一話 掟破りのセオドル
世界に数えるほどしか確認されていない精霊がいる。
大精霊と呼ばれるそれは、通常の精霊より高尚で、大きな力を宿していた。
人々はそれを崇め奉り、聖域を作りそこに住まわせた。
大精霊の御用を聞くのは専らその聖域を管理する土地や村の者だった。
ただ、それもごく一部のものだけ、大精霊がいる聖域がそこにあると知っているのは村長と他数人。
その数人と言うのが、巫女の家系であった。
村から若い娘が巫女として任命されて、その任につく。
それでも、任につける一人以外は、大精霊に奉仕することも知ることはない。
巫女の家系だと知っていても、習慣化した祭事を執り行う事しか知らないのだ。
その為、普通の人間はその姿を見るどころか、自身の村で大精霊を祀っていることを知ることなどかなわない。
だから、ボクが自分の村で祀っているという大精霊を始めて見た時は、やはり真っ当な手続きを踏んでのものではなかった。
村の人の目を盗んで聖域に忍び込んだのだ。
村の人と言っても、警戒すべきなのは朝昼晩に御用を聞きに来る巫女くらいで、聖域の外を巡回中の食客である剣士の目を搔い潜って、「結解」に侵入してしまえば造作もなかった。
人っ子一人、魔物さえいない森を抜けて、そこでボクは初めて彼女を見た。
木々を掻い潜った先の小さな湖には、天使に見紛うほどの美しい女性がいた。
一糸まとわぬその姿は小柄で凹凸こそ少ないが、無駄な肉などなく程よく引き締まっていて、見事な曲線を描き、まるで絵画のような神秘的な印象を受ける。
純白の髪に純白の肌、そして宝石のように輝くアイスブルーの瞳が、より神聖さを際立たせていた。
「──きれい」
そして、そんな幻想的な風景を見て子供ながらにそう思った。
ただ、ポツリとこぼれたその声はボクの存在を認知させるのには十分すぎた。
鳥の声すらならない、この聖域で子供の良く通る高い声など出せばすぐにバレる。
ポチャリと、その裸体から滴る水滴が鏡のように反射する水面を揺らす。
髪の毛と同様、白く長い睫毛が見えて目が合った。
「…………」
その瞳以外は真白な女性は、騒ぐでも裸体を隠そうとするでもなく、こちらを見ていた。
一瞬の間ボクは見とれていたが、見つかってしまったことに焦りを覚える。
どうすればいいか必死に考えようとして、無意識に俯き、地面を睨む。
だからだろうか、急な接近に気付かなかった。
「結解を張っておいたはずですが、やはり子供には反応しませんか」
耳元で聞こえた高い声にボクは反射的に頭を上げると、やはり、声の主は先ほどの彼女のようできれいな顔が近くにあった。
でも、その顔はボクを見ていない。
いつの間に着替えたのか白い装飾のない布のような服を着た彼女は、ボクの背後、この聖域の端を見るようにして呟いた。
そして、表情を柔らかくすると今度は先ほどのような独り言のような声ではなく、はっきりこちらを見て諭すように声を掛けた。
ボクと視線を合わせようとしてかがんだ彼女の宝石のような瞳と目が合った。
「あなたは村の子供ですか、勝手に入ってはいけませんよ」
その言葉に怒りはなく、責める意志だってなかったように思う。
でも──
「ご、ごめんなさい!」
その言葉に今度こそ罪悪感を覚えて、震える声で謝罪した。
ボクは彼女の気持ちを害したとか、村の約束を破ってしまったとか、そんなことではなく、怒られてしまわないかを心配していた。
当時子供であったボクの世界は、誰かが傷つくからしないなんて言う考えはなくて、ただただ、怒られるから悪いことはしない程度の考えしかなかった。
生憎、ボクの両親は優しくて尊敬できる人ではあったけど、こと躾に関しては暴力以外を知らなかった。
まず殴る。そこから説教。
ダメなこと、してはいけない事を説教しながらも、してはいけないはずの暴力を振るう親からの言葉の意味は当時よくわからなかった。
だから、怒られたくないな、と考えていた僕には次に取った彼女の行動は不思議だった。
「まあ、許してあげます。丁度巫女が帰ってしまって暇だったんです、少しお話しませんか?」
「……話?」
「そう、お話です。まずは自己紹介ですかね。私はエインセル、天下の大精霊様です」
「大精霊?」
「あれ、知りませんか?てっきり一目会いたくて来てしまったのかと思ったのですが」
彼女が首を傾げたが、当時のボクは大精霊と言うのは知らなかった。
それでも、ボクがそれを知ることが出来たのは、この国では精霊信仰が盛んだったからだ。
