⑨
帰りのバス車内、陸と私に会話はない。
思考回路が停止した私は窓の外、目に入った看板の文字を呟くように読んでいく。
「くすり、蕎麦屋、新装開店……」
隣からは、陸の嗚咽が時折聞こえた。
自宅最寄りのバス停に着くと、陸はやたらと明るい声を出した。
「あーあっ、涼しい風だなあっ。乃亜どうするー?うち寄ってくー?」
「行かない」
陸に手も振らず、川沿いを進む。
「おい、どこ行くんだよ」
何も答えぬ私に、彼は黙ってついてきた。
ベンチに座り、川を眺める。今日の川は黒くて荒れてて、今にも飲み込まれてしまいそうだ。
少し距離を取って座った陸は言う。
「乃亜、決めよう」
「んー?」
「これからどうするか」
事実を受け止めきれてもいないのに、なんの討論のしようもない。だから、返事はしなかった。
「乃亜はどう思ったの。妊娠二ヶ月目で、赤ん坊の心臓が動いてるって言われてさ」
妊娠だの赤ん坊だの、今一番聞きたくないワードを言われて、こめかみの血管がじわりと浮く。
「ねえ、乃亜。産むの?それとも──」
煩いと思った。
「なんで、私なの……?」
こんなにも親身になってくれる陸を、ただ側にいたからという理由で八つ当たりの標的にするなんて、自分に刃物を向けたくなる。
「避妊なんかしなくたって、妊娠しない子は世の中にいっぱいいるじゃんっ。どうしてたった二回……たった二回避妊しなかった私が、妊娠しちゃうの?」
いつも私だけ、私だけが恵まれていない気がしてならないんだ。
「リスクって何。どっちに転んだってリスクしかないじゃんっ。体は傷つく!」
小学生で母を失った。父に愛をもらえない。恋人とした初めてが、妊娠に繋がってしまう。
私の心を表現したかの如く乱暴に吹いた風が、決心させた。
「もういいや。決めた」
陸の顔が引きつった。
「産めばいいんでしょ、産めば。高校行かないで子供育てるよ。どうせ高校行ったところで夢もない私の何が叶うわけでもないんだし、行かないよあんなところ。それで結婚できる歳になったら勇太君と結婚して、養ってもらおーっと。勇太君は頭がいいから、きっといい仕事に就くんだろうなあ、楽しみっ」
ね、と陸に笑みを向ける。この話はこれで完結、終了だというアピールを込めて。
すくっと静かに立ち上がる陸。彼に向けて振った手は、虫でも払うかのようだった。
「じゃあね陸、今日は病院ついて来てくれてありがとね。さよーならー…」
その瞬間、ガンッ!と大きな音を立ててへこんだベンチ横のゴミ箱。陸の片足が乗せられている。
「お前……それ、本気で言ってんの?」
陸の全身から沸き出る殺気。声を失くす。
「お前、高校行くって決めたんじゃねえの?好きじゃねえから、勇太とは別れるって決めたんじゃねえの?全部真逆じゃねえか!」
陸はまた、豪快にゴミ箱を蹴り上げた。耳を劈く音が響く。
「俺だって堕ろせなんて言えねえよ!お前の体だしお前の未来だし!無事産めて、勇太を好きになれるのが一番幸せなんだろうよ!でも、でもよぉっ!」
陸は泣いた。ぶわっと溢れる涙も歪んだ顔も隠すことなく、私の前で訴え続けた。
「お前、高校行きたいんじゃなかったのかよっ!乃亜が素直に喜べねえ妊娠なんて、出産なんて、好きでもない奴との結婚だって俺は応援できねえよっ!」
さっきまでの黒い感情が、ひゅうっと引っ込んでいくさまがわかった。陸の涙が、言葉が、私の真ん中に突き刺さる。
でも、それでも私は陸に寄り添えない。彼と同じ方角を上手く向けずに、未来を絶望視してしまう。
泣きじゃくる陸のことを、ひたすら見つめていた。「何か言えよ!」と怒鳴られたかもしれないし、何も言われなかったかもしれない。
闇なんかどこにでも現れて、そこに堕ちようと思えば人間すぐにでも堕ちていける。いつも淵ギリギリの場所に立っていた私は、今日見事に堕ちていったんだ。底から見える陸の手は遠すぎて、掴もうとすら思わない。




