうとします。
罪をしっかりと自覚し反省していることを伝えようと、言葉を発そうとします。
ですが……
「あ……あぅぁっ……! っ゛ぅ……っっっっ……」
言葉がまったく出てきませんでした。
震える口からは、声になっていない声が息と共に漏れ出てくるばかり。
精神不調が限界まで達した結果、私は思うように言葉を発せませんでした。情けのない声だけが相手の耳に届きました。
サヌちゃんは私の様子を見て、微笑みを崩さずに言います。
「あらあら、今はまともに会話ができる状況ではなさそうですね。まあ、あんなことがあったあとですしね」
サヌちゃんは私の顔を最後に見て、後ろを振り返って歩き始めます。
校舎裏を立ち去りながら私に言いました。
「それではまた後日話しましょうか。少なくとも、ユガミさんは私のことを覚えてくれているようですし。では……」
サヌちゃんはやがていなくなりました。
私は気絶した女の子と共にただ二人取り残されます。
私はサヌちゃんがいなくなった瞬間、肩の力が抜けるのを感じました。割座のまま猫背になって、大きく何度も息を吸って吐きます。
(謝れ……なかった……。あんなに謝ろうって決めていたのに……)
私は震えたまま、この場で何もできなかったことに無力さを痛感させられます。
チンピラ三人から襲われても抵抗できず。理不尽に襲われかけるサヌちゃんをただ見ていることしかできず。しまいには、最初から決めていた謝罪という行為一つすら成せず。無能以外の何物でもありません。
私は涙を手で拭いながら、どっと疲れた体を起こして立ち上がります。
(帰ろう……)
私は、気絶している女の子をその場に残して、荷物を取って帰路につきました。
道中、私は生きた心地がしませんでした。お先真っ暗まっしぐらで、心は穏やかではありません。
曇った顔で荷物を強く抱きしめながら、足をズルズルと引きずるようにして歩きます。
本当は帰りたくはありません。一人になって、そのままふらっとどこかに行って、行方をくらましたい気分でした。
でもそんなことをするわけにもいきません。もししてしまえば、家族に大きな迷惑をかけることになるからです。
自分の勝手な気持ちで誰かを巻き込むわけにはいきません。私は、今日の出来事を家族には内緒にしようと決めました。
時間をかけて歩くこと一時間。ようやく家にたどり着きます。
本来であれば二十分もかからない距離にあるのですが、想像以上に時間がかかりました。
私は家の前で目を瞑りながら深呼吸をして、震えが止まるように心を落ち着かせます。
(心配をさせない……。迷惑をかけない……。悟らせない……)
呼吸をする度に、少しずつ震えが引いていきます。たまに手がビクつきますが、何とかバレない程度にまでは抑えられました。
私はドアノブに手をかけて、恐る恐る扉を開きます。
「ただいまー……」
中は静かでした。
生活の音はまったく聞こえず、外の環境音がじんわりと聞こえてきます。
私は靴箱に靴を入れます。お母さんの靴がなかったので、どこかに出かけているのかもしれません。
一方で、お姉ちゃんの靴はありました。いっそ誰もいないほうが都合が良かったのですが、そんなにうまくはいきません。
私は階段を上がって、二階にある共同部屋の扉を開けます。
中には勉強机に向かう姉の姿がありました。何やらノートを取っている様子です。
私の帰宅に気が付いて、こちらに顔を向けます。
「あ、おかえりユガミ。どうだった? 大丈夫……だった……?」
「……!」
途中からお姉ちゃんの顔が少し歪み始めるのが分かりました。
もしかしたら、押し殺した感情を隠しきれていなかったのかもしれません。
(まずい……!)
私は絶対に悟らせまいと、にっこり笑顔で応じます。絶対にバレるわけにはいきません。
私は必死に嘘の言葉を吐きました。
「う、うん……! 大丈夫だったっ……! お、お友達とかは……その……まだいないけど……。で、でも……雰囲気は……わ、わりと良かった……っていうか……」
「…………」
「す、少なくとも過ごしやすい環境だったのは……ま、間違いない……よ……? のんびり、まったりって感じでさ……」
「…………」
「あー、でもずっと引きこもっていたから、朝は辛いかも〜……! お、起きるの大変だなー……! あはは……!」
しかし……
「ねえ……」
「ど、どうしたの……お姉ちゃん……?」
「嘘……なんだよね……? どうして嘘をつくの……?」
「……っ!」
お姉ちゃんにあっさりと見抜かれてしまいます。
ですが、まだ疑っているだけで、確信までは抱いていなさそうな様子でした。
私はさらに必死になって喋ります。ここまできて引き下がるわけにもいきません。
「う、嘘じゃないっ……! こんなところで嘘なんかつくわけないよ……! ほ、本当に楽しかったの……! うまく返せなかったけど、クラスの人にたくさん話しかけられたし……! 先生も優しくて、私のことを助けてくれた……! 充実してた……! 満足できた……! ぜ、全部本当のことだからっ!」
「ユガミ…………」
私は本当の想いをすべて吐き出すように、偽りの言葉を叫びました。
一瞬だけ静寂がその場に流れて、お姉ちゃんは悲しむような表情を浮かべて言います。
「じゃあその顔は何……? そんなに楽しかったのなら、何でそんな顔をしているの……?」
「えっ……?」
私は思わず、両手で顔をくまなく触って確かめます。
こわばった顔、引きつった目、震える口にいつの間にか頬を伝っていた涙。本当の想いが表情に表れてしまっていました。