村の人たちは、大精霊がまさか自分の村にいることなど知る由もなかったけど、それでも、大精霊と言う存在は、この国全土で聞かれるほどの存在であった。
「村の大人たちがいっちゃダメっていうから気になって……」
ボソボソと僕は答えた。
子供の考える事なんてそんなものだ。
ただ、してはいけないと言われたことをしてしまう。
兄の勉強にかかりっきりの両親の気を引きたくて、こんなことをした。
「うーん、そんなものですか。まあ、いいです。では、今度はあなたのお名前を聞かせてください」
「……ボクの名前はセオドル。皆にはセオって呼ばれてる」
苗字はなくて、ただのセオ。
自分のことを皆はセオと言い、それが愛称だと気付いたのは最近のことだ。
「いい名前ですね。きっとご両親もあなたのことを愛しているのでしょうね」
「……そうかな?」
「そうですよ」
そう言って微笑む彼女は綺麗だった。
名前は学のない両親が旅の神官にいろいろと尋ねて考えた名前なんだそうだ。
それを知ったのはこの時より数年後だったが、その時彼女の言ったことを思い出し実感した。
ボクは片田舎の村で生まれた。
ボクは三人兄弟の末っ子で家は兄さんが継ぐから結構好き勝手していた。
昼間は外をかけ回り、時々勉強をしている兄さんを冷やかしに行って、何も考えずに生きていた。
強いて言えば、ボクでは無理だと思うけど世界には冒険者とか傭兵とか言う仕事があって、それに憧れていたくらいだろうか。
そんなボクに日課が出来た。
「行ってきます!」
「セオ、あまり遠くへ行ってはダメよ」
「うん!」
ボクは家を飛び出して、母さんの声を背中に受けながら走り出した。
今は丁度昼食のあとだ。
昼間は畑仕事を手伝わせられるが、午後は自由だ。
子供でも立派な労働力だが、されど子供、遊ぶ時間くらいはある。
走って向かう先は聖域。
初めてエインセルに会ってからしばらく経つが、彼女に会うのがすっかり習慣になっていた。
ちょうど自由時間が午後からと言うこともあって、忍び込みやすいことも関係していただろうか。
いや、そうでなくとも子供ながらに魅了されたボクは行っただろう。
エインセルから聞いた話になるが、聖域には結解が張られているらしい。
邪なものから守るために彼女自身が張っている結解で、それがある限り人間が入ることはできないという。
ただ、例外もあって邪でないもの、つまり世話係の巫女やボクのような子供には適応されないとも言っていた。
だから、村の人たちは子供に絶対に行ってはいけないと教え込むし、少人数だとは言え、子供が勝手に入っていかないように見張りの剣士がいるのだとか。
「セオ、今日は早かったですね」
「うん。急いで昼ご飯食べて来たんだ」
森に入って聖域に行くと今日もエインセルはそこにいた。
しかし、ボクの時間に合わせてくれていて初めて会った時のように水浴びはしていない。
とは言え、当時のボクは気を使ってもらってるなど考えもしていなかった。
「ん?」
頭に何かを置かれる感覚がして、見上げるようにして視線を動かす。
ボクの頭に置かれたのはエインセルの手だった。
最近会うたびにしてくるのだが、ボクもボクで案外気に入っていた。
「また背が大きくなったんじゃないですか?」
「そんなことないよ。ボク家の壁に印付けてるけど変わってなかったよ」
「ごめんなさい。ただ撫でたかったのです。でも、髪は結べるくらいになりましたね」
そう言いながら、彼女はボクの頭をなでていた手を垂れ下がる髪に移した。
確かに最近髪が伸びて女の子に負けないくらいには長くなったような気がする。
ボクはエインセルがいじる茶金髪の髪を視界に入れながら口を開く。
「エインはすぐウソつくんだから」
「そう言わないでください。それに大人は嘘をつく生き物です」
「じゃあ、ボクは将来大人になっても嘘つかないようにする」
そうやって啖呵を切った。
今だって嘘をついて聖域に入ってきているのに、その自覚はなかった。
「でも、将来ですか。人間はすぐ年老いてしまいますからね。先のことを考えると悲しくなります」
「将来って言ってもそんな後のことじゃないよ!12歳になって成人したらの話」
「それってすぐじゃないですか?」
「そんなことないよ。ボクがあと五回誕生日来ないと成れないんだから」
この時、長い時を生きる大精霊とそれと比べれば一瞬の生しか生きられない人間、しかも児童と言っていいほど幼いボクとの価値観の差が大きく表れた瞬間だった。
