5話(1) 『類焼(るいしょう)―緋色の鼓動―』
致死の牙が眼前に迫り、己の現状を確認する羽衣。
羽衣の体勢は所謂死に体。次の行動に移るよりも先に、フェンリルの牙が彼女を貫くだろう。
打つ手のない羽衣は、ここで己の敗北を悟った。
(五分の可能性に負けたか。目指す己までもう少しだったんだけどな)
己の人生にそう結論付ける羽衣。
そして、いよいよ『殺害』の牙が彼女に――
キラッ、ヒュゥゥン!
――触れようとしたその直前、横合いからキラリと光る物体が、フェンリル目掛けて飛んできた。
フェンリルは即座に首を横に振り、その物体を噛み砕いた。噛み砕かれた物体の正体は刀だったが、フェンリルと羽衣がそのことを認識する前に、目を眩ませる閃光と、耳を劈く爆発音が両者を襲った。
(何が起き――えっ⁉)
羽衣は突然の出来事に目と耳が使えなくなり戸惑っていると、突如グイッ! と引っ張られ、抱えられた。
フェンリルとの距離が離れていくことを感じる羽衣。徐々に視力が回復していき、朧気ながら自分を抱えている人物が見えてきた。
「かん、な?」
「話は後です。まずは身を隠しましょう」
羽衣を抱えていたのは、サリューの足止めをしているはずの敢七であった。
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羽衣と敢七は、現在フェンリルとの戦場と化していた広場を離れ、小規模な林へと移動していた。
「よし、ここなら大丈夫か」
そう言って一息つく敢七に、羽衣が自分の現状を見つめながら話しかける。
「敢七、助けてくれたのはありがたいけれど、そろそろ降ろしてくれないかな? 私はもう大丈夫だから」
羽衣は所謂お姫様抱っこの状態で抱えられており、かなり密着した状態でここまで移動していた。
非常事態で仕方のないことと割り切っているため、表情は何時もの涼し気なものだったが、ほんの少しだけ頬が赤くなっていた。
「え? ああ! すいません!」
敢七は現状に気付き慌てて羽衣を降ろす。
羽衣も「コホン」と居住まいを正すと、一番初めに頭に浮かんだ疑問を口にする。
「どうして君がここに? サリューの足止めは?」
敢七はサリューの足止め中。夜明けか羽衣がフェンリルに勝つまではここに来るはずがないのだ。
羽衣としては当然の疑問に、彼は事も無げに答える。
「サリューは無力化しました。葉月も無事です。双一は消耗が激しかったので、葉月を任せて俺だけ加勢に来ました」
彼の答えに対し、疑問を投げた当の羽衣は――
――
――――
――――――は?
――頭が真っ白になっていた。
「今、なんて?」
「え? 加勢に来たって――」
「違う! 無力化に成功したって⁉ サリューを倒した⁉」
思考の空白が衝撃に変わる羽衣。唇をわなわなと震わせ、今まで見たことがないような焦った顔で敢七に詰め寄る。
不可能が、可能に変わった?
そんなの。そんなの――
「はい。弱みに付け込んだ自滅みたいなものでしたけど――」
「そんなはずない‼‼」
――そんなの、絶対に起きてはいけないことだ‼
「そんなはずない。そんなはずがないんだ‼」
――否定しなければ。否定しなければ。
「君とサリューの戦力には絶対の開きがあった! 双一と組んだってあの怪我では足止めが関の山! それはサリューが弱っていても、君たちがどれだけ策を弄しても変わらない事実だ!」
――否定の事実を探せ。
「倒すなんて確実に不可能で、救出に向かうだけでも百パーセント死ぬはずだ‼ 私とフェンリルの五十パーセントじゃない、百パーセントなんだ‼」
――否定の理由を作り出せ。
「それとも何かに覚醒したのか⁉ してないだろう⁉ 今の君は作戦前と何ら実力は変わっていない‼ 無理なんだよ‼」
――否定しろ。不可能を倒したなんて嘘だと言ってくれ‼
「――—」
今までに見たことが無い程に取り乱す羽衣に、言葉を失う敢七。いつもの余裕を持った、涼し気な雰囲気は見る影もない。
彼女自身も、ここまで感情を爆発させたのは、これが初めてのことであった。
でも、どうしても認められなかったのだ。不可能は『絶対に可能にならない』からこそ不可能と言われているのだ。羽衣もそう信じて、否、確信して自分にとっての不可能を切り捨ててきた。
もし、ここで不可能は覆るなんて事実が存在してしまったら。
もし、今まで切り捨ててきた『不可能』の中に、実は『可能』に変換できるものがあったのなら。
もし、もしも、その覆すことができた不可能の中に『最強』になるための重要な要素があったのなら。
それを認めてしまったら、その時こそ羽衣の十年は無意味なものとなり、本当の意味で『徒花』に成り下がる。
だからこそ彼女は必死に否定する。なりふり構わず彼に叫ぶ。
羽衣の様子に戸惑いを隠せない敢七だったが、羽衣の瞳を真っ直ぐ見つめて話す。
「不可能だったかもしれないですけど、助けたのは事実です」
「――――」
――がらがら、がらがら。
「俺も、最初庭園にいた魔物の大軍を見て戦うなんて不可能だって思ったけど、状況が変わって挑まざるを得なくなりました。だったら逃げられないじゃないですか。葉月の命が関わっていたら尚更」
――がらがら、がらがら。
「羽衣先輩言ったじゃないですか。『挑んだら死ぬ』って。だから、どうせ死ぬなら最初から命を懸けて行動しても問題ないと思ったんです」
――がらがら、がらがら崩れていく。
「死ぬから……最初から命を懸けた……? 最初から自分が死ぬこと前提で挑んだってこと……?」
