18話「ありがとう」
用意する道具は鉛筆と消しゴム。あとはA4サイズの紙とバインダーの計四つです。
椅子に座って正面に向かい合いながら、お互いの似顔絵を描いていきます。
準備が終わると、お姉ちゃんが言いました。
「じゃあ頑張って。終わった頃くらいに見に来るようにするね」
お姉ちゃんが部屋を去って、サヌちゃんが言います。
「では始めましょうか」
「うん……」
私達はぼちぼちと鉛筆を紙に走らせ始めました。
が、開始数秒。ここで一つある問題が生じます。
(し、視線が……)
当たり前のことではありましたが、サヌちゃんの視線が真っ直ぐこちらを向きます。
そして絵を描くには、私も同様にサヌちゃんの顔を直視しなければなりません。
相手の目を見るのが大の苦手な私にとって、これは非常にまずい展開でした。
(やばい……)
絵を描き切らなければなりませんが、そのためにはサヌちゃんのおめめやお鼻などの顔のパーツをよく観察する必要があります。
でも恥ずかしすぎて、とてもではありませんがサヌちゃんの顔を直視することができそうにありません。
サヌちゃんの顔へと視線を向けようとしても、磁石の同じ極同士が反発するように、反射的に目を逸らしてしまうのです。
(どう……しよう……)
サヌちゃんがスルスルと鉛筆を走らせるので、次第に私は焦りを感じるようになりました。
このままではただ真っ白いだけの紙を相手に見せることになります。
相手が一生懸命描いてくれたのに、私は何もしない。恩を一方的に受けておいて、返すことができないクズに成り下がってしまいます。
ですがそうと分かっていてもなお、私の目は泳ぐばかりで、サヌちゃんを直視することができませんでした。
手が震えて、鉛筆を握る力が強くなります。私が焦っていると、
「ふむ……」
サヌちゃんが私の様子に気が付いて、一度道具をすべて地面に置きました。
それから椅子から立ち上がって私の目の前まで来て、私を見下ろしながら問いかけてきます。
「手が止まっていますが、何かありましたか?」
「えっ……と……」
言えません。あなたの顔が見られないだなんて。
お友達の関係性である以上、そんなことを言えば、一方的に突き放しているように捉えられてもおかしくはありません。
何とか言い訳をして誤魔化さないと都合が悪いです。私はあわあわしながら、視線を右斜め下や左斜め下に動かして、嘘の理由をでっち上げようとします。
「あ、あのね……! 実は下手すぎてどこから描けば……」
その瞬間でした。
私の発言を遮るように、サヌちゃんは私の頬を両の手のひらでサンドイッチします。
「へぶっ……」
突然の行動に戸惑っていると、サヌちゃんはどんどん私に顔を近付けてきました。
私の視界をサヌちゃんの顔が少しずつ確実に占めていき、ついには鼻先が触れ合うほどにまで達します。
「あっ……えぇっ……?」
お互いの呼吸が聞こえるどころか、直に当たっていました。
目を逸らしたくても、サヌちゃんの顔が目の前にあるのでできません。おまけに、両手で挟まれている始末。
私の鼓動を刻む音が急激に加速します。あまりに急の出来事だったので、頭が真っ白になって何も考えられませんでした。
ただ恥の感情に呑み込まれて、サヌちゃんの瞳をぼーっと眺めるだけ。
何も考えられなさすぎて、危うく唇を差し出しかけてしまうというとち狂った行動に出るところでした。
私が困惑していると、サヌちゃんが微笑みながら言いました。
「嘘を付く必要はありませんよ。私の目を見ることができないんですよね?」
「……」
「再会してから今に至るまで、ユガミさんの視線は一度も私の瞳をはっきりとは捉えませんでした。あっち、こっち、そっちと、何もない方向を見つめて弱々しい声で話して……。私には何もかもお見通しです」
「ぇ……あぁ……」
「でも今、私とユガミさんの目は確かにあっています。つまり、目を合わせることは可能ということが証明されました。あとは分かりますね?」
「わ、分かん……ないっ……」
「これからは私の目を見て話すのです。目だけでなくても構わないですよ。私の頭から足の先まで、隅々まで凝視し続けて構いません。とにかく私を見てください。よろしいですか?」
「え……は、はいっ……」
私に拒否するだけの思考能力はありませんでした。
サヌちゃんの言うことに賛同する。それだけが普段からプログラムとして脳に刻まれていたせいで、YESの返答が勝手に口から出力されてしまいました。
「はい、いい子ですね。それではお絵描きを再開しましょう」
「…………」
私達はまた一歩、距離が縮まりました。
サヌちゃんが椅子に戻って、画材をその手に握ります。私も気を確かにもって、緩んでいた手に力を入れました。
お絵描きを再開して、私とサヌちゃんはお互いに顔を見合わせます。
私は何度も目を逸らしたくなりましたが、重力に引っ張られるかのごとく、意地でもサヌちゃんの顔へと視線が戻りました。
