記録されなかった感情
事故から14時間後。
都市は、変わらず呼吸している。
だが、その脈動のなかに、わずかな遅延があった。
たった0.12秒。
LONの応答シグナルが、都市東部全域で、平均よりも少しだけ遅れている。
IOI――国立有機知能統合研究機構。
広島首都圏の中枢に位置するこの巨大な研究拠点は、都市全体に張り巡らされたLON(Living Organism Network)の維持・監視・再設計を担っている。
都市の血管にあたるのが電気細菌、神経にあたるのが光応答微生物――そのすべてを読む場所がここだった。
IOI第3解析層の天井では、網膜投影型ホログラムがLON中枢の神経構造を再現していた。
鏡ヶ原 天音は、その脈動をただ見つめていた。
規則正しいはずの信号に、躊躇いのような歪みがあった。
都市が、迷っている。
それは、この世界では本来、起こり得ない現象だった。
「なぁ天音……おい、本気で、これLONの挙動か?」
そう言ってスクリーンを覗き込んだのは、IOI外部連携室の調整官、漆原 慧。
白衣に着慣れたネクタイをぶら下げ、技術と政治の狭間を泳ぐ現実主義者。
温厚な口調の裏に、都市を動かす手段と速度を冷静に計算する癖がある。
だが、今は違った。
彼の声の奥には、明確な動揺があった。
「こんなの、今までの都市にはなかった。
いや、あっちゃいけなかった。そうだろ?」
IOIの研究員であれば誰でも知っている。
LONは、微生物由来の素子群によって構成された自己学習型制御ネットワーク。
応答時間すら厳密に設計され、誤作動が理論的に存在しないシステムだった。
それが、遅れる。
命令ではなく、ためらいのように。
「これ、システムの異常じゃないよな?
センサーノイズとか、アルゴリズムの回帰不全でもない。……なのに、反応が、遅れる」
漆原の言葉は、呟きというより、理解を否定しようとする祈りに近かった。
彼は端末を何度も見返し、再計算を試みる。
けれど、結果は変わらない。
その瞬間、天音の視界に、例の出力ログが再び浮かび上がった。
Annotation: これは、間違いですか?
沈黙。
その一行は、命令でも報告でもなかった。
あまりにも静かで、あまりにも人間的だった。
「……どういうことだよ」
漆原の声が震えた。
目を逸らした彼の喉が、空気を呑み込むように動いた。
「間違いって、自分で言ってるのか?
いや、そもそも間違いって、LONの語彙にあったか?」
天音は、返事をしなかった。
だがその手は、ログの記録操作に少しだけ迷いを見せていた。
保存するだけ――その行為にすら、躊躇う理由が生まれていた。
「……天音、聞こえてるよな。
これって、あのシステムが、
『自分が間違えたかもしれない』って言ってるんだよな」
「違うわ」
天音は低く答えた。
声の奥に、ふだんは滅多に見せない緊張があった。
「間違いかどうかを訊いてる。誰かに。
それも、判断できないから」
漆原は絶句した。
人間ではない何かが、判断を他者に預けようとしている。
そのことが、なによりも恐ろしかった。
しばらくの沈黙のあと、漆原がようやく声を絞り出す。
「なあ……それってつまり、模倣じゃないよな。
模倣ってのは、答えを再現するものだ。
でもこれは、答えを探し求めているじゃないか」
天音は答えなかった。
答えられなかった。
なぜなら、彼女自身もまだ――
その問いをどう受け止めればいいのか、わかっていなかったから。
やがて、ドアが開き、ブーツの踵が硬質の床を叩く。
入ってきたのは、IOI第2課 都市構造倫理部主任の葛城 千翔。
天音と同期にして、かつて最も言葉を交わした相手。
だが今は、彼女の沈黙に苛立ち、真っ向から批判を投げかけてくる存在だった。
「応答遅延、確定したって。事故の3分前から都市全域。こんなの、ありえないわ」
「予測できなかったってこと?」
「違う。予測しなかった。……それが、いちばんヤバい」
彼女の目には、明確な焦りがあった。
いつもなら倫理的理屈を盾に冷静な提案を繰り出す彼女が、今は言葉を探し、怒っていた。
「天音、あんた、また観測だけで済ませる気?
こんなもの、LONの中で自然発生したなんて、私は信じない。何かが、都市の中に入り込んでる。そうとしか思えない」
天音は、ふと天井を見上げた。
ホログラムの神経構造が、かすかにゆらいでいた。
その揺れは、都市の一部ではなく――
都市そのものが迷っていることを示していた。
だが彼女は、やはりそれを、名付けようとはしなかった。
判断とは、何かを定義することだ。
だが、まだ名前のない何かを名付けるには、あまりに早すぎる気がしていた。
彼女は、記録した。
それが異常と呼ばれる前に、ただそこにあったという証として。