――がらがら、がらがら。
「ええ。それなら俺が死ぬとか勝てないとか関係ないでしょ? 羽衣先輩の話は無視する形になってしまったので、謝らないといけないですけど」
がらがら、がらがらと――
敢七が話すたび、不可能が覆された事実を知るたびに、羽衣の中で何かが崩れ去る音がした。
そして、今まで見えていた光への道筋が、急に真っ暗になり、何も見えなくなる。
暗く、昏い。
「――どうして……サリューに挑めたの?」
信じていたものが崩れ去り、寄る辺をなくした羽衣は、幼子のような頼りない声で尋ねた。
「さっきも言いましたけど、状況が許さなかっただけですよ。……あー、でも」
「でも?」
先ほどと同じ答えを言った後、何かが引っ掛かっているように言葉を続ける敢七。
「もし今回逃げ道があったとしても、結局は挑んでいたと思います。不可能だからって諦めるのは、なんか違う気がするんですよね」
「――――!」
明確な言語化ができず感覚的な答えを出す敢七に、羽衣はハッと大きく目を見開いた。
羽衣のその様子に、答え方を間違えたかと焦る敢七は、その直後に「ほら、俺って羽衣先輩と違って要領悪いしできないことばっかりだから、挑戦してから失敗しないと理解できないんですよ」と矢継ぎ早に語る。
そんな敢七の様子を見て、羽衣は自分が大きな勘違いをしていたことに気付く。
羽衣が見てきた敢七は、いつも誰かの頼みを聞き、出来ないことでも見境なしに無理して引き受ける少年だった。
先の剣道部の入部の件など良い例である。
あの時羽衣が不快感を覚えたのは、彼の言葉に対してだけでは無い。
あの時の敢七の瞳は、何も映すことが無い空虚な伽藍洞だったのである。
羽衣が見てきた敢七はいつもそうだった。
人の為に何かをしているにも関わらず、感謝をされても瞳の奥では何も感じていない。
表面上は人当たりが良く、気が利く。それがより一層彼の歪さを羽衣に感じさせていた。
他人の為だけに全ての時間を費やす空虚な空虚なお人形。
何も感じないから躊躇なく不可能にも挑める。
その在り方は、自分の為に全てを費やしてきた羽衣とは対極で、相容れることはない。そう考えていた。
でもそうではなかった。
紙鳥敢七という少年の、本人すらも気付くことができない心の底の奥の奥、その深奥で燃えていた小さな小さな火種。
その火種の正体は、自分ではない誰かの為に不可能に立ち向かい、覆すことができると信じる強靭な精神力。
そして不可能に挑み続けることで、その火種には知らず知らずのうちに燃料が焼べられてきたのだ。
結果、火種は炎となって燃え上がり、不可能を可能にするという偉業を成し遂げた。
――なんて、なんて分かり難い心なのだろう。裏の顔と思っていた性格でさえ、彼の表層でしかないなんて。
紙鳥敢七という少年の真価に触れた羽衣は、そこでふと、己を省みる。
『不可能』を積み上げ続けてきた敢七と『不可能』を切り捨ててきた羽衣。
きっとどちらが正しいかなんて、明確な答えがあるわけではない。
しかし、明確な答えはないが、明確な違いはある。
無自覚とはいえ、不可能に挑戦し続けるという信念を貫く敢七に対して自分はどうなんだと、問いかける。
効率のいい努力のみを極めたことに今更後悔していなかったか?
自分の予想が外れたからって信念が揺らいでいなかったか?
フェンリルの牙が迫った時、何を考えていた? 打開策を考えることをしたか?
――自分は、不可能と決まってもいないことを諦めていなかったか?
(――ああ、そうか)
ここで羽衣は漸く気付く。
心技体、そして間合いを制する者は戦を制す。これは透間一族における戦の鉄則。羽衣もこれに関しては同じ思いだったが、本当は違ったのだ。
人の強さは心技体の中でも、精神の強靭さが大事であり――
自分の信念が正しいことが重要なのではなく、どれだけその信念を強く想うことができるのかが重要なのだと。
ポツリと、羽衣は呟く。
「なんだ。私よりも全然強いじゃないか」
ドクン。
――この瞬間、羽衣の心に火が付いた。
「すいません。上手く言葉にできないです。それより、今はフェンリルにどうやって勝てるか考えましょう。必ず活路はあるはずです。無いなら作りま――」
パァン‼
「――うええ⁉ 羽衣先輩⁉」
突然自分で自分の頬を両手で叩いた羽衣に驚く敢七。いつもの涼しげな表情で口を開く。
「敢七、フェンリルの対策を考える必要は無いよ」
「どうしてですか?」
「私が一人で倒す。君は見ていてくれないか?」
「そんな⁉ 無茶ですよ! 俺だってもう未来視できるほどの力が残ってないのに!」
再び驚愕する敢七。羽衣は涼やかに笑いながら言葉を続ける。
「フフッ、無茶を押し通した君が言うと説得力がないね」
「それは……でも、今は二人いるんです。二人で挑んだ方が勝ちを拾えます」
「そうかもしれない。でも、これは私が貫きたい我が儘なんだ。付き合ってくれないだろうか」
「~~‼ そこまで言われたらどうしようもありませんよ。でも、危なくなったら救助に行きますからね‼」
葛藤の末、遂には折れる敢七。
「そうならないように気を付けるよ。ああ、この戦いが終わったら話しておきたいことがあるんだけど良いかな?」
何の気なしに尋ねる羽衣。敢七はもうどうにでもなれという気持ちで答える。
「フェンリルに勝てるのなら、話でも何でも聞きますよ」
「フフフッ、約束だよ。それじゃあ行こうか」
そう言うと、軽い足取りで歩き出した。