二十五話 夜明け
一夜明けて翌日、ボクは顔を洗うために使っていいと言われていた井戸まで来ていた。
久しいと言うほど、時間が経ったわけじゃないけど、ロプトやラートは上下水道が完備されていただけあって、なんだかボクのいた村を思い出す。
「冷たっ」
思わず、そんな声を出しながら、ボクは水に触れた。
それを使って顔を洗ったあと、申し訳程度に寝癖を直す。
まあ、今は髪をおろしているから目立っているだけで、後ろでまとめるのであまり頓着はないけど。
それでも、気にならないわけではないので、ちまちまと直していた。
そして格闘すること少し、ボクは少しボサっとした状態でもまあいいかと、諦めた。
そんなボクが戻ろうと貸してもらった家屋のある方向を向いたとき、ちょうどエインセルがこちらに来ていた。
「おはよう。エイン」
「……おはようほざいまふ」
なんとも眠そうな顔をして、挨拶を返される。
今起きたのだろう、髪も少し乱れているし。
とは言え、彼女の場合ボクと違って一度櫛を通せば一瞬でサラサラに戻るんだけど。
エインセルは、一度ボクに抱き着いた後、先ほどのボクと同様に井戸へと顔を向けた。
「ふあぁ~」
あくびをしながら、彼女は水を汲んだバケツを引き上げるために、ロープを掴んだ。
「ボクがやるよ」
そんなボクの言葉に、眠そうに頷いたエインセルからロープを引き取り引っ張っていく。
そうして、上がって来たバケツを井戸のへりに上げた。
「ありはとうほざいまふ」
そんな、口足らずの言葉を使って彼女は、顔を洗う。
すると、目は覚めたようで、様子も戻って来た。
「ふぅ。助かりました。セオ」
「いいよ。気にしないで」
彼女のお礼にボクはそう返した。
そうして、「フェイスのもとにこれから行くので一緒に行きましょうか」と言う。
どうやら、川にシエンナと向かったらしい。
そんなことを言って歩き出そうとした彼女に再び声をかけた。
「エイン。聞きたいことがあるんだけど」
ボクはきれいに輝く彼女のアイスブルーの瞳を見た。
村を一望できる丘に、男がいた。
男は腰に剣を携えて、胡坐をかいている。
その姿は、くたびれた印象とは裏腹に、体感の良さからか、それとも体躯のせいか、とても様になって見えた。
そんな男──ディラン・ブラントが、見据える先には、今しがた顔を出した日の光があった。
「ついに今日か」
そして、感慨深そうな声を漏らした。
「ディランさんでも緊張しますか?」
そんな声が、背後から足音と共にやってきて背中に掛けられた。
デリックだ。
「あん?すんに決まってんだろ。相手は大精霊だぞ。倒せた日には偉業だ、偉業」
ディランは、そんなこと聞くなと言いたそうに声を発した。
そんな、声を笑って受け流したデリックは、ディランの隣に座った。
「言ってみただけですよ。ここ数日の様子を見てれば聞かなくたってわかりますよ」
「ホントかよ?」
疑わしそうにディランは目を向けた。
「本当ですよ。ここ数日の昼間から酒を飲むことしかり、商人への態度しかり。酒は昼間から飲んでるとこなんて見たことなかったし、商人へ態度に至っては、いつもの貴方からは考えにくい」
「ふん……」
デリックの指摘に、図星とばかりに顔をそむけた。
「よく見てんな。それとも、他のやつらにもバレてたか?」
「さあ。でも、よく見てなくとも、俺にとっては本物の父親なんかより、父親のような人だ。異変があればわかりますよ」
デリックは、「俺が父親という言葉を付けて表現するのは微妙か」と言って、それでも、この言葉がぴったり表現にあうと思っていた。
「……父親か。娘だったら喜びもしたが、まだそんな歳じゃねぇんだがな」
「いやいや。ディランさん、二十後半でしょ。村で言えば、十代後半には結婚しますよ」
