⑦
息を切らせて着いた先。そこはつい先ほど別れを告げた、学校だった。
「校庭から入ろうぜ」
「え、ダメだよそんなの。絶対怒られるっ」
「校舎に入るわけじゃないんだからバレねえよ。校庭の端っこにお邪魔するくらい、この暗さじゃ誰も気付かないだろ」
「えー、大丈夫かなあ」
そう言ったけど、ワクワクしている。
穴の開いたフェンスを見つけた陸は、人ひとりが通れるよう、力づくでそこを広げた。すんなり抜けた陸に続き、私も彼の腕を借りて潜って抜ける。
「木の下なら陰になってバレないっしょ」
陸が私を誘導したのは校庭の隅。外灯は届かない、とても暗い場所だった。
「乃亜、ここ座って」
植木の僅かな段差に腰を下ろし、彼は自身の隣を手で叩く。飛び出た枝を避けて座れば、距離は自然と近くなった。
校舎を眺め、陸は言う。
「暗くてあんまり見えないな」
低学年の頃怖かった給食室の殺菌灯が、今この箱の中では一番明るい。
「こんなに黒い学校見るの、初めてだよ」
クスクス笑って、落ち着いて、また校舎を見る。なんだか目が離せない。それは隣の陸も、同じようだった。
「俺達、ついさっきここで卒業式したんだよなあ。なんか、もうずいぶん昔みたいだな」
「私もそれ、すごく感じる」
「乃亜泣いた?卒業式」
「泣いたよお。色々思い出して……」
「ははっ。乃亜は涙腺弱いもんな」
「陸は泣かなかったの?」
「俺?全然」
「冷たい人っ」
優しく吹く風が気持ちいい。さわさわと、木々の揺れる音を運ぶ。
「入学したての時だっけ。乃亜がド派手に校庭でコケたの」
「それ、体育の授業中のやつ?やめてよ、そんな思い出覚えてなくていいし」
「俺、教室の窓からその瞬間見ちゃってさ。授業中に笑い止まらなくなって、先生に超怒られたんだぞ」
「知らないよそんなのっ。見た陸が悪い」
「おもしろかったなあ」
「そんなこと言うなら、陸も恥ずかしい思い出あるでしょ。二年の音楽祭の時、ひとりで歌詞飛ばして歌っちゃって、全然周りと合ってなかったやつ」
「げ!お前よくわかったな。あれは誰にもバレていないだろうと思っていたのに……」
「あからさまに焦った顔してたもん」
「お互いよく見てたんだな、相手のこと」
陸とする思い出話が楽しくて、永遠にでも、ここで喋っていられる気がした。
「ねえ、乃亜」
校舎からふたり目を逸らし、顔を合わせる。思い出話に緩んだ陸の口元が真っ直ぐに結ばれるとほぼ同時、彼の眼差しも、真剣そのものになった。
陸の手で、ゆっくりと頬を覆われた。陸の目で、真っ直ぐと見つめられた。その瞳が閉じた時、唇と唇が重なった。
ここが外じゃなかったら。ここが陸の部屋だったならば。理性のきかなくなった私達は、また丸ごと愛し合ってしまうのだろう。
陸が好き。私はずっと、彼が好き。一生だって一緒にいたい。
おもむろに、唇を離した陸は言った。
「最後に、聞く……」
頬はまだ、彼の手の平の中。
「俺は、乃亜の恋人になれないの?」
陸の憂いに満ちた瞳の奥で、決意が見えた。
「乃亜の心配ごと全部掻っさらうくらいの覚悟、俺はある。終わらないし終わらせない。俺は乃亜を手放さない」
ひとつひとつの言葉が刺さる。段々と息がしづらくなるのは、その言葉達が胸を埋めていくからだ。
「俺を信じて欲しい。俺は絶対、乃亜の前からいなくならない。ずっと側にいる、一生守る。俺は昔から、乃亜しか見ていないんだよ。大好きな乃亜しか」
大好きな人に大好きだと言われて、涙が出そうになった。
「乃亜。俺と付き合って」
陸は私の大切な人。いつまでも隣で笑いあっていたい。だから、ここで陸に身を委ねれば──
「陸とは、付き合えない……」
いつかきっと、終わってしまう。
猫が鳴いた。ミャアと小さく、フェンスの向こうで。陸の手が、私の頬から剥がれて落ちた。
「終わるのが、怖い?」
呟くようにそう聞かれ、私はこくんと頷いた。
「乃亜は俺が好き。それは合ってる?」
その問いには縦に大きく首を振る。何度か振れば、涙がぽろぽろ出ていった。それを指で掬って陸は言う。
「わかった。じゃあふたりの気持ちを確かめ合えたし、この恋は綺麗なまんま、箱にしまっておくよ」
陸の優しい表情に、もっと涙が溢れていく。
「ごめんね……」
「謝るなよ。それが乃亜の答えならしょうがねえ。フラれたのに両想いって、なんか得した気分だし」
そう言って、無理矢理笑う陸を前に、私も懸命にえくぼを作る。
「これからも幼馴染、やってくれる?」
「おう。俺達はずっと、幼馴染な」
「ありがとう、陸」
「あ、でも」
軽く握った拳。陸はそれを、私の手元に持ってくる。
「手、開いて」
言われるがままに見せた手の平の上、陸の拳が解かれた。
「何?何もないけど」
「鍵、持ってて」
「鍵?」
「この恋をしまった箱の鍵。俺だとすぐに開けそうじゃん。だから俺が開けられないように、この恋の鍵は乃亜が持っててよ」
「それって……」
「なくすなよ」
✴︎
目に見えぬ、かたち無き鍵を握りしめて家に着く。自室でぺたんと座り込むと、ピコンとメールの知らせが届く。送信元は陸で、写真だけが添付されていた。恋人ではないけれど、恋人同士のような陸と私のピースサイン。
手の平をじっと見る。可愛いらしいアンティーク調の鍵を思い浮かべてそこへ乗せ、再びぎゅっと握りしめた。
私は相当な自惚れ女だと思う。何故ならあの時。
この恋の鍵は乃亜が持っててよ。
乃亜のタイミングで箱を開けていいよって、そう言われた気がして、胸が高鳴っているのだから。




