18
翌日の朝。おれたちは第二総合研究所に向かった。前回よりも緊張はしていなかった。左手に感じる痛みで眠れなかったのと、暴力にさらされた怒りで、それどころではなかったという方が、適切かもしれない。ノックをすると、聞きなれた声が部屋の中から聞こえた。
「どうぞ」
部屋の中に取り巻きはおらず、玲香一人だった。テーブルの上には、空になった皿が置かれていた。
「食事中だった?」
「うん、今食べ終わったところ。ちゃんと、食べないとね」
おれのしょうもない言いつけを守ってくれたことが少しだけ嬉しかった。
「この前は、ありがとう。助かったよ」
「いいの。百合沢さんに言われた通りにしただけだから」
「玲香は……あのシステムをどう思っているんだ?」
「どうもこうも。あれがわたしの今の研究なの」
「……そういうことか」
「防犯のための監視AIの導入。それが私の研究。集められた様々なデータをもとに、各個人の危険度をAIが判断するの。この前も言ったでしょ?お金にならないのよ、この研究は」
「玲香の身に起きた事件が、研究をするきっかけになったのか?」
「……そうね。わたしみたいな人を、これ以上増やしたくないと思った。犯罪を未然に防ぐことができれば、怒りも憎しみも生まれようがないわ」
「だからといって、やっていいことと悪いことがあると思うが」
「それは誰が決めるの?」
「それは……少なくとも、個人やある一つの組織が決めていいことじゃないだろ」
「わたしはそうは思わない。実現できる可能性があるのなら、挑戦しないという選択肢はないわ」
それはあくまでも、倶利伽羅の理論だろ――。そう言いかけたが、おれはやめた。根本的な考えが違うのだから、おれと玲香の意見が交わることはないのだ。
「まあまあ二人とも、落ち着けよ。今日の本題は違うだろう?」
瀬戸熊が間に入って場をなごませた。久しぶりに三人で会ったというのに、空気は最悪だった。確かにそうだ。今日ここに来たのは、玲香と倫理についての討論をしに来たわけではない。
「……黒木貴史について、知っていることを教えてくれ」
「そうね、分かったわ。わたしが知っていることを、全て話しましょう」
玲香は食後の紅茶をゆっくりと飲み干し、おれたちに一枚の写真を見せた。
「誰なんだ、この人は?」
「コーデリック大からの留学生で、名前はグリーブス。向こうのエクレシアに所属している、とても優秀な……人だった」
「この留学生が、黒木貴史に関わっていると」
「そう。事の発端は、今年の一月まで遡るわ。その時期に、グリーブスの先輩が失踪したのよ」
部屋の空気がさらに澱んだ。よりのもよって、また失踪とは。
「グリーブスの先輩は、素行に問題があった。慣れない日本という土地に適応できなかったのか、倶利伽羅のレベルの高さに悩んでいたのか、理由は色々とあるでしょうけど……その先輩は、ドラッグに手を出した」
玲香がちらりと瀬戸熊を睨んだ。おれも瀬戸熊を見たが、やつは目を伏せていた。
「まあそういうことで、その先輩の失踪はまともな事件として扱われなかった。未来を悲観して自殺をした。売人とトラブルになった。可能性をあげればきりがないから。でもグリーブスはそれに納得をしなかった。先輩が失踪したのには、必ず理由がある。そう考えたの。だから彼は、自分が持っている力を利用して、単独で捜査をはじめた。ちょうど今、あなた達がしているみたいにね」
瀬戸熊が顔を上げていった。
「なるほど。話が見えてきた。グリーブスは捜査を続けて行く中で、おれたちと同じように黒木貴史に辿り着いたわけだ」
「その通り。グリーブスのパソコンには彼の調べたデータが残っていた。彼の先輩以外にも、失踪した学生が沢山いたのよ。倶利伽羅には四万人もの人が暮らしている。だから年に一度や二度、行方不明者が出るのは不思議なことじゃないわ。でもここ三年間の間は、説明がつかないほどその数が増えていた。しかも、失踪者には共通点があったの」
「共通点?」
玲香はタブレットを操作して、失踪した学生のリストを出した。
「これを見て。失踪した学生はみんな、何らかのトラブルを抱えていて、学生支援センターに相談をしていたの。黒木は准教授の職の他に、支援センターの管理を任せられていた。黒木は相談を受けた学生の中から、獲物を選んでいたのよ」
おれはリストに載っている学生の写真を見て、胸が締め付けられた。問題を抱えながらも、それを克服しようとした先に、地獄が待っていたとは。どうにもやるせない気持ちになった。
「ちょっと待ってくれ。そもそも、黒木はなんで学生をさらっていたんだ?三年間の間にこれだけの人数を……」
玲香は暗い顔で、黒木の正体を話した。
「黒木は、デスアンドタックスというシークレットクラブの会員だったの」
「デス……アンドタックス?死と税金……」
聞いたことのない言葉だった。横にいた瀬戸熊が憂鬱な顔でいった。
「ベンジャミン・フランクリンの言葉だな」
「誰なんだ、そいつは?」
「和馬も見たことがある人だよ」
名前を聞いたことはなかったが、確かにおれはベンジャミンの顔を知っていた。現在の米百ドル札に載っている男だった。
「死と税金……つまり、絶対に逃れられないものって意味さ」
名はクラブに込められた意味を体現するものだ。デスアンドタックスは、賑やかで楽しげなクラブではないらしい。
「エクレシアが黒木の研究室に乗り込んだ時には、黒木本人はもちろん、重要なデータや書類も全て、持ち出された後だった。ただ……」
「ただ?」
「黒木が使っていたとされる地下にある隠れ家には、手術室があったの。そこで、無数の血痕が見つかった。失踪した学生達、グリーブスの先輩、そして、彼本人のものも……」
