21話「サヌちゃんの過去・前編」
──曰く、サヌちゃんは不登校になったあと、しばらく何もできなくなっていたそうです。
冤罪。暴言。暴力。無視と言った陰湿ないじめの数々が彼女の心を徹底的に潰していった結果、サヌちゃんは布団にうずくまって「ああぁぁ……」だとか「うぅっ……」といった掠れた母音しか発せなくなってしまいました。
学校に行くどころか、家から一歩も出られないほどに精神を蝕まれて、朝起きてから寝るまでまともにベッドの上から動くこともできずに、刻み込まれたトラウマに怯え続ける日々。地獄であり絶望の時間のようでした。
しかも、サヌちゃんには親がいませんでした。
両親はそれぞれ出産や持病の悪化に伴って、すでにこの世を去っていました。
いたのは、歳が十ほど離れたお兄さんが一人のみ。お兄さんが四六時中働くことで、何とかギリギリ生活を維持していました。
そんななかで起きた、今回のいじめ騒動。お兄さんはサヌちゃんの事情について担任から直接説明を受けますが、生活を続けるには心の壊れた妹につきっきりでいるわけにもいきません。
お兄さんは悔しさを抱えながらも仕事を優先しました。一応、可能な限りサヌちゃんの側にいましたが、その時間はあまりに短いものでした。
その結果サヌちゃんは、一日のほとんどを真っ暗闇の部屋の中で過ごして、悶え苦しみながら恐怖し続けることになります。
朝起きたら、まずチョコチップ付きのスティックパンを何本か口に入れます。
精神不調により食欲が減退していたのであまり気は進みませんでしたが、小さい一口で少しずつ食べ進めました。
食べ終わるとしばらくはやることがありません。時々お水を飲んだりお手洗いに行ったりする程度で、ずっとベッドの上で何もせずに身体を休めていました。
ただ、やることがないと、否が応でも考えが頭に過ぎってくることになります。
サヌちゃんの場合は環境が環境だったので、思い浮かんでくるのはいつも憂い事ばかり。
最初は雲のようにふわふわとした思考でも、時間が経つほどに深く考え込んでしまうので、気が付けばそれは自身を突き刺す鋭い針へと変貌を遂げていました。
その針はやがて、サヌちゃんの内側にある核を突き刺して痛みを生じさせます。
「……っ」
サヌちゃんはその度にシワが付くほどに服を掴んで胸の辺りを押さえますが、痛みは内側にあるので何の意味もありません。
ボサボサな髪を掻きむしってより乱したり。拭っても拭っても洪水のようにあふれ出てくる涙で袖を濡らしたり。
心の痛みに苦しみ喘いで、ただ時間が過ぎるのを待つしかありませんでした。
強いて言えば、自分の首根っこを掴むと不快感でえずくことがあるらしいので、それで気を紛らわせていたそうです。
お昼になると、お兄さんが朝早くに作り置きしてくれたお弁当を取り出して食べます。
からあげやたこさんウインナーなど、サヌちゃんが比較的好む食材が、野菜と共にバランス良く詰め込まれていました。
サヌちゃんは両手を合わせると、黙々と食事を始めます。
お兄さんからの愛情を感じながら、噛み締めるように食べ物を口に入れます。
好きなものを食べても、普通のものを食べてもとくに表情を変えることはありません。
側から見れば作業にしか見えない光景でしたが、サヌちゃんにとっては唯一の至福でした。
十数分ほど時間をかけると、サヌちゃんはお弁当の中身をすべて食べ終えます。
お兄さんに迷惑をかけたくなかったので、サヌちゃんはお弁当箱を洗って机をシートで拭いて、ベッドに戻りました。
昼からもとくにやることはありません。
絵本や少女漫画が棚に置いてありましたが、それを手に取る気にはなれませんでした。
色鉛筆やクレヨン、スケッチブックなどもありましたが、触れたいとは思えませんでした。
