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翌日。玲香が行きたいといった場所は、市の中心部にある図書館だった。そもそも片田舎のこの町には、選択肢がほとんどなかった。その中で玲香が図書館を選んでくれたのはラッキーだったとおれは思った。本には全く興味はないが、冷房がよく効いているので、少なくとも快適に過ごせるからだ。
「本当に本が好きなんだな」
「うん。とても」
「これじゃあ家でこもっているのと、あまり変わらないと思うんだけど……」
「そんなことないわ」
「そうかな?」
「知らないの?紙の本には、特別な魅力があるのよ」
そういってほほ笑んだ玲香は、めまいを起こしそうなほどかわいかった。
本には何の興味もないが、おれは玲香に付き合うことにした。とはいってもいかんせん興味がないので、どの本を読めばいいのか迷ってしまった。玲香にアピールできるような、大人でお洒落な本を選ぼうかとも思ったが、すぐにボロが出る気がした。十分ほど迷った挙句、おれは昔一章で投げ出した、大ベストセラー小説の続きを読むことにした。
おれは玲香の隣の席に座った。彼女が読んでいる本は、バームクーヘンよりも分厚かった。本のタイトルは――テクノロジーと人類の未来。おれには一生縁のない本だと思った。
三十分ほどが経って、おれの集中力が切れはじめた。そわそわしているおれに気づいた玲香が、話しかけてきた。
「どうしたの?」
「いや……。あまり面白くなくて」
「そうなの」
「映画を見たからかな。結末が分かっている物語は、退屈だよ」
玲香は不思議そうな表情を見せた。じゃあ別の本を読めばいいじゃないと言いたげだった。おれは正直に白状することにした。
「実は、図書館の雰囲気が苦手なんだ」
「どうして?」
「絶対に静かにしていろと言われると、反発したくなるんだよ」
玲香の口角が美しく上がった。彼女が笑うだけで、幸せな気持ちになるのはなぜだろうか。
「よく分かるわ、その気持ち」
意外な言葉だった。おれはてっきり、馬鹿にされると思っていた。
「とてもそういう風には見えないけど」
「そう?」
「いかにもって感じだ。静かに本を読んでいる姿は、とても様になってる」
その言葉を聞いて、玲香は首を横にふった。そして不敵な笑みを浮かべ、おれの耳元でこう囁いた。
「本当は、うずうずしているの。大声で叫んで、暴れたい気分だわ」
十五歳とは思えない、艶のある声だった。昨日の記録を遥かに超えて、おれの心臓は高鳴った。玲香は静かに本を閉じて、席を立って言った。
「外に出ましょう」
自分を落ち着かせるのに、精一杯だった。とりあえず何か飲もうといって、おれは自動販売機でレモンスカッシュを二つ買った。玲香に渡すと、彼女は困ったような表情を見せた。
「どうした?炭酸は嫌いだった?」
「そういうわけじゃなくて……。缶ジュースは初めて飲むから、開け方がわからなくて」
「……まじ?」
五分前にぶっ飛んだ願望を告白したかと思えば、今度はお嬢様のようなことを言う。どっちが本当の玲香なのだろうかと、おれは困惑した。
「ええっと……。じゃあまずは、おれが自分のやつを開けてみるよ」
説明するのも恥ずかしいくらいだったが、おれの手元を見る玲香の表情は、真剣そのものだった。もしかしたら玲香は、頭が良すぎる分、大事なものをどこかに置き忘れたのかもしれない。おれは人差し指でタブを上げた。炭酸の抜ける心地よい音を聞いて、玲香は思わずうなった。
「すごい……」
「簡単だろ?」
「うん。でも、爪が全部持っていかれる気がするわ」
「怖いこと言うなよ……大丈夫だから、やってみ」
玲香は恐る恐る、缶ジュースと対峙した。シュールなその雰囲気に、おれは笑いをこらえるのに必死だった。一分ほど格闘した結果、玲香は何とか勝利をもぎとった。
「強敵だったな」
半笑いでおれがいうと、玲香は嬉しそうに頷いた。
おれたちはキッズスペース横のソファに座った。ここならば声を出しても問題ないし、クーラーもしっかり効いているので、都合が良かった。
「人生で初めての炭酸は、どう?」
「舌がピリピリするし、喉も少し痛い……」
「ごめん。お茶でも買ってこようか?」
「ううん。味は美味しいし、最後まで飲むわ」