最悪の空気が玲香の研究室を包んだ。世界に輝く倶利伽羅だが、その光に比例するように、闇もまた深かった。こんなにもおぞましい事件が、自分の暮らしている場所で起きていたなど、考えたくもなかった。
「黒木の……デスアンドタックスの目的は一体何なんだ?どうして、そんなむごいことを……」
「彼の研究データは見つかっていないけど。デスアンドタックスに関する論文は存在するわ。ただ私達エクレシアは、それにアクセスすることができないの」
「どうして?」
「その論文は、第一図書館に保管されている。幽玄の管理下のね」
第一図書館は鳳雛会館の北に位置する古びた建物だった。レイディアント図書館のような華やかさもなければ、松沢図書館のような親しみやすさもない。ただそこにひっそりと存在する、不気味な威圧感を放っていた。薄暗い館内を進んでいくと、円形のカウンターに老人が一人座っていた。天井から下がっているプレートによると、どうやら受付のようだ。
「すいません。こちらに収められている論文を閲覧したいのですが」
おれたちは宇田川真一に発行してもらった許可証を、老人に渡した。老人は皺が無数に刻まれた小さな手で、それを受け取った。
「お預かりします。……しかと確認いたしました。ご所望の論文は地下にございます。ご案内しますので、わたしのあとに付いて来てください」
老人はゆっくりとカウンターを出ると、入口近くにあったエレベーターに向かった。古びたエレベーターの中は、独特のいやな匂いがした。気分が悪くなりそうだったおれは、息を止めた。
地下三階に着き、エレベーターの扉が開いた。老人はしばらくお待ちくださいとおれたちに告げ、一人でフロアの奥へと消えていった。第一図書館はその古さから、あまり学生に利用されないというが――それも仕方ないなとおれは思った。だれもこんなお化け屋敷のような場所で、勉強などしたくないだろう。
老人は古びた茶色い封筒を脇に抱えながら、ゆっくりとした足取りでこちらに戻って来た。
「閲覧はこちらでお願いたします。ご理解していると思いますが、念のため確認をしておきます。こちらの論文はコピーやメモを取ることはできません。規則を破った場合、重い処分を受けていただきます。よろしいですね」
そういって老人が指をさしたのは、窓も何もない小さな部屋だった。
「部屋に入ると、自動で鍵がかかります。外に出るときは、中にある電話で受け付けにご連絡ください。こちらで解錠いたします」
おれたちが部屋に入ると、扉が閉まる前に老人が頭を下げた。それでは、ごゆっくり――。
小さな部屋は圧迫感が強く、落ち着かなかった。年代物の古びた電球は、灯りとしてあまりに心もとなかった。おれは閉所恐怖症というわけではないが――長居はしたくない部屋だった。さっさと内容を確認して、一刻も早く出るとしよう。
おれの頭脳では心もとないが、瀬戸熊がいるので問題ないだろう。こいつなら、一言一句丸暗記してしまうに違いない。
論文は、タイプライターで打ち出されたような、古びたフォントで綴られていた。肝心のデスアンドタックスに関する記述は、第四章にあった。
『歴史と伝統に彩られ、今日まで繁栄を極めているクラブがある一方、歴史の中に埋もれてしまったクラブも存在する。その代表格が、黒鳥の刻印を持つデスアンドタックスである。このクラブの謎は多く、解明はされてはいない。起源は東インドにあるとされているが、これも確実な情報だとはいえない。その大きな要因は、デスアンドタックスを生んだといわれるサルベーション大学が、先の大戦の影響で廃墟と化してしまったからだ。多くの貴重な資料が消失し、それは二度と取り戻すことはできない。母体となる大学の没落と同時に、デスアンドタックスも歴史の闇に消えてしまった。
しかし、それは人類にとって良い結果だと言えるのかもしれない。一説によれば、デスアンドタックスは極端に偏った思想を持っていたとされている。彼らは、自分達が最も優れていると信じていた。そして自分達には途方もない力を得る権利があると信じていた。最悪なことに、そのための犠牲を払うことを、彼らは何とも思っていなかった。弱者は強者のための踏み台に過ぎない。それが自然にとって、生命にとっての必然だと、彼らは信じて疑わなかった。そのために、恐ろしい悲劇が起きた。
謎の多いクラブではあるが、確実な証拠もいくつか残っている。その中でも最も醜悪な物の一つは、彼らが行っていた実験の記録であろう。時代は彼らに味方した。人が何人死のうが、行方不明になろうが、そんなことを一切構わないような人間が、国のトップに君臨していた時代だった。人間の命がただの机上の数字として扱われていた時代、デスアンドタックスはその猛威をふるった。
彼らが最も好んだリソースは、他者の犠牲だった。戦時中に各地で行われた軍による非人道的な人体実験が、デスアンドタックスでも行われていた。軍が主導した実験が、兵器の開発を目的としたものだったのに対し、デスアンドタックスの実験は、空想や妄想としかいえないような絵空事のために行われた。何百人もの尊い命が、無惨にも散っていった。彼らの目的は人間の肉体の限界を――』
次のページをめくろうとした時、黒電話がけたたましい音をたてたので、おれと瀬戸熊は椅子から転げ落ちそうになった。飛び出しそうになった心臓を抑えて、おれは受話器を手にした。電話の声の主は、先ほどの老人だった。
「大変失礼いたします。猿川様のお知り合いという方から、電話をいただいております。どうやら大変急な用事らしく――」
「分かりました。相手の名前は?」
「黒木貴史様でございます」