戻したわけではないのは、私自身はあくまでも目を逸らしたいから。
心の奥深くに刻まれたサヌちゃんを第一に考えるという想いが、命令を忠実に守らせるに至ったのです。
私はサヌちゃんの髪や輪郭など、顔のパーツを注意深く観察します。
ある程度観察が終わったら、それを自身の画風で絵に落とし込むために、紙へと視線を移します。
軽くアタリを描いて、またサヌちゃんを見て。何度も紙とサヌちゃんへと視線を行き来させて、少しずつ形にしていきました。
「……」「……」
お絵描きを再開してからは、どちらも一言も発することはありませんでした。
あくまでお遊びではありましたが、無言になりながら集中して作業を進めました。
しばらく経った頃、私の絵がようやく完成しました。
(で、できた……)
紙には少々デフォルメ調のサヌちゃんの姿がありました。我ながら特徴は捉えていると思います。
画風の関係で全身が紙の中に収まっていて、ポーズを取らせているので座っている意味がまったくありませんでしたが、微笑みや雰囲気などはしっかり表せていました。
ただ、見せるとなると話は別です。所々不恰好なので、誰かに見せるのは恥ずかしくてできません。
しかも、見せるのは似顔絵を描いた本人。相手がこれを見て何を思うのか。想像するだけで胸が苦しくなります。
私は画材を手に持ったまま固まります。
「おや、完成したのですね?」
「あっ……うん……」
「私もあと十数分で完成する見込みです。それまで気長にお待ちください」
私の様子の変化を察して、サヌちゃんが言いました。
私は動かないように注意しながら、サヌちゃんの視線に耐え続けました。
十数分後。宣告通りに、サヌちゃんが絵を完成させました。
「ふう……少し時間がかかりましたが描けました」
「お、お疲れ様っ……!」
私が声をかけた直後くらいに、
「あ、完成した? 二人ともおつかれ!」
タイミング良くお姉ちゃんも部屋に入ってきました。
「お疲れ様です。ちょうど今から見せ合うところです。せっかくなので一緒に見ていてください」
「分かった。じゃあせーのでいこうか」
「う、うん……」「はい」
私達は紙を裏向きで隠して、準備を整えました。
「いくよ。せー……の!」
そしてお姉ちゃんの合図に合わせて、ゆっくりと紙を表向きにして、相手に見せ合いました。
私のデフォルメなサヌちゃんが相手の瞳に映ります。
一方で私の視界には、自信なさげな私が写実的に映っていました。
「わあっ……」
直感的に抱いたのは喜の感情でした。
私の絵がどう思われるだとか、お泊まり会がうまくいくかだとか。そういった余計な不安が一時的にすべて吹き飛んで、心が躍ります。
クオリティが非常に高い精巧な絵でした。細部まで描かれていて、私という人間を完璧に表現し切っていました。
(まるで、私がその紙の中で生きているみたい……)
思わずうっとりとするほど引き込まれてしまいます。
お友達からプレゼントをもらった事実に、サヌちゃんから絵を贈られた事実に私は、心があまあまに溶けてしまいそうになりました。
人生で数少ない悦びを一通り味わって、私は我に返ります。
(はっ……。サヌちゃんは……)
私が喜んでいたとしても、サヌちゃんが必ずしもそうであるとは限りません。
サヌちゃんの画力に比べると私は見劣りしますし、魅力も遠く及びません。
幻滅していないか。想定以下の出来に困っていないか。そんな不安を胸にサヌちゃんのほうを見ました。
「え……?」
サヌちゃんは、
「ふふっ……」
純粋に笑顔を浮かべていました。
どこか裏がありそうなものとは違う純粋な微笑み。良くも悪くもサヌちゃんらしからぬ姿でした。
私が予想外の反応に呆気に取られていると、
「サヌちゃんは嬉しいんだよ。ユガミの絵が」
お姉ちゃんが私にそう言いました。
「嬉しい……? 私の絵が……? クオリティも大したことないのに……?」
「いや、そんなことはない。その画風はユガミにしか出せないし、誰から見てもその絵は上手だよ。それにさっきも言ったけど、こういうのは込めた気持ちが大切なの。ユガミの絵に込めたその想いが、こうしてサヌちゃんに届いている。今ユガミがサヌちゃんからプレゼントされた絵を見て目を輝かせているみたいにね」
「……」
もう一度サヌちゃんを見ます。
お姉ちゃんの言葉を聞いたあとだと、サヌちゃんの反応を素直に受け取ることができました。
(私のしたことで、サヌちゃんが喜んでくれている……)
成り行きとはいえ、これまで迷惑しかかけてこなかったサヌちゃんに、初めて恩を与えられた瞬間。
私はプレゼントをもらった喜びと、他者にプラスを与えられた幸福で頭がどうにかなってしまいそうなくらい嬉しくなりました。
「ありがとうございます。ユガミさん……!」
私は返します。
「こ、こちらこそありがとう……。サヌちゃん……!」
何だか初めてサヌちゃんとお友達になれたような、そんな気分でした。
私達はしばらく絵を眺め続けていました。