人間でも二十、三十と過ぎれば五年なんてあっという間。そんな短い時間を大精霊が見ればどれほどの差異が生まれるか、この時のボクには想像もつかなかった。
「そんなものですか。どころでセオは将来の夢とかあるんですか?」
「うーん」
ボクは唸った。
冒険者とか傭兵とかになりたいとは思ってたけど、とても現実的じゃなくて笑われてしまわないか不安だった。
「笑わない?」
「笑いませんよ」
「……ボク、傭兵か冒険者になりたいんだ」
「それは素敵ですね」
その言葉に驚いてエインセルの顔を覗き込んでしまうが、バカにした様子はなかった。
「笑わないの?」
「笑うなと言ったのは貴方でしょう?」
「そうだけど……ボクなんかじゃ無理とか魔物に殺されて終わりだとか思わないの?」
「思いませんよ。と言うか割と最近の子は現実的なんですね。昔はよく魔物を倒そうとして子供が村を抜け出して怪我をして帰ってくるなんて珍しくなかったですが」
最悪の場合それこそ死亡する人もいましたが、と彼女は笑う。
「エインは将来の夢とかないの?」
「私ですか?」
エインセルは少し驚いたように聞き返してきた。
大精霊は遥か昔から生きている。そんな彼女はとっくに今が将来と言う奴だろう。
とは言え、彼女は少し考えるような素振りを見せてから口を開いた。
「では、セオが冒険者か傭兵になるときに一緒になりましょうかね」
その時のボクはその言葉に喜んだけど、のちに聖域からは大精霊は出ることができないと知った。
数年が経ってボクが十二歳になる年、相も変わらず聖域に忍び込んでいた。
僕も背が伸びてエインセルと同じくらいの身長になっていた。
髪もすっかり後ろで結ぶようになって久しい。
ボクは切ろうかと考えていたけど、エインセルが伸ばしてほしいと言ったため伸ばしている。
「うーん。ちょっと前までここに頭があったんですけどね~」
彼女はそう言って自分の腰位の位置に手を置いて見せる。
「ボクも次の誕生日で成人だからね」
「セオももうすぐ十二歳。早いものです」
その顔は少し寂しそうだった。
きっと理由はボクがもうすぐここを離れる可能性があるからだろう。
家を継がないボクにはその可能性があるのだ。
そして、このころになると彼女が聖域から出れないことはボクも知っていた。
だから、知らないふりをして話を変えた。
「そう言えば聖域に入るときに最近少しだけ痛みを感じるんだけどこれもボクが大人に近づいている証拠かな?」
聖域に張られた結解。
それは邪なものを遠ざけ、力の影響が出ないのは巫女か子供だけ。
そして、子供であるボクは今まで問題なく入ることができていたのだが、最近は少しだけ焼けるような痛みを感じるようになったのだ。
「……少し早いような気もしますが。ちなみにどんな風に痛みますか?」
「どんな風って、なんていうか火傷した時みたいな感じ」
「そうですか」
静かに彼女は言った。
ボクはよくわからずに首を傾げる。
もしかして何か良くないのかとも思ったが、話を続ける彼女はいつもの調子なので、そんな杞憂は頭の隅に追いやられてしまった。
暫く話した後、そろそろかと立ち上がる。
「じゃあボクは帰るよ。夕飯に遅れると母さん怖いからね」
「そうですか。では、明日も待っていますね」
彼女の言葉を聞いてボクは背を向ける。
「ああ、言い忘れていました」
「なに?」
かけられた声に再度振り向く。
いつものように微笑んで彼女は言った。
「先ほどの結解の話ですが、焼けるような痛みを感じたのならそれは自己的な考え方に落ちやすいと言うことです」
「それって、ボクが自分勝手な人になりやすいってこと?」
「ええ。とは言え傾向だけです。人間、気をつければ何とでもなりますよ」
「そっか。気をつけないとね」
「そうですね。ああ、ちなみに私はあなたがどんなになっても愛してますよ」
「か、からかわないでよ!」
流石の僕も子供とは言え、年頃だ。きっと顔を赤くしていただろう。
それを見られていたと思うともっと恥ずかしいけど。
「ふふ。では」
そんな様子が面白いのか、彼女は笑う。
少しむっとしながらもボクは別れを告げた。
「うん。じゃあね」
物事は突然に始まる。
順序こそあっても、それが自分が考えているように動いているわけではない。
「君には魔法適正がある。すぐに学園に来てもらう」
その日、告げられたのはそんな言葉だった。
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