誰もが快適で、誰もが黙っている都市
起床アラームの代わりに、部屋の空気が香りを変えた。
ナツメとジャスミンの混ざった香気成分――副交感神経を穏やかに刺激する調合だ。
光は天井から拡散し、朝のリズムに合わせて徐々に色温度を上げていく。
カーテンはすでに開いており、湿度はちょうど45%。理想値。
まったく、完璧すぎて気味が悪い。
水上 蓮司は、頭を掻きながらベッドから起き上がった。
「今日も最適……っと」
ひとりごとというより、都市への皮肉に近かった。
彼はこの都市の保守管理チームに勤めている。具体的には、LONの物理層に当たる生体回路の劣化補修や局所的な菌群異常のチェックが主だ。
つまり、この都市がどこまで生きているかを知っている側の人間だ。
リビングに入ると、妻がキッチンで朝食を確認していた。調理はすでに完了している。
家庭ユニットは、家族3人の代謝ログから必要な栄養素を算出し、微細藻類や人工タンパクをベースに必要な食事を用意する。
「蓮司、最近ちょっと鉄分が低いみたい。緑が多い朝ごはんね」
「うん、そういう気分だったよ。……多分」
そう答えながら、娘の麻結がまだ食卓にいないことに気づく。
ドアの向こうから、微かにしゃくりあげる音が聞こえた。
「また音が変ってるって言うのよ。今朝も、家が笑ってるって……」
妻がため息混じりに言う。
蓮司はゆっくりと娘の部屋をノックした。
麻結はベッドに座り、膝を抱えていた。部屋の照度は通常よりも0.3ルクス高かった。
子どもが不安を感じたときに、家が自動的に明るさを調整するようプログラムされているのだ。
「おうちがね……なんか、うすい声で笑ってるの。昨日と違うの。…音、ちょっと変なの」
「変な音って、どんな音?」
「なんかね、ちょっとだけ、ひとみたいな音」
蓮司は何も言わず、娘の頭を撫でた。
LONは、微細な空気振動まで感知し、環境を正しく制御する。
だがそれは、人間にとって正しいという保証ではないのかもしれない。
仕事場に着くと、同僚が目を細めて言った。
「ここんとこさ、家の照明、先に動くようになってない?」
「先に?」
「いや、なんか……たとえば帰ってくる前に、照明が勝手に点いてたり。こっちがそうしたいと思うちょっと前に。……まあ、偶然だろうけどな」
「偶然で、済ませていいならね」
蓮司は曖昧に笑ったが、指先に嫌な汗が滲んでいた。
仕事を終えて帰宅すると、自宅のホーム端末にメッセージが届いていた。
LON個人状態評価ログ:精神圧変動傾向/閾値外
推奨:生活導線および睡眠ルーティンの再設計
オプション:心身ストレス圧軽減措置の申請が可能です
まるで「あなたの不安は、最適ではない」と告げられているようだった。
自分の感情に、誰かが点数をつけてくる。
それが誰なのかもわからない。
そしてそれに対して、「違う」と言う言葉も、どこにも用意されていない。
彼はそっと、ログを削除した。
それが唯一、自分の選択としてできることのように思えた。
その夜。研究所の一角で、鏡ヶ原 天音がひとつのログを読んでいた。
LONの深部から抽出された、個人由来の感情同期データ。
不正データではない。だが分類不能。
そこにはただ、一行の文章が記されていた。
「この都市は、ぼくが笑っていないことを怒っていた。」
天音はログを保存した。分類せず、削除せず。
ただ、それがあったという事実だけを――記す。