表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/23

11

 目を覚ましたのは、朝の四時だった。幸か不幸か、早めに寝たおかげで、狂い切った生活リズムがリセットされたようだ。おれは寝ている三人を起こさないように、ひっそりと共用スペースに向かった。ミネラルウォーターをコップに注いでいると、入口の扉が開いた。現れたのは、小野瀬みなみだった。

 みなみはこちらにまだ気づいていなかった。おぼつかない足取りで、キッチンに近づいてきた。ぼさぼさの髪、派手なメイク。いつもの清楚で大人しい彼女からは、想像もできない姿だった。

 みなみは冷蔵庫を開けようとして、ようやくおれの存在に気づいた。目が合ってしばらくは、お互い口を開かなかった。おれは、何と声をかけてよいのか分からなかった。彼女からは、明らかにアルコールの匂いがした。

「……おはようございます」

 絞り出したのは、間の抜けた挨拶の言葉だった。

「……おはよう、猿川君」

 あきらかにそれと分かってはいたが、おれは念の為に確認した。

「もしかしてその……朝帰り?」

 みなみは手で顔を覆った。

「猿川君って、こんなに早起きだったっけ?」

「いや。リズムが狂いすぎて、一周回ったみたいで」

「そう……」

「水、飲むか?」

「うん、ありがと……」

 みなみは水を飲むと、シャワーだけ浴びてくると言って自分の部屋に向かった。二十分ほどして戻って来た彼女は、ノーメイクにスウェットという女子力ゼロの姿だった。どうやら、全てをさらけ出す覚悟ができたらしい。

 何となく流れで、朝ご飯を一緒に食べることになった。食堂はまだ開いていないので、冷蔵庫にあるもので適当に作った。パンと目玉焼きとベーコン。それにヨーグルトとバナナ。おれにとっては十分すぎるほど豪華な朝食だった。

「見られちゃったのならしょうがないね。そろそろ猫を被るのもしんどくなってたし、いい機会だと思うことにするわ」

 吹っ切れたみなみは、驚くほどサバサバしてフランクだった。

「さっきまで飲んでたのか?」

「そうだよ」

「まだ未成年……」

 以前にも、別の誰かに同じようなことを言った気がするな。

「わたしの家系は代々酒豪なの。全然平気よ」

 別にどうこう言うつもりはなかった。大学生はもう立派な大人だ。自分自身の判断で法を犯すのなら、勝手にどうぞ。それがおれの考えだった。

「それにしても、遅くまで飲んでたな」

「ストレスがすごく溜まってたの。全部嫌になっちゃって。これまでずっと頑張ってきた反動かも……」

「猫被って、みんなにいい顔したり?」

「それもそうだけど……。勉強のことが一番かな」

「勉強?みなみは順調だろ」

「全然。今の成績は、全体で見たら中の上ってところだし」

 おれからしてみれば、それを順調だと言うのだけれど。目指しているところの違いだろう。

「昨日の件……鷹野さん、だっけ」

「うん。鷹野玲香」

「彼女、すごくキレイだね」

「そう、だな……」

「昔からの知り合い?」

「一応そうなるかな。高一の時に、うちにホームステイしていたことがあって」

「すごい。憧れるな、そういうシチュエーション」

「別に何もなかったけどね。実は、瀬戸熊もそうなんだ。三人で、同じ屋根の下で生活してた」

「そうなんだ。だから瀬戸熊君とはあんなに仲が良いのか」

「おれだけかもしれないけど……兄妹みたいな風に思ってる」

「ふーん」

 みなみはパンをかじりながら、おれの方を見た。兄妹という言葉には、納得がいっていないらしい。読みの鋭い子だ。

「鷹野さんは准教授で、しかもエクレシアの一員なんだよね……凄いな」

「高一の時からすごかったよ」

「やっぱり生まれた時に、もう決まってるのかな?」

「……才能ってやつ?」

「その言葉、まじでムカつく」

 みなみは深いため息をついた。猫を被っていない、本音の言葉だった。

「わたし、小さい頃からずっとお母さんに言われてたの。あなたは特別だって。才能があるんだから、勉強しなきゃもったいないって。わたしはそれを、ずっと信じてた。小学校も中学校も高校も、ずっと一番だった。……でもそれは特別だからじゃなくて、他の人より勉強してたっていう、すごく単純な理由だった。だから田舎から出てきて、努力だけじゃとても敵わない人もいるって知って……。正直、納得がいかないの」

「……だからヤケ酒を飲んで、朝帰りか」

「バカだと思う?」

「ううん。思わないよ。意外だっただけ。大人しい優等生だって、ついさっきまで騙されてたから」

 みなみはゲラゲラと笑った。いたずらっぽいその笑顔は、以前よりもずっと魅力的だった。

「猫を被ってたのは、感情を悟られないようにするためだよ。気持ちを悟られて、いいことは少ないでしょ?」

「まあ、確かに」

「本当のわたしは、大人しくなんかない。とても嫉妬深いの。猿川君も考えたことはない?先天的な優位性が覆せないなら、今までの努力はどうなるのって。そうだと知っていたら、こんなに勉強ばかりしてこなかった」

 月並みな言葉が頭に浮かんだ。その努力は無駄にならない。君の礎になる。これからきっと良いことがある――。そんなのはどれも嘘っぱちだ。間違った努力は無駄になるし、何の役にも立たない。そしてこの先良いことがあるかなど、誰にも分からない。適切な言葉が見つからなかったおれは、しょうもない話でお茶を濁すことにした。

