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「さすがにまずいんじゃないかな」
「どうして?」
「仮にも倶利伽羅の准教授だろ?無断で研究室に押し入るってのは、どうにも」
「大丈夫さ。第三にいるようなやつに、文句など言えないさ」
瀬戸熊は明らかに楽しんでいた。そしてそれはおれも同じだった。ダメだとは分かっていても、権力を行使して法を犯すのは、刺激的な経験だった。
おれたちはあの後すぐに、黒木へアポイントを取ろうとした。しかし黒木は三月の下旬から、姿を消していた。怪しいなんてもんじゃない。間違いなく、黒木は松井の失踪に関わっている。おれたちはそう考えた。
そして今、おれたちは住居侵入罪を犯そうと、黒木の研究室がある第三総合研究棟へと向かっていた。こんなことが続いたら、完全に感覚がマヒしてしまうだろうな。
バスの中には、おれたち以外だれも乗っていなかった。夜の十時を回っているとはいえ、貸し切りとは。倶利伽羅の離れ小島というのは本当らしい。バス停を降りて少し歩くと、廃墟のような建物が姿を現した。第三総合研究棟は、典獄寮といい勝負ができるほど朽ちていた。
セキュリティゲートをくぐり、おれたちは建物の中に入っていった。中はひっそりと冷たかった。蜂の巣のように小さな部屋がいくつも並んでおり、それぞれの扉の上に、研究者の名前が書かれたプレートが貼ってあった。
「残酷だな」
瀬戸熊がぽつりとつぶやいた。
「どうした?」
「いや……ぼくももう少ししたらここに来るのかと思うと、少し気が滅入ってね」
「…………」
「倶利伽羅での成功を夢見て研究に励んでいる者もいれば、敗北者として島流しにされたやつもいる。黒木は間違いなく後者だ。ぼくだったら、精神を病みそうだ」
第三総合研究棟には、倶利伽羅の未来と闇が混在していた。
四階にある黒木の研究室に辿り着いた。あらかじめ発行しておいた合鍵を使い、おれたちは部屋の中に入った。
そこには、何もなかった。おれたちより前に、誰かが部屋の中を物色した痕跡だけが残っていた。パソコンなどのデバイスはもちろん、棚や収納箱も全てひっくり返され、中には書類一枚すら残っていなかった。
「どういうことだ……」
「ぼくたち以外にも、松井を追っているやつがいるってことか」
「でも、一体だれが」
瀬戸熊はおれの方を振り返っていった。
「簡単さ。警察以外にこんなことができるのは、エクレシアだけだ」
階段を降りながら、おれは玲香に電話をかけた。コール音がしばらく続いたあと、玲香が電話に出た。
「どうしたの?」
「聞きたいことがあってね」
「……幽玄から依頼されたことに関わることかしら」
「そうだ。失踪した松井誠司という男を追っていたら、黒木貴史という理学部の准教授に辿りついた。そして今、第三総合研究棟にある研究室を訪ねたんだが、部屋の中が空っぽだった。誰かがおれたちより先に、調べたんだ」
「…………」
「瀬戸熊が言うには、やったのはエクレシアのメンバーだろうと。どうだろう。玲香は何か聞いていないか?」
「……内容は理解したわ。直接会って話をしましょう」
「分かった。今からそっちに向かってもいいか」
「大丈夫よ。待ってるわ」
玲香のはっきりした声で、電話は切られた。
「どうだった?玲香は何と」
「口ぶりでは、黒木のことを知っているようだった。とにかく、急いで向かおう」
セキュリティゲートをくぐりバス停へと向かう、その少しの間の出来事だった。薄暗い路地の陰から、いきなり大男が飛び出して来た。
運の悪いことに、おれは瀬戸熊よりも先を歩いていた。大男は一直線のこちらに近づくと、おれの腹部に狙いを定め、右フックをくりだした。とっさにおれは腕で守ったが、ガードなど関係なかった。おれの身体は道を挟んだ草むらまで吹っ飛ばされた。
鈍い音が頭に響いた。何が起きているのか、おれは理解ができなかった。分かっているのは、左腕の感覚がいつもと違う、それだけだった。
道を挟んだ向こうで、大声がした。それは瀬戸熊の咆哮だった。おれは何とか身体を起こして、ぼやけた頭で二人の方を見た。
身長も体重も、明らかに男の方が上回っていた。こちらを躊躇なく攻撃する凶暴性もある。瀬戸熊に分が悪い勝負だと思ったが、結末はあっけないものだった。
男は瀬戸熊の方へ向かっていった。瀬戸熊も身体ごとぶつかっていった。骨が砕ける恐ろしい音が響き、今度は男の身体が宙を舞っていた。おれが先ほど出した記録を、はるかに上回っていた。遠くの林の中に、男は消えていった。
瀬戸熊が急いでおれに駆け寄った。
「大丈夫か!」
「ああ……左腕は折れてるみたいだが、他は問題なさそうだ」
「待ってろ。すぐに救急車を呼ぶ。ぼくはあいつを……」
