弘治三年 新春
弘治三年(1557)一月上旬 駿河国安倍郡府中 今川館 長野 綾
“このたびは幣も”
「はいっ」
大きな声を上げながら春さまが札をおとりになった。愛らしい表情をされながらお取りになった札を御屋形様へ御見せになられている。
「早いな。其れに覚えも大したものだ」
御屋形様がお褒めになると聡子様が続けて“本当に”と仰せになった。聡子様が屈託の無い笑みを浮かべてお褒めになられている。聡子様付になって分かった事がある。聡子様は春さまの事を大事に思われているという事だ。真の妹の様に扱われている様なところさえある。年の差が良いのだろうか。春さまは十二になられたばかりだ。聡子様とは七つ程離れている。御屋形様が聡子様を大事にされているのも大きいかもしれない。
若くして武名を轟かせる御屋形様は奥にあっても抜かりが無い。暇を貰って父の下へ一時帰った時に父から奥の様子を問われた事がある。差支えない範囲で伝えると、父が大きな声を出して笑っていた。“今川は安泰じゃ。後は跡取りだけじゃな”と仰せだった。
“瀬を”
“バァンッ”
春さま付の静様が上の句を読まれた瞬間、御屋形様が驚く速さで札をお取りになった。
「驚きました」
「其の札は是非に取りたかったのですが」
聡子様と春さまが御屋形様に呟かれる。
「何となく此の札は取りたいと思うていたのだ」
“瀬をはやみ……”崇徳院の詠んだ恋の歌だ。
「以前、御屋形様が御台様にお贈りになられた事があると聞いております」
春さまが呟くように仰せになった。
静様の御顔を伺うと、気まずそうな御顔で首を振られていた。静様は話されていない様だが、女中の誰かが話したか。
「あ…失礼を致しました」
場が静まったのを受けて春さまが頭を下げられた。悪気は無い一言だったのだろう。だが、姫君の一言が時に重みを帯びる時がある。静様が後で厳しく諭すだろう。
「ならば此れは春にやろう」
御屋形様が春さまに近付いて手にした札を春さまの手に預けられた。
「よろしいのですか」
春さまが御屋形様と聡子様の御顔を覗かれる。
「うむ。其れから聡子には此れを」
御屋形様が徐に袖を探られて一枚の札をお出しになられた。聡子様の手を取られてお渡しになる。
「まぁ」
受け取られた聡子様が驚きつつも嬉しそうな御顔を浮かべられる。僅かに見えた札には同じ崇徳院の歌が書かれていた。ご用意されていたのか。
「さっ、まだ札はある。続きをしようぞ」
御屋形様が並んでいる札を真剣な表情で眺めながら仰せになった。
隣にお座りになられている六條美代様が“お上手ね”と私にしか聞こえないお声で仰せになった。
静様も笑みを浮かべながら札詠みの準備をされている。
父にこの話をしたらまた大きな声を上げてお笑いになるだろうと思うた。