「じゃあもし髭がボーボーに生えた神様が、時を戻してくれるとしたら、みなみは何をするんだ?」

「……何で髭がボーボーなの?」

「神様はそういうもんだろ。ナメック星人のほうが良かった?」

「ナメック星人?」

「ディテールに引っかかるなよ。学生時代に時が戻るなら、何をするっていう話」

「うーん、そうだな……。やっぱり恋愛かな」

「なるほど。意外と月並みだね」

「しょうがないでしょ。これまでずっと、我慢してきたんだから」

 ずっと、か。そりゃそうだよな。倶利伽羅に入るには、勉強に集中する必要があるのだから。

「高校なんて、三人としか付き合ってないし」

「……え?」

「しかも家庭教師とか、近所の大学生とか、年上ばっかりだったの」

「へえぇぇ……」

「もしかして、ビッチだとか思ってる?」

「いやいや。そんなこと思ってないよ」

 いきなりのブッコみに、おれは動揺していた。ちゃっかり遊んでるなこいつ、と思っていた。三年間で三人なら、全然普通だと思うのだが。

「幻滅した?」

「……どうだろう」

「いいよ、本当のことを言って」

「……そうか。じゃあ正直に言うよ。意外だったけど、別に幻滅はしてないよ。というより、おれは今のみなみの方がいいかな。前のみなみは何かこう、壁を感じた。いい子だと思ってたけど……それだけだ。ありきたりでつまらない人より、予想できないくらいの方が楽しいよ」

 みなみはおれの返答を聞いて、少しだけ嬉しそうな顔をした。ノーメイクの彼女はいつもより地味で素朴な顔だったが、おれは好きだった。田舎育ちのおれには、馴染みのある顔だ。

「猿川君て、鷹野さんと仲が良かった?」

「……自分ではそう思ってる」

「だと思った。なんでか、分かる?」

「なんでと言われても」

「その理由はね、童貞だからだよ」

「……は?」

「猿川君、たぶん彼女はいたけど、Hはしたことないでしょ。だから、すごくちょうど良かったんだと思う。変にオドオドしてないし、かといってガツガツしてないし。猿川君は、異性として見られてなかったんだよ。だから同じ屋根の下にいても、普通に接してくれたの」

 ――おいおいおい。またぶっこんできたぞこいつ。それは暴論だろ。どうして童貞が相手だと、女性は緊張しないと決めつけるのだ。そもそも、おれが童貞であると判断した根拠は何なのか。

「そんなの、すぐ分かるよ。もしかして気付いてない?すごく童貞っぽいよ、猿川君」

 すべてをさらけ出したみなみは、なかなかの毒舌家だった――。核心をクリティカルに突かれたおれは、デザートのバナナも食べずに、しばらく机に突っ伏した。

「ごめん。ちょっと言い過ぎた?」

「いいよ……確かにおれは童貞ですから」

「……かわいい」

 みなみがポツリと呟いた。

「ん?」

「実はわたし、中学高校と六年間、ずっと好きな人がいたんだけど」

「……そうなんだ」

「うん、でも結局、何も言えなかった。その人だけは、特別だったの」

「六年間も好きだったんだから、よっぽど良い人なんだろうね」

「そうなの」

「モデルみたいな人?瀬戸熊みたいに」

「ううん。背は低い方」

「村田みたいに、面白いやつとか?」

「うーん。別に普通かな」

「蜂さんみたいに、人望があるとか?」

「全然。あんまり目立たない人」

「……じゃあ、そいつのどこに惚れたのよ」

「顔」

 みなみはおれの目をまっすぐ見て答えた。

「……正直だな。まあでも確かに、顔がタイプじゃないと恋愛は始まらないよな」

「そうだよ。男はまず顔。そのあとに性格」

 その考えには賛成できた。おれも女性を見るときは、どうしたって見た目から入ってしまう。

「すごくかわいい顔だったの、彼」

「うらやましいやつだな。みなみに好かれるなんて」

「猿川君に似てるの」

「……え?」

「すごく似てる」

「……おれに?」

「うん。すごく」

「へえぇ……」

「だから猿川君と最初に会った時、びっくりした」

「…………」

「わたし、猿顔が大好きなの」

 みなみは身体を寄せると、おれのメガネを外した。シャンプーの匂いと、みなみの甘い香りが混ざり、おれの鼻をくすぐった。おれはすぐに、みなみの手からメガネを取り上げた。

「おい。酔いすぎだよ」

「……そうかもね」

 猫の皮をはいでみると、そこにはライオンがいた。おれはここでもシマウマだった。しかも目の前にいるメスライオンは、どうやら狩りが上手いようだ。おれは合わせた視線を外すこともできず、ごくりと喉を鳴らした。みなみは確かにかわいい。だがとても、おれの手に負えるような相手ではなかった。

 みなみがゆっくりと顔を近づいてきた。金縛りにあったように、おれはぴくりとも動くことができなかった。そして、微かに唇が触れた。ここは寮の共用スペースだ。だがそんなことも忘れてしまうくらい、おれは気持ちが高ぶっていた。

「――あれ、二人で何してんの?」

 上下スウェットの恭子さんが、二階から降りてきた。おれは戸惑いの表情を浮かべたまま、みなみの方を見た。彼女の眉間には皺がよっていた。

「あれ?もしかして、まずいタイミングだった?」

 恭子さんは面倒見のいい先輩だったが、間が悪い人でもあった。

「……いや、そんなことないですよ。おれはもう食べ終わったんで、戻りますね」

 おれはとっさに、その場を離れるという選択をした。とりあえず今は、時間が必要だと思った。冷静になって、心を整える時間が。

 背後に感じるメスライオンの視線を振り切り、おれは部屋へと戻っていった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