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ラスベガスから戻った後、あっという間に時間は過ぎていった。瀬戸熊と玲香との時間は、おれにとって何よりも貴重だった。アインシュタインの相対性理論は、どうやら本当らしい。おれは学校をさぼりがちになった。頭痛がする、熱がある、などというバレバレの嘘に、両親は何も言わなかった。おれの気持ちを汲み取ってくれたのが、ありがたかった。学校の時間を削って、おれは瀬戸熊と玲香との貴重な時間を選んだ。初めてできた、友達との時間を。
その日は急に訪れた。忘れもしない、高校二年になってすぐの四月十日。伯父さんがひっそりと家を訪ねてきた。
「じゃあな」
おれは下を向きながら、ふてくされていた。覚悟はしていたが、納得はしていなかった。心の準備ができていなかった。あまりにも、短い時間だった。
「今までありがとう」
玲香はおれの手をぎゅっとにぎった。冷たいその手は、少しだけ震えていた。
「またな」
いつもの調子だと思っていた瀬戸熊も、顔が少し曇っていた。おれたちは、最後に軽い抱擁をかわした。あいつなりの優しさだった。二人は大人の対応をしたが、おれはふてくされたままだった。伯父さんが最後に、はっぱをかけるまでは。
「瀬戸熊も玲香も、もういいのか。二度と会えないんだぞ」
二人は不思議そうに伯父さんを見たが、おれにはその言葉の意味が分かっていた。
「和馬が倶利伽羅に受かると思うか?これが最後なんだから、何か言ってやれ」
気まずい空気が場を支配した。おれは伯父さんにゆっくりと近づいた。身長差がありすぎて、見上げる形にはなったが、精神的には負けていなかった。
「待っててください。すぐに会いに行きますから」
せいぜいがんばれよ――。伯父さんは笑って手を振った。最後まで、伯父さんは伯父さんだった。
特別な友達を失ったおれは、勉強に集中するしかなかった。何かをこなしている時間というのは、余計なことを考えなくて済む。落ちるかもしれない。二度と会えないかもしれない。伯父さんを見返せないかもしれない。惨めな人生を歩むかもしれない。悪いイメージは簡単に浮かんでくるが、かき消すことも簡単だった。ひたすらに、目の前のことに集中するのだ。
そんな勉強にのめり込んでいたおれは、試験の準備段階になって、残酷な現実を知ることになる。
倶利伽羅の試験は独特だった。世間では一般的な、ペーパーテストが存在しないのだ。必要なのは大学入学共通テストの結果のみで、それも足切りのために使われているだけにすぎない。よくある二科目だけ極めて受験する、というような対策が取れなかった。最も重視されるのは、高校での成績だった。とあるサイトによれば、内申点の平均はほぼオール五に近くなければならないと書いてあった。もちろん、保健体育や美術なども含めてだ。美術的センスが壊滅的なおれにとっては、悲報以外のなにものでもなかった。他にも先生の推薦状、ボランティアや課外活動の成果をまとめた願書、自分の事を客観的に評価したエッセイなど、細かな準備が大量に必要だった。
倶利伽羅には、勉強ができるだけの人材は必要ないということだ。全ての面において能力が極めて高く、リーダーシップも取れ、人格的にも優れている。そして未来のビジョンをしっかりと持っている――。そんなパーフェクト超人のような人間しか、門をくぐれないのかとおれは思った。
準備段階で心が折れかけていた。高校二年から本気を出そうとしたおれは、スタートの銃の音を聞き逃したランナーだった。背中が見えないどころか、すでに周回遅れにされた気分だった。
一浪、いや二浪三浪も覚悟して倶利伽羅にこだわるのか。それとも惨めにも敗北を認めて、他の大学を目指すのか。おれは選択を迫られた。人は追い詰められた時に本性が出るとよく言われるが――。おれは結局、倶利伽羅にしぼることにした。
歯を食いしばって苦境に耐えるより、しっぽをまいて逃げ出す方が、遥かに楽だった。何度も誘惑にかられた。他の大学でもいいじゃないか。なぜ倶利伽羅にこだわる必要があるのか。おれは伯父さんに啖呵を切ったことも、瀬戸熊や玲香と再会を約束したことも、忘れようとした。無理だと叫んで、全てを投げ出そうとした。でも伯父さんの蔑むような笑顔を思い出すと、そうは出来なかった。心のどこかから、少しだけやる気が湧くのだった。
受験の日がやってきた。といっても、倶利伽羅にはペーパーテストはないので、受けるのはオンラインでの面接だった。正直に言って、おれは投げやりな気持ちになっていた。内申点は巷でいわれている基準に達していないし、エッセイも良い出来だとは言い難い。勉強以外の活動もろくにしていないし、先生の推薦状もいまいちだ。どう甘く見積もっても――。落ちた時のことを考えると、おれの気持ちは地球のコアを貫いて、ブラジルに届くほど落ち込んでいた。
面接が始まった。画面の向こうで鋭い眼を光らせているのは、まだ若そうな男の面接官だった。黙っていても、その頭の良さがフレームレスのメガネから伝わってきた。
