都市を泳ぐ微生物
広島首都圏――この都市は呼吸している。
地下から天頂まで、すべての構造物に微生物由来の生体素子が埋め込まれている。
壁は温度に応じて断熱性能を変え、空気はバクテリアの代謝によって濾過され、歩道は粘菌のように自己修復を行う。
この街では、「環境制御」とは「生命制御」と同義であり、それを支えるのがLON――Living Organism Networkだった。
その最先端施設の一角に、ひとりの若い研究者がいる。
鏡ヶ原 天音。
生体構造システムの研究者であり、LON内部に埋め込まれた微生物たちのささやきを聴く者。
短い髪を束ね、白衣の胸元にカードをぶら下げた彼女は、誰にでも礼儀正しく、柔らかな声で話す。
それだけなら、ただの好人物だ。
だが彼女を知る者は、皆どこかで感じている。
彼女は、何も判断しない人間なのだ。
研究所の朝は、静かだ。
天音は端末に手を触れ、昨日のLONログを呼び出す。
表示されたのは、微生物発電ユニットの稼働記録。ATP合成酵素を転用した微小モーターが、どの時間帯にどのくらいプロトンを駆動したかの波形グラフだ。
その動きは、心臓の鼓動に似ていた。
(安定してる)
モニターを離れ、廊下に出る。歩行センサーは彼女の体温を読み取り、フロアの照度を自動調整する。
床材に用いられた繊維状細菌が彼女の歩幅を記憶し、次の足音を柔らかく包み込む。
すべてが、最適化されていた。
エントランス付近で、後輩の志藤が困ったように頭をかいていた。
LONセンサーユニットの調整用ノードがうまく動作せず、再起動を繰り返しているらしい。
「すみません、これもう五回目で……。センサーが勝手にしきい値を修正してるみたいで」
天音はモニターを覗き込み、数値の揺らぎを確認する。
「Shewanellaの代謝反応が早すぎるわね。これ、制御命令より先に電流流れてる」
志藤が目を丸くする。「予測……ですか?」
「もしくは、学習。判断はしないでおくけど、ログだけ取っておいて」
彼女はそう言って、やわらかく笑った。
志藤がふと安心したような顔をしたのを、天音は見逃さなかった。
誰かに正されないということが、こんなにも安らぎを与えることがある。
だからこそ、彼女は判断しないのだ。
午後。研究棟の最上層。都市全体を見渡せるバルコニーに立ち、天音はぼんやりと地平を眺めていた。
三千万の人間が暮らし、数兆の微生物が脈打つ広島首都圏。
この街は、もはや単なる都市ではない。
都市=生命体。
エネルギーは微生物発電。通信は磁性細菌。温度調節も、情報解析も、排泄物処理も、
すべてが生命の働きによって構造されている。
そして今、その構造の中で何かが微かに変わり始めている。
ツールのように動くはずだった微生物が、
判断のような動きを見せる時がある。
誰かが言うかもしれない。それは誤作動だと。
別の誰かは、進化だと言うかもしれない。
天音は、それをどちらとも呼ばない。
その夜、彼女は一人、再びモニターに向き合っていた。
LONの深部から上がってきた未分類ログ。
通常プロトコルを逸脱した動き。けれど警告は出ていない。
画面の中で、パターン化できないノイズが、
まるで呼吸のように繰り返されていた。
言葉にならない。けれど、そこに何か意志のようなものがある。
天音はそのログを保存フォルダに放り込む。
何も判断せず、分類せず。ただ、記す。
ただ、それだけを続けてきた。
誰かが言った。「ヒトとは、定義できるものなのか」と。
誰かが応えた。「だから私は、定義しないことを選んだ」と。
都市が少しだけ、脈を早めた。