優しい子だと思った。買ってくれたものを粗末にできないという気持ちがあるのだろう。
「さっきのことなんだけど……」
おれは恐る恐る聞いてみた。
「さっき?」
「大声で叫んで暴れたいって……。冗談だった?」
そうだとしたら迫真の演技だとは思うが。
「本心よ。和馬は思った事ない?」
「おれは……ないかな」
「でも、静かな雰囲気に耐えられないと言ってたじゃない」
「あれは何ていうか、一般的なものだよ。長い時間集中できないっていうだけの話で」
「そうなの……。わたしはある。全てを壊したくなるような衝動に駆られることが」
「……そうなんだ」
玲香からは、思春期特有のこじらせた雰囲気は感じられなかった。もっとこう何というか――病的な匂いがした。
「わたし、おかしいのかな……」
玲香が下を向いた。おれは反応に困った。嘘をつくのも嫌だったので、強引に話題を変えることにした。
「ところで、玲香さんは何で本が好きなの?」
「うーん。他人の考えが整理されて、まとめられているからかな。思考を覗き見できる機会なんて、他にはないでしょう?」
おれは少し引いてしまった。もっとこう可愛らしい答えを期待していたのだが。
「……ちなみに、その本にはどんなことが書いてあるの?」
玲香の手には分厚い本が握られていた。先ほど読んでいた、テクノロジーと人類の未来という本だ。おれが貸し出しカードを作って、借りたのだった。
「簡潔に説明するのは難しい。でも……誤解を恐れずに言うなら、わたし達はどこから来たのか、そしてどこへ行くのかが書いてある」
「自分がどこから来たのかなんて、答えは簡単だろ」
「そうかしら。とても興味深い問いだと思うけれど」
「母親の腹の中じゃないのか?」
「……そういうことを言っているのでは、ないのだけれど」
玲香の困惑した表情の意味が、当時のおれにはよく分からなかった。
おれは人類の未来に興味がなかった。そんなことよりも、今日の晩御飯が何かのほうが重要だった。生きているのも当然、これからダラダラと人生が続くのも、当然だと思っていた。
玲香はずっとずっと先を行っていた。この頃から既に、彼女は自分という存在について深く思考し、先を見据えていた。今のおれなら、少しは彼女の考えていることが分かる。自分がどこからきて、そしてどこへ行くのか。誰もが一度は疑問に思う、普遍的な問いかけだ。
「でも、羨ましい。和馬は、間違いなく忠司さんと芳子さんの子供だわ」
「何だよそれ。バカにしてるのか?」
「そんなことない。本当に良いなと、思ってる」
おれと両親の顔は、どこからどう見ても家族だと断定できるほど、似ていた。授業参観の日、クラスのみんなにからかわれたことを思い出して、少しブルーな気持ちになった。
玲香は近くで遊んでいる子供たちを眺めていた。その横で見守っている母親の顔を見ると、何となく誰が誰の子供なのかが分かる気がした。どうしたって、子は親の特徴を引き継ぐものだ。おれはふと、玲香と瀬戸熊の両親のことが気になった。これほど綺麗な子供の親だ。相当な美男美女に違いない。
それについて聞こうかとも思ったが、結局おれはやめた。出会ったあの日に、玲香は言葉を濁した。それなのに、もう一度話を蒸し返すのは失礼だ。わざわざこんな田舎にやって来たのは、面倒で厄介で人に言いづらい理由があるに決まっている。
十冊ほどの本を借りて、おれたちは図書館を後にした。玲香の選ぶ本はどれも分厚い学術書だった。持たせるわけにもいかず、全ておれのリュックに入れたのだが、あまりの重さでへとへとになったのを今でも覚えている。二人であぜ道をゆっくり歩いて帰ったのは、最高の思い出の一つだ。
その日から、玲香と図書館に行くことが、おれの夏休みのルーティンに加わった。彼女の本好きは本物だった。なにせ借りた十冊の本を、その日の夜に読み終えてしまったのだ。図書館中の本を読みつくさんとする勢いで、あらゆるジャンルを次々と読破していった。瀬戸熊と同じように、玲香も異常な集中力と持続力を持っていた。
何となく付き合っていたおれも、段々と紙の本の魅力に気が付いた。最初は玲香に認めてもらいたいだけだったが、いつの間にか本当に本が好きになっていた。下心が知識となって生まれ変わった、珍しいケースだ。こうやって、おれと玲香の距離は少しずつ縮まったのだった。