とにかく無気力で、何かに打ち込もうとする気にはなれなかったそうです。
一応、過去に一度だけ気を紛らわせたくて、手当たり次第に本や絵に触れたこともあったとのことです。
しかし、トラウマが強すぎて本を読んでもまったく内容が頭に入ってこず、絵を描けばそのときの記憶が勝手に絵に現れてくるという事態になりました。
この調子で何かに打ち込めるはずがない。サヌちゃんは諦めて、何もせずに時間が過ぎるのをただ待ち続けていました。
夕方になると、その日最後の食事の時間です。
お兄さんが早く帰れた日は直接料理を振る舞ってくれますが、基本的にはコンビニ弁当やサラダで済ませます。
お弁当をレンジで温めて、取り出して蓋を開けていただきます。
一日を通して唯一トラウマを思い出さずにいられるのは、この食事の時間と睡眠の時間のみ。
サヌちゃんはお弁当の中に入っていた鶏肉の味に意識を集中しながら、何も考えずに食事を進めました。
あとはお兄さんの帰宅を待つだけです。
いくら働き尽くしとは言っても、サヌちゃんが起きている時間内には帰ってきます。
お兄さんが帰ってくるであろう時間帯が近付いてくると、サヌちゃんは少しソワソワし始めます。
寂しさ故のものでした。まだまだ幼いサヌちゃんには孤独は辛いものでした。心が弱っている今はなおさらです。
サヌちゃんは時計の針を無意味に何度も確認して待ちます。
しばらくすると、玄関の扉が開く音がしました。サヌちゃんは目を見開いて出迎えずに待機します。
すると玄関のほうから「ただいま」というお兄さんの声が聞こえてきて、すぐにお兄さんがサヌちゃんの部屋の中へと入ってきました。
「ただいま……!」
サヌちゃんは振り絞るように掠れた声で返します。
「お……かぇ……りっ……」
「すぐにやること済ませるから、待っていてくれよな」
「う……ん……」
お兄さんはサヌちゃんの前ではいつも笑顔でした。
その笑顔を見ると、サヌちゃんは少しだけ安心することができました。
それからお兄さんは家事やら何やらを急いで片付けて、再びサヌちゃんの部屋にきます。
「おまたせ。えっと……一緒におままごとでもして遊ぶか!」
「もう……そんな歳じゃない……よっ……?」
「そ、そうか……! じゃ、じゃあ……えっと……そうだな……」
何をするか必死に考えているお兄さんに、サヌちゃんは言います。
「側にいてくれれば……それでいい……」
「……!」
お兄さんは少し驚きますが、
「……分かった!」
そう言って、サヌちゃんの隣に座りました。
二人は何をするわけでもなく、ただ座ってじっとしていました。
何かを待つわけでもありません。会話どころか目も合わせることもしませんが、それでサヌちゃんの心はいくらか満たされていました。
ただ何もせずにベッドの上で過ごすだけ。朝や昼と何ら変わらない光景でしたが、心境的には大きな変化が訪れていました。
寝る時間になると、自然とうとうとするようになります。
「……」
サヌちゃんの眠そうな様子に気が付くと、お兄さんはサヌちゃんを横にして、布団を被せます。
「おやすみ……」
「おや……すみっ……」
サヌちゃんは目を閉じて眠りにつきました。
これがサヌちゃんの一日の流れでした。毎日のようにトラウマとの恐怖と戦いながら、最低限の食事や睡眠をとるだけ。
朝起きる度に途方もない地獄が始まることに憂鬱になって、気分が沈みます。
そんな生活をサヌちゃんは、不登校になってから半年ほど続けていたそうです。
まだまだ幼いサヌちゃんにとって半年とは、それはもうとてつもない時間。
気の遠くなるような時間をサヌちゃんはドブに捨てるように何もせずに過ごしました。
それでも、時間が解決してくれることはありませんでした。