「あっ……ああっ……!」
私はその事実に気が付いた途端、必死に隠していた感情があふれ出てきてしまいます。
私はその場で膝をついて頭を抱えました。お姉ちゃんはそんな私を見て、
「馬鹿っ……!」
そう言い放ちながら、私を包み込むように抱きしめました。
抱きしめられた瞬間、お姉ちゃんの温もりが全身に伝わってきます。
(あたたかい……)
愛情の込められた温かいハグでした。緊張でこわばっていた心と体が和らいでいくのを感じました。
ちらっと顔を覗き込むと、お姉ちゃんも涙を浮かべていました。
まるで自分のことのように、私を想ってくれていました。
私は自然とお姉ちゃんの背中に手をまわしていました。さらなる温もりを求めて、救いを求めるように愛を求めます。
お姉ちゃんはそれにも応えてくれました。一層強く、けれども優しく私のことを強く抱きしめてくれました。
私の悴んだ心は、お姉ちゃんの温もりによって少しずつ元に戻っていきました。
数分も過ぎる頃には、震えが止まっていました。緊張がすべてほぐされて、不必要に体に入っていた力が取り除かれていきます。
私の安心するような表情を見てお姉ちゃんは、
「落ち着いた?」
「うん……」
「もう嘘なんてつかないでね……?」
「分……かった……」
そう言って一度ハグを解除しました。
改めて話せる状況に戻ったところで、お姉ちゃんは再び話を始めます。
「それじゃあ改めて聞くけど、学校で何があったの? 教えてほしいな」
「えっと……」
私は話しました。
登校中に不安で押し潰されそうになったことや、教室にもまともに入れなかったこと。
過去にいじめてしまったサヌちゃんと再会したことや、いきなり理不尽に暴力を振るわれかけたこと。
そして、そんな私をサヌちゃんが助けてくれて、私は恐怖で何も言えなかったこと。
今日一日で起こった出来事を、一から十まですべて説明しました。
お姉ちゃんは、
「そっか……災難だったね……。でも、すごく頑張ったんだね……ユガミ……!」
「……!」
そう言いながら笑顔で私の頭を撫でてくれます。私の高校生活への挑戦を心から祝福してくれました。
ただそれと同時に、
「それで、何でそれを隠そうとしたの……? 何で嘘をついたの……?」
「……」
私がお姉ちゃんに嘘をつこうとしたことを、しっかりと問われます。
答えたくありませんでしたが、答えないわけにもいかないので、お姉ちゃんから目を逸らしながら言います。
「め、迷惑を……かけたくなかったからっ……。生まれてから今まで……家族に迷惑をかけたことしかなかった……。だ、だから……高校生として生まれ変わった以上は……責任を持たないといけないと……思って……」
お姉ちゃんは、
「何それ……。本当に馬鹿じゃない……。家族に迷惑をかけるなんて当たり前のことでしょ? 一人で抱え込むことを責任とは言わないよ……」
私は言い返そうとします。
「で、でも……私はお姉ちゃんに損をさせてばかりで……」
が、その発言はお姉ちゃんに遮られてしまいました。
「家族っていうのは損得で動く薄情な関係性じゃないでしょ……! そんなこと気にしなくていいの……! 迷惑なんて考えてないで、相談してよ……」
「お姉……ちゃんっ……」
申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、とても嬉しい言葉でした。
私はその言葉をありがたく受け入れて、噛み締めました。
「あ……のね……」
その後、私はお姉ちゃんに相談をしました。
明日から自分はどうしていけばいいのか。どんな行動を取っていけばいいのか。漠然とした悩みをぶつけました。
お姉ちゃんは言います。
「やっぱり、まずは謝罪かな……。再会してしまった以上は、関わりを持つことを避けることはできない。ユガミの話を聞く限りだと、相手はユガミと関わることに抵抗はなさそうだから、ちゃんと謝ったほうがいいと思う……」
私は返します。
「どうすれば……恐怖に打ち勝てるかな……?」
「そこだね……。これに関しては心の持ちようの問題だからな……」
「無理……なのかな……?」
「んー……。物事を強く意識しすぎないのがいいんじゃないかな……? ユガミって考え込むタイプだから、余計なことまで考えて不安に押し潰されちゃうでしょ? とりあえず謝ることだけを考えて、その先のことは何も考えないようにするのはどう?」
「ああ……」
たしかに私は、ついつい考え込んでしまう癖がありました。
過去の罪。相手の気持ち。未来に対する漠然とした不安。複数のことを同時に抱え込むことで、自身の容量を超えてしまうことがありました。
言葉を発せなくなったのはその最たる例と言ってもいいでしょう。
私はお姉ちゃんの提案を聞き入れることにします。
「そうする……。ありがとう、お姉ちゃん……!」
「うん、頑張れ!」
お姉ちゃんは最後に笑顔で応じてくれました。
その笑顔に、私は少しだけ勇気付けられた気がしました。
私はその後、外から帰ってきたお母さんにも今日の出来事について説明を行いました。
お母さんも、お姉ちゃんと同じように道を指し示してくれた上で、背中を押してくれました。
こんな私を無条件で応援してくれて、自分のことのように親身になって考えてくれる家族がいるなんて、私はどれだけ恵まれているのだろうと思いました。
明日こそは怖気付かずに、自分とではなく、サヌちゃんと向き合う。
私はそう決めて、とっととベッドの中に潜って、緊張に数時間ほどうなされながら眠りにつきました。