鬼のような形相を見せたので、おれは痛みに耐えながら瀬戸熊をなだめた。
「瀬戸熊も落ち着け。やつにこれ以上何もするな。あとは警察に、任せればいい」
「……分かった。とりあえず、身柄だけは押さえておくよ」
倶利伽羅には敷地内に付属病院がある。すぐに救急車はやって来た。瀬戸熊は男を警察に引き渡すために現場に残った。おれは小刻みに震えながら、一人で救急車に乗った。心配そうにおれを見つめる瀬戸熊の顔が、印象的だった。
「これはまあなんとも……きれいに折れていますね」
倶利伽羅付属病院は、想像を超えて巨大な建物だった。おれは昔見た、白い巨塔を思い出した。残念ながらおれを診察してくれたのは、財前先生でも里見先生でもなく、おしゃべりな軽いノリの若い医者だった。
「本当に、殴られただけなんですか?」
「はい……そうです」
喋るのも億劫なほど、骨折の痛みはきつかった。骨折は今までに経験したことがなかった。じんじんと不快な痛みがこれから続くと思うと、憂鬱な気分になった。
「そうだとしたら、すごいな。橈骨と尺骨、両方一度に折るなんて。喧嘩の相手は、ヘビー級のチャンピオンかな?」
全く笑えない冗談に、おれは引きつった顔で応えた。検査の結果、運よく骨はそれほどずれていなかった。腕を固定し骨がくっつくまで、四~六週間の安静が必要と診断された。鎮痛剤をやまほどもらって、おれは附属病院を後にした。
このまま寮にもどって引きこもろうかと思ったが、おれの中にふつふつと何かがこみ上げてきた。今までに味わったことのない感情が、おれの脳を支配した。
病院前のバス停で待っていると、バスから瀬戸熊が降りて来た。
「遅くなってすまん。警察で事情聴取を受けていて……和馬、もう大丈夫なのか?」
「大丈夫とは言えないな。骨がくっつくまではそれほどかからないが、全治となると、いつまでかかるか分からないそうだ。入院や手術が必要ないだけましだがな」
「そうか……」
「お前こそ、大丈夫だったのか?襲われたとはいえ、あそこまでしなくても。相手の男は無事だったのか?」
「正当防衛はギリギリ認められたよ。相手の男、意識はあるんだがどうにも要領を得なくてな。どうやら脳に障害を持っているみたいで、警察の言うことにまともに反応しないんだ。自分の名前すら口にできない。もちろん、ぼくたちを襲った理由もまるで分からない」
「そうか……。そんなやつに、おれは骨を二本も折られたわけか」
「和馬、すまなかった」
「瀬戸熊が謝ることじゃない。まあいいさ。十中八九、松井誠司の失踪と関係があるだろうから、いずれ理由は分かるさ。それにしても……」
おれは瀬戸熊の身体をじっくりと見た。昔と比べて見違えるほど体格は逞しくなっているが――。
「どうやって、あの大男を吹き飛ばしたんだ?」
「え?」
「最初、車に引かれたのかと思ったよ。あんな音、聞いたことがない」
瀬戸熊は赤く腫れた右の拳をさすりながらいった。
「自分でもよく分からない。和馬が襲われて、極度の興奮状態になって……」
人間は自分の骨や筋肉を傷つけないために、脳が出力をセーブしているという話を聞いたことがある。非常事態によって、それが解除されたのだろうか。
「そうか……。でも、助かったよ」
おれが肩を叩くと、瀬戸熊はほっとしたような表情を見せた。
しばらくすると、バスがやって来た。おれたちは最後方の席に座った。少しでも動くと、骨折した腕の周りがじんじんと痛んだ。横に座った瀬戸熊が、携帯を操作しながらいった。
「そういえば、少し引っかかることがあるんだ、これを見てくれるか?」
携帯に映っていたのは、おれたちを襲った男の顔だった。
「よく見てくれ。見覚えがないか?」
「どうだろう……。見たことのない顔だと思うが」
「目と鼻の形なんだが……どことなく、松井誠司に似ていないか?」
言われてみれば、似ていなくもなかった。だが瀬戸熊渾身の右ストレートのせいで、男の顔は見るも無残に歪んでいた。
「こいつが松井だという可能性は……ないだろう。顔は似ていると思うが、身長や体重が違いすぎる。瀬戸熊も見ただろう?まるで本物の熊のようだった」
「それにそうだが……。もう一つおかしな点がある。男の服に、カメラが仕掛けられていたんだ」
「カメラ?」
「そう。男がおれたちを襲った様子を、どこかで見ていた奴がいるってことさ」
「…………」
「大男のあの様子だと、黒幕の名前は聞き出せそうもないが……」
真相に近づくにつれて、おれたちに何かが忍び寄っていた。だが、引き返すという選択肢はおれの中になかった。
「おれは明日、玲香に会いに行く。瀬戸熊も来るか?」
「……まだこの事件を追う気なのか?」
「もちろん」
「こんな目にあったばかりなのに」
「おれもそう思う。でも不思議なんだ」
「何が?」
「収まらないんだよ。どうしても真相を知りたいという衝動が」