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読んでくれたらちょっと嬉しい

ミニマルペクティヴ

作者: 阿部千代

 すらすら書ける。なんでこんなに書けるのだろう。不思議に思っていたら、小便がしたくなった。

 気づいたらベランダで煙草を吸っていた。小便をしようと、コンピューターの前から離れたはずなのに、気づいたらベランダにいて煙草を吸っていた。時空が歪んだとでもいうのだろうか。それとも無意識で動いていたか。そんなことはないはずだ。思考は連続していた。だが記憶がない。いったいどういうことだろう。不思議なこともあるものだ。部屋に戻ると、ついさっきまで今日発売のマリオRPGで遊んでいた彼女が姿を消していた。寝室を覗くとすうすう寝息をたてていたのだった。ついさっきまで本日発売のマリオRPGで遊んでいたのに。いかれたベイビーもいるものだ。

 そしてまた書く。やっぱり書ける。どうしたと言うのだろう。疑問に思っていたら、小便をまだしていないことに気づいた。どうりで。尿意がすさまじいと思っていたら。これだから。

 バチーンと乱暴にキーボードを叩き、トイレに向かった。夜の廊下はあまりにも怖い。あまりの怖さに目眩がしそうなほどだ。もちろん目眩などはしなかった。廊下の壁を手探りして、ぞっとした。いつもの場所に電気のスイッチがない――

 気のせいだった。ちゃんとあった。驚いて損した。驚き損というものだ。轟ジョンという友人もいた。ジュニアハイの頃の思い出だ。電気のスイッチをクリックして絶望した。本物の絶望がやってきたというわけだ。電球が切れているのをすっかり忘れていた。これで三日連続で同じことを繰り返していることになる。いや? 四日連続だったかも。もはや一日と一日の区切りが曖昧になっているのだった。そういう生活をしているとそうなるといういいお手本だった。生活全体が溶け出しているような。そんな毎日だ。生命活動自体がまどろんでいるような。そんな活動だ。そんな毎日を活動し、ようやく今日という日を迎えたのだった。

 そのことに深い感慨はなかった。いままで一度も深い感慨など経験したことがなかった。だから言葉としては知っていても、感覚としてはわからなかった。もしかするともしかするかもしれない。すでに他の人間が深い感慨と呼んでいるものを経験したことがもしかするとあるのかもしれない。それに気づかなかったという可能性は大いにあり得ることと言えた。しかしもしかすると個々人ひとりひとりが深い感慨と呼ぶものをまったく違う感覚として捉えているとしたらどうだろうか。そんなことを考えている他の人間は佃煮にして売り捌くほどいることだろう。無駄なことを考えるのはやめた。そんなことを言ってしまったら、すべての活動をやめなければいけないことになるから、利益にならないことを考えるのはやめよう。そう言い換えた。では利益になる考えとはどういうものなのだろう。佃煮を売り捌いたりすることか。となると。さきほどの考えは当たらずとも遠からずと言えるわけだ。ふふ。おもしろい。


 この間、僅か五秒ほど。この間とはどの間なのかという問題について簡単な解説を試みてみることにすると、スイッチがない――と勘違いしたところから、ひとり笑いをしたところまでだ。絶望から笑いに至るまでの心理を、根底に流れるユーモアとともに実に見事に描写している。だが深さが足りない。まるで浅瀬だ。こんなところで飛び込んだらと思うとぞっとする。だが本当にぞっとするのはこの廊下の暗さだ。これは暗闇と言ってもいいどころの騒ぎではなく暗闇そのものだ。いい加減に人類は本能から暗闇を恐れる部分を外したらどうだろう。おそらく赤ん坊の夜泣きも収まると思うのだが。たかが赤ん坊の夜泣きごときと言うなかれ。実際にあれは相当精神にクるはずだ。実際にと言っても経験をしたことはない。しかし仔猫で似たような経験がある。一晩中、絶望したような鳴き声で助けを求めてくるのだ。気が狂いそうになる。でも仔猫は死ぬほど愛おしい。死ぬほど。仔猫のためなら本気で死んだっていいくらいだ。気が狂うくらいなんだと言うのだ。それほどのヴァイブスが仔猫からは放出されている。もちろん成長した猫だって同じことだ。だからこそ猫殺しは到底許されることではない。国中が怒りに打ち震える。もしなにかで懲役に行ったとして、そこに猫殺しがいたらいじめ抜いてやろう、そう決意するほどのものがある。しかし猫を殺すようなやつが大人しくいじめられてくれるだろうか。もちろん猫を殺すような卑劣なやつに引けをとるつもりは毛頭ない。どんな手を使ってでもいじめ抜いてやる、そう決意を新たにするだけだ。でも仮にいじめが成功したとして。そのあとが問題だ。猫を殺すようなやつが、その恨みを忘れるものだろうか。どんな手を使ってでもと復讐を誓ってくるのではないだろうか。そのときはそのとき。返り討ちにしてやると誓うまでだ。誓いと誓い――どちらが強く誓ったかの勝負という様相を呈すに違いないだろうよ。猫を殺すようなやつのことだ。やたらとねちっこく誓ってくるにちがいない。それなら裏をかいてやるまでだ。一瞬の誓いに全てを、全生命を賭ける。猫のためならとうに命を捨てる覚悟がある。


 いや。待てよ。そこまでの覚悟があるのなら、いっそいじめ抜いてその果てに命も奪ってしまえばいいのではないか。復讐するは我にありと言うやつだ。言葉の意味としては全然違うが、このダークな雰囲気には合っている響きだ。猫殺しがシャバに出てくるのを待つ必要などなかった。塀の中で叩き殺してやればいいわけだ。ほかの囚人も看守たちもある程度は見逃してくれるだろう。なにせ猫殺し野郎だ。到底許されることではない。全米が怒りに打ち震えて泣いた。アメリカにも恩が売れるというわけだ。猫殺し殺し外交だ。キャットキラーキラープリズナー外交官との誉も高く、民衆から声高にそう称される未来も遠くないのかもしれない。陛下からなんらかのメダルっぽいものを首にかけてもらえるかもしれないではないか。ただその前に刑期を終えなければ。恩赦を期待するわけにはいかない。罪は罪だ。刑期が過ぎるのをじっと耐えるしかない。それこそが償いというものだ。それにしても、塀の中は寒く、暗すぎる。とは言え、この廊下ほどの暗さはないと思う。なにしろ真暗闇なのだから。じっと手を見る。でも見えない。暗闇だからだ。どんなに手を顔に近づけたって見えやしない。光がないと目は機能しないのだ。便利だが使えないやつ。どうしてこんな暗闇にいるのだろうか。そうだ。小便がしたかったからだ。しかし不思議なこともあるものだ。尿意はとっくに消え去っているのだから。そして前を見たって後ろを見たって暗闇しかない。前ってどっちだ。いま向いている方はどっちだ。前か後ろか左か右か。それとも南南東か。いや北北西か。西北北、東南東……。ここはどこだ。何か聞こえる、いや待てよ、この鳴き声は……まるで、みっちゃんの声ではないか。みっちゃん! みっちゃん! みっちゃんともう一度会えるなら死んでもいい。もう一度撫ぜさせてくれ。もう一度。みっちゃん! みっちゃん! みーにちゃん、みーにちゃん、かわい~いみ~にちゃん みにまるちゃんは、ほ~んとにか~わいい、子っだっよ ちゅるるっちゅっちゅるっちゅ ぴーるっぷ ぴーるっぷ るっぷっぷっ


            終わり

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