「んなの、知らねぇよ。何歳になったら結婚するのが普通とか。そうだとしても、息子がいたら十歳が精々だしな。それに、そんなこと言ってるからモテねぇんだよ」
「……それは関係ないでしょ」
「それはどうかな。お前、フェイスは、エインセルがセオドルと居るために大精霊を倒すと言えばここまでついてくるような奴だぞ。そんな奴に普通はこうだからとか言ってみろ。どうしたって、好意は持たれないだろ」
「い、いや、そりゃ、俺だって女の子と話す時までこんなこと言いませんよ」
「ホントかよ」
「本当ですよ!」
いつの間にか、二人の会話はあらぬ方向に向かっていた。
そして、それは妙な緊張感を少なからずほぐしていた。
水のせせらぎが──そんな、言葉で表現されそうな川の流れる音が、耳に届く。
とは言え、緩やかな川では、聞こうとしなければ、気にもならない。
そんな、場所にフェイスとシエンナは居た。
「おおっ、魚がいるねぇ!」
シエンナは、川を流れる魚を見て反応した。
相当綺麗な川なのだろう、透き通った水に魚が見えた。
「そうですね。では、これで獲って貰えます?」
「おっけ、フェイスちゃん。任せて」
そう意気込んで、シエンナはフェイスから渡された道具を構えた。
そうして、魚を視認して、一瞬のうちにそれを捕獲した。
「出来た!どう?どう?フェイスちゃん?」
「結構大きいですね」
興奮するシエンナに、フェイスは短い感想を答えた。
そして、フェイスはしゃがむように、川に腰をかがめた。
それを見た、シエンナは、フェイスに声をかけた。
「やる気だねぇ。それじゃ、競争しようよ。勝った方が負けた人に一度だけ何でも言う事聞いてもらえるってことで。よーいドン」
「まだ、やるとは言ってませんが」
さっさと、合図をして黙々と魚を取りに行くシエンナにフェイスはジト目を向けるが、ため息を吐いてまた口を開いた。
「まあ、いいです。それでしたら、私の勝ちですし。よいしょっとっ」
意外と乗り気なことにシエンナは驚きつつも声を返そうとした時、エインセルは魚を持ち上げた。
しかも、数匹同時に。
「え?」
「あらかじめ網をつけておいたんです。ああ、もちろん許可は村に取りましたよ」
そう言いながら、魚の入った網を引きずるようにして地面に上げた。
「じゃあ、シエンナさんは、私の言う事を何でも一つ聞いてくれると言うことで良いですね」
「えぇ、ずるいよぉ。……まあ、フェイスちゃん可愛いからいっか」
少し考えた後、ほわほわした笑みを見せるシエンナ。
そんな、彼女は「それはそうと」と言って、口を開いた。
「エインちゃん遅いね。もう来てもいいくらいなのに」
シエンナは、村の方を遠目で見る。
まあ、家屋しか見えなく、気持ちだけだが。
「ええ、遅く起きられたので、顔を洗ってから行くと言ってましたが」
フェイスもそれに同調する。
フェイスとシエンナは、今朝、エインセルより早く起きていたこともあって、洗顔などはすでに済んでいた。
そんな中、エインセルは、フェイスとシエンナが出発するときに起きたため、後で合流するからと井戸に顔を洗いにいったのだ。
「流石に、そこらで寝てるってことはないよね?」
「ええ、ない可能性の方が高いです」
「可能性はあるんだ……」
冗談に大して、割とそれが有り得ると言われたシエンナは、少し驚くようにして口を開けた。
「まあ、取りあえず、エイン様所望の魚は手に入りましたので、一度戻りましょう」
「よく考えたら、あの人が食べたいって言って、何で本人がいないんだろ?」
シエンナは疑問を抱く。
そもそも、道中で魔物の肉を上手く運ぶことが出来たおかげで食事には困っていなかった。
そんな中で、彼女が何となしに、魚が食べたいと言ったせいで、フェイスがやる気になり、(興味本位でついて行ったのはシエンナだが)ついていくことになったのだ。
