⑥
「今年の勝者は紅組!」
白組は負けた。僅差だった。
閉会式。隣の列の後方で整列する勇太君をふいと見る。俯いていた。筋の浮き出た拳固が震えていた。だけど明後日私は彼を傷付ける。この予定は動かせない。
ドク、ドク、ドク。
そんな明後日への不安からか、私の心臓はやたらと騒いだ。
ドク、ドク、ドク。
万華鏡のように景色が回り、実在しない物体がチラチラ瞬く。気持ちが悪い。
「の、乃亜!?」
意識を失うその瞬間、凛花の声がした。
✴︎
眩しい蛍光灯の光が、瞼を開ける邪魔をする。ここが保健室だと理解したのは、鼻腔から感じとった医薬品の匂い。怠い体をシーツから剥がそうとすれば、それは温もりで止められた。
「アホか、まだ寝てろよっ!」
「り、陸?」
「急に倒れるから、まじで焦った!」
「ごめん……もう、大丈夫だから」
陸が側にいてくれた。それが、嬉しかった。
保健室の先生は、歩けるうちに帰って寝なさいと言った。熱もないし、大丈夫でしょうと。
陸と歩く帰り道。頼まなくても、彼は私の荷物を持った。
「凛花や勇太も心配してたんだけどさ、アイツらこんな日でも塾あるらしくて」
「そうだったんだ」
未だにふらつく体を、陸が支える。陸に触れると安心する。だけど彼は不安げだ。
「乃亜、朝から体調悪かったの?」
「ううん、朝は平気だった」
「親父さん、家にいる?」
「どうだったかな……っていうか」
「ん?」
「気持ちわる──」
ガードレールに手をかけて、胃から喉へと上がってきたものを吐き出した。陸は背中をさすってくれた。
「乃亜、まじでやばいじゃん。熱はないんだよな?」
「う、うん」
いくら吐いてもすっきりしないこの感覚は、人生初だ。食中毒なんて言葉が頭を過ぎる。
「もしかして生理?生理でも、こんなには辛くならないか」
生理。陸のその発言で、今月、九月と遡り、八月でようやく見えたその印。
「え……まさかお前」
青ざめた私の横顔を見て、陸が察した。背にあてられていた彼の手は止まる。
「妊、娠……?」
囁くにも満たない小さな声なのに、それは私の耳に矢を射った。その刹那だけ、止まる吐き気。
「嘘だ……だって、そんなっ」
妊娠など、していないはずだ。
「気のせいだよ」と言って欲しくて顔を上げたのに、瞳に映るは鏡のように私と同じ顔をした陸だけ。彼の黒目の中の自分と目が合って、寒気がした。
「とりあえず家に来い」と陸に連れられて、彼の自宅に着く。
「乃亜ちゃん、今日見てたよおっ。あの人が乃亜ちゃんの彼氏だったんだね」
無邪気な楓と、今は話す気にもなれない。
「楓!」
怒声にも似た陸の声で、楓が止まる。
「乃亜調子悪いから、ちょっと俺の部屋で休ませるんだ。静かにしててくれ」
「そ、そうなの?乃亜ちゃん、大丈夫?」
心配そうにする楓に、精一杯の笑顔を向けた。
「大丈夫だよ、楓。体育祭張り切りすぎちゃったみたいっ」
陸に渡されたコップの水を飲みきれずにいると、彼はそれを受け取り、机に置いた。
ベッドへと促されて横たわれば、陸の重そうな口が開く。
「乃亜……最後の生理、いつきたの?」
「八月の、後半だったと思う」
「遅れてんじゃん」
途端に曇る、陸の顔。
「うん、遅れてる」
遅れているだけ、遅れているだけだと私は自分に言い聞かせた。
「勇太の奴、避妊してたんだよな?」
貫くようなその視線に束の間たじろぐ私だったが、うんと大きく頷いた。
「勇太君、ちゃんと外に出してたもん」
陸の視線が強くなる。
「……は?」
「だから、中には出してないってば」
「ゴムは?」
その問いに、私は口を噤んでしまう。
陸は私の手首をとった。
「何やってんのお前。そんなの、避妊って言わねえから。赤ん坊できちゃうじゃんっ」
妊娠が決定したような言い方をされて、ムキになる。
「で、できないよっ。何回もしたわけじゃないしっ」
「一回でも二回でも、できる時はできるだろうが」
「できないっ」
「できる」
「できないっ!」
「できんだよ!」
その瞬間、枕元にずんと陸の拳が沈められて、私は何も言えなくなった。彼が離した私の手首にも、薄らと朱色の筋が残る。
「まじでばかかよ!乃亜も、勇太も!」
憤慨する陸を見て、否定ができなくなる。もしかしたら、まさか、が現実になってしまう気がして、世界の色が褪せていく。
陸の枕に顔を押しあてて、涙を流した。鼻から体の芯へと落ちていく彼の匂いに、彼とひとつになったあの夜が思い起こされる。
けれど。
「勇太の赤ちゃん、産むの?」
陸がそんなことを聞いてくるものだから、私は再び吐き気を催した。




