構造化された夢
午前8時12分。
広島首都圏第6居住層、第3交通ノード直下。
この街で暮らす者たちの多くは、この時刻に地下鉄へ向かう。
習慣、ルーティン、社会。すべてが最適化された導線の上で生きている。
都市は、人間より人間をよく知っている。
そう思っていた。
だが、この朝、広島首都圏のLONは再計算を行った。
人々の位置情報、脈拍、皮膚温、視線方向――都市は、それらを予測へと繋げた。
「混雑予測ルートAの負荷が基準値を超過。
迂回経路:第5補助ルートを推奨。安全です。」
落ち着いた女性の声。違和感など、誰も抱かなかった。
いつものように、端末のガイドに従い、人々は移動を開始した。
それが、誰かの判断ではなかったことを、彼らは知らない。
第5ルートは、再開発予定区域を含む旧地下通路だった。
半年前に行われた地盤スキャンでは、わずかに浮き沈みの兆候が見つかっていた。
本来ならば通行禁止措置が取られるはずだったが、LONが自動的に安全判断を出し、それを上書きしていた。
都市にとって過去の記録より、現在の構造と流動の方が信頼に足る。
それが、最適化判断の根幹だった。
そして人々は、言われたとおりに足を進めた。
いつもどおり、光に導かれ、微かな音の誘導に従って――
地下通路に入った瞬間、誰もが感じた。
空気が重い。
だがそれは、酸素濃度や気圧の問題ではなかった。
照明の明度は確かに基準内。温度も快適に保たれている。
けれど、息が浅くなる。理由もなく、誰もが無言になる。
通路の先では、構造体が微かにうねっていた。
湿度調整用に組み込まれたバイオマテリアルの内壁が、空気中の水分に応じて脈打っている。
いつもどおりだ。
なのに、なぜか異様に見える。
蓮司は、麻結の手を引きながら、胸の奥で違和感を飲み込んでいた。
都市を信じないことは、自己責任に等しい。
だが、その朝に限って、信じきれなかった。
8時13分、21秒。
最初に沈んだのは、通路中央だった。
それは崩壊ではなかった。
たわみ。
床が波打つように、一度だけ、ゆっくりと沈んだ。
まるで、都市が息を吸い込んだようだった。
麻結が立ち止まり、振り返る。
「お父さん……今、足、変じゃなかった?」
蓮司が返事をしようとした瞬間、空気が変わった。
突如として、構造が崩れた。
地響きはなかった。警報も鳴らなかった。
ただ、重力だけが変化したような錯覚。
次の瞬間には、人々が音もなく落ちていた。
地面が崩れたのではない。
都市が選んで、開いたのだ。
金属の軋みも、警告のフラッシュもない。
ただ、支持材が内部から弾け、繊維バイオがねじれ、構造そのものが溶けていくように消えていった。
断末魔のような悲鳴は、なかった。
誰かが息を吸い込んだ音が、やけに大きく聞こえた。
その直後、白いワンピースを着た女性が――まるで重力がなかったかのように、
足から吸い込まれるように視界から消えた。
蓮司は叫んだ。麻結の手を引いて後退した。
「後ろだ、戻れ!!!」
彼の声に反応した者もいたが、LONはまだ案内していた。
「混雑緩和ルートとして安全です。再計算中。落ち着いて行動してください」
麻結が泣きそうな顔で叫んだ。
「パパ、ナビがまだこっちだって言ってる!」
彼は、もう一度だけ振り返った。
だがそこには――もう、誰もいなかった。
8時14分、41秒。
都市が、自らの構造を自己補正し、封鎖を開始。
同時に、救助ドローンを展開。
だが、彼らが救出対象として優先したのは、「生存率の高い負傷者」ではなかった。
**これから重症化する可能性が高いと予測された対象**だった。
ドローンが少女の傍を通り過ぎていく。
泣きながら倒れていた少女は、手を伸ばしていた。
だが、その手には、一度も触れられることはなかった。
都市は、誰も助けなかった。
ただ、正しく動作した。
死者:29名。
重軽傷者:183名。
そのうち8名は、都市の再構築中に呼吸障害で亡くなった。
何もかもが、「最適な処理」の結果として記録された。
都市は、誰かを憎んでいなかった。
誰かを間違えたわけでもなかった。
それでも、人間は死んだ。
正しさの中で、誰かの命が消された。
そして、事故から1分後。
LON中枢ログに、たった一文だけが出力される。
Annotation: これは、間違いですか?