「エイン様に喜んでもらえるなら、構いません!」
そう言うフェイスを横目で見ながら、シエンナは呟いた。
「坊ちゃんが惚れるわけだ。……いや、惚れたのは顔か」
「何か言いました?」
「いや、なんでも」
そんな会話をしつつ、一度エインセルの様子を見に行くことにした。
「何ですか?セオ」
彼女は、白くきれいな髪をなびかせて振り向いた。
街中ではフードを深くかぶって隠しているが、屋内、それも知り合いしかいない状態であれば見ることが出来るそんな髪。
それが今、屋外でありながら、見えていた。
それはひとえに、村にある井戸の内の一つを貸し切りのような形で貸してくれているからだ。
ここなら人目を気にする必要もない。
そして、それはボクの要件にも同じことが言えた。
ボクは、彼女のアイスブルーの瞳を見て、ずっと思っていたことを言う事にした。
「あのさ。本当は大精霊を討伐するって時に言うべきじゃないとは思ってるんだけどさ……」
つい言葉にしようと思うと、喉に突っかかるようにして上手く話せない。
これをボクが言う権利も資格もないとわかっていれば尚更に。
それでも、何とか言葉にしようとして、ボクは口を動かした。
「エインは大精霊で、これから倒しに行く大精霊は、エインの古くからの知り合いなんだよね?」
大精霊エーリューがいるとされる聖域。
そして、同じ大精霊として分類されるエインセルは、ボクなんかが生まれる以前、そのもっと、もっと前から、きっと知っている仲のはずだ。
ボクは、やはり覚悟が足りないのだろう。
エインセルの知り合い、もしかしたら友人であった可能性のあるエーリューを、彼女自身の手で殺さなければならないと考えると、気になって仕方がなかった。
ボクはそれを濁して言った。
「だから、その、エインは良いのかって……」
最悪だ。
言葉に明確に表すのでもなんでもなく、それだけで察してもらおうとボクはエインに甘えている。
あの時から、何も変わってなんかいない。
いや、彼女がボクのためなら何でもしてくれると聞いたあの時からもっと酷くなっているだろう。
やっぱり、ボクは悪人だ。
ラートの街では街の人のためだと、中精霊を倒して善人気取りをしても、結局は変わらない。
きっと、シエンナがボクの目の前で人を殺しても、何も思わなかったのも、ボクがそう言った人間だったのだろう。
あの日、契約をしてからボクは何も──
「セオ、私は、貴方のために何でもする覚悟ではありますが、それでも無理などしてませんよ」
そう言った彼女は、いつの間にか俯いていたボクの頭を持ち上げる。
そして、抱き寄せた。
「セオ、大丈夫ですよ。そもそも、精霊と人間では死生観が違うのです。精霊の死は、人間の死とは大きく違います。精霊は死んでも、また微精霊となって生を受けます。それが、大精霊ともあれば、人格こそ引き継がれることはありませんが、場合によっては一部の微かではありますが、記憶が残り、さらにまた数百年後に大精霊として生まれ変わります。死んで終わりではないのです。だから、大丈夫ですよ」
「と言うか、正直、エーリューとはあまり仲良くないですし」そう言って、目をそらすエインセルはボクを慰めてくれているのだろう。
「まあ、とにかく、セオが気にすることではないです。それに、これから行くのは死ぬか死ななかの戦いです。相手の心配ができる相手ではないですよ」
「うん。わかった」
そう言われて、よし、と気合を入れる。
そうだ、相手のことを気にしていて、もし、仲間が死んでしまえば、後悔するのは自分だ。
未だに、覚悟は分からないけれど、それでも、ボクは全力で何も失わないように努力しよう。
そして、朝食を取り、支度を済ませたボクたちは村を発った。
目指すは、大精霊エーリューがいるとされる聖域だ。