序盤、中盤。話は少しも弾むことはなく、おれのテンションは地を這うように低空を推移した。なにせおれには、誇れるような経歴も、成績も、才能も、何一つなかった。巨大な城に竹やりで突っ込む農民のように、無謀な突撃を繰り返しては迎撃された。
「そうですか。部活動や生徒会活動には参加していなかったと」
「はい……」
心の中でうるせえと悪態をついた。学校の規定により二年から部活動を始めることはできなかったし、生徒会は立候補したものの、惨敗していた。
「ボランティア活動や、課外活動もしていませんね。時間はあったと思うのですが、あなたは何をやっていたのですか?」
「ははは……」
乾いた笑い声を返すのが精いっぱいだった。何をしていただと?勉強に決まっているだろうが。共通テストの足切りのレベルが高すぎるから、勉強に全てのリソースを注いだんだよ。ボランティアだと?自分のことで精一杯なのに、そんな余裕があるわけねえだろ。
もういっそ一思いに殺してくれ。おれがそう思っていると、面接官が最後の質問をした。それは、倶利伽羅への志望動機だった。
「あなたの願書を見ると、この部分だけはよく書き込まれていますね。伯父と大切な友人が、きっかけだと」
「……はい」
「失礼ですが、あなたの伯父は、猿川忠人さんではありませんか?」
「……ええ、そうです。よく分かりましたね」
「珍しい名字ですから。倶利伽羅で、猿川教授を知らない人はいません。わたしの、憧れの人です」
面接官が唯一笑顔を見せた場面だった。伯父さんの甥っ子だということ以外は――おれには何の価値もないということか。
受験が終わった後のおれのマイブームは、現実逃避だった。一日中部屋に閉じこもり、大好きなアニメと映画を見続けた。何もしたくない。何も考えたくない。このまま次元の壁をこえて、フィクションの世界に逃げたかった。
――あなたは入学選抜試験において、不合格となりましたので通知します。
発表の日が近づくと、毎日不合格の紙を見る夢をみた。そこにはたらたらと、言い訳がましい文句が続いていた。これまでの努力は報われるだとか、今後のあなたの活躍に期待するだとか。何度も夢を見るうちに、おれの体調は悪くなっていった。全身のだるさが長い間続いて、ついには風邪を引いてしまった。
おれは倶利伽羅を諦め、他の大学に進む道を模索した。一浪したところで、状況が好転するとは思えなかった。悔しいが、潔く敗北を受け入れるべきだと思った。他の大学でも、楽しいキャンパスライフは送れる。そうやって、自分を偽ろうとした。
しかしそう思おうとしても、伯父さんの憎らしい笑顔は消せなかった。玲香の手の温度も、瀬戸熊の抱擁も、忘れられなかった。おれは布団にくるまりながら、どうすればいいのかと自分に問いかけた。そんな日が、何日も続いた。
倶利伽羅の結果が届いたのは、そんな最悪のタイミングだった。お袋が扉の前に封筒を置いてくれたのだが、おれは見ようともしなかった。これ以上体調が悪くなるのは避けたかったし、何より現実を直視したくなかった。だが人間の生理現象には逆らえない。尿意をがまんできなくなったおれは、しぶしぶ重い扉を開いた。
まず驚いたのは、封筒の分厚さだ。想像していた不幸の手紙とは、ビジュアルが全く違った。漏らしそうな尿意を素早く処理したおれは、部屋に戻って丁寧に封筒を開けた。そして黄金の合格通知書を、目にしたのだった。
正直なところ、なぜこういう結果になったのか、信じられなかった。壮大なドッキリを仕掛けられているお笑い芸人のような気分だった。どこかに隠しカメラが仕掛けられていて、伯父さんが大成功と書かれたプラカードを持って出てこやしないかと、周りをしばらくキョロキョロと見渡した。
なぜおれが受かったのか。ペーパーテストを受けていないから、正確なおれの学力が倶利伽羅に伝わっていないからか。はたまた何らかの手違いという単純なミスか。大穴で、伯父さんが裏で手を回したという可能性も考えたが、すぐにありえないという結論に達した。伯父さんは自分が最優先の男だ。人のためにならない優しさを施すような人ではない。それだけは確かだ。
大学に確認の連絡をしようか迷った。だが天下の倶利伽羅が、単純な人為的ミスをするとは思えなかった。この合格通知は本物だ。理由は闇の中だが、とにもかくにも、おれは倶利伽羅大学に合格してしまったのだ。
自分が風邪を引いていることなど、忘れてしまっていた。両親にとりあえず報告をして、今後の準備を進めることにした。残念ながら、両親もおれと同じリアクションだった。猿川家が事態を把握して冷静になるには、もう少し時間が必要だった。
浪人をしなくていい。親元を離れて一人暮らしができる。そしてなにより、倶利伽羅に選ばれた。少しずつ実感が湧いて来たおれは、有頂天だった。薄っぺらな合格通知の紙が、人生の成功を約束してくれる、金色のパスポートに見えた。輝かしい未来がおれを待っていると、本気でおれは――勘違いしていた。
倶利伽羅に隠された真実に気づくまで、おれは淡い幸せに溺れていた。