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「和馬、悪かった。ぼくがはやく話をしておけば……」
「……何か事情があるみたいだな」
おれたちは典獄寮の部屋に戻っていた。瀬戸熊が珍しく神妙な顔で、話をはじめた。
「事件が起こったのは、去年の冬のことだ。玲香はプログラマーとして、新しいSNSサービスのプロジェクトに関わっていた。その日はメディアに情報が解禁される日で、玲香は倶利伽羅を離れて東京のホテルに宿泊したんだ」
「高校生のうちに、そんな大きな仕事に携わっていたのか」
「よく考えればおかしな話だよ。いくら優秀とはいえ、未成年を同行させるなんて。……そこで事件は起きた。プロジェクトのメディア関係の担当者が、どうやら玲香に気が合ったようなんだ。それまでにもいろいろとちょっかいをかけられていたんだけど」
「……一体何が起きたんだ?」
「詳細は分からない。でも二人の間に、何かよからぬことが起こったのは間違いない。それで……結果として、玲香は逮捕されたんだ」
「逮捕?悪いのは相手じゃないのか」
「先に手を出したのは相手だろう。でも玲香の対応もまずかった。その男は、全治半年の重傷を負ったんだ。腕や肋骨が折れ、内臓も破裂していたらしい。警察は玲香の行動を過剰防衛だと判断した。だから、一時的に留置所に拘留された」
あのおとなしい玲香が暴力?あまりにも真逆なイメージで、おれは想像ができなかった。ましてや大の男を瀕死まで追い込むなんて、あの細い腕でそんなことが可能なのだろうか。自分の身に危険が生じたとき、リミッターが解除されてすさまじい力を発揮するとは聞いたことがあるが、そういった類の珍しいケースなのだろうか。
――和馬はない?全てを壊したくなるような衝動に駆られることが。
おれは玲香の言葉を思い出した。まさかあんな妄想を、本当に実行してしまったのだろうか。
「それを救ったのが、エクレシアの連中ってわけ。事件は揉み消されて、表面的には何もなかったことになった。警察や司法の場は、エクレシアの専門分野だから」
「相手の男はどうなったんだ?」
「入院先の病院で、死んだよ」
「なに……死んだ?」
「玲香の暴行が原因じゃない。自殺だった。順調に回復していた矢先、屋上から飛び降りたんだ。遺書は残っていなかったから、理由は闇の中さ」
おれが受験勉強をしている最中に、そんなことが――。一から十まで、おかしな事件だった。
「和馬の手を振り払ったのは……反射的な行動だよ。事件のショックで、まだ男性に対して強い警戒心があるんだと思う。何度か顔を合わせたけど、いつも取り巻きは女性で固められていたから」
「……だいたい事情は分かった。それで、玲香を救ったエクレシアってのは、一体全体何なんだ?」
「それについては、ぼくが説明するよ」
蜂さんが、身を乗り出して手をあげた。
蜂さんはどこからかホワイトボードを持ってきて、左上に『シークレットクラブ、ファイナルクラブ』と大きく書いた。
「この言葉を、聞いたことはあるかい?」
「はい。あります」
村田が手をあげた。
「確か、大学に存在する秘密結社ですよね」
「その通り。よく知っていたね」
「昔見た映画の題材だったんで。それは確かスカルアンドボーンズとかいう名前だったような」
「それも正解だ。スカルアンドボーンズ、別名ブラザーフッドデスは、イェール大学に実在する秘密結社の名称だ。会員には歴代の大統領やCIA、国防総省、国務省の長官などが名を連ねる、世界で最も有名なクラブの一つだね」
「じゃあエクレシアっていうのは、秘密結社の名前なんですか?」
おれの質問に、蜂さんは大きく頷いた。
「そう。歴史と伝統ある大学には、シークレットクラブやファイナルクラブといった秘密結社が存在する。我々がいる倶利伽羅にも、いくつかのクラブが存在する。そのうちの一つが、エクレシアってわけ」
「なるほど……。それで、そのクラブっていうのは何を目的としているんですか?」
「基本的には会員同士が協力し合って、経済的、社会的に成功することを目的としているけれど――詳細は分からない。そもそもクラブはとても排他的な存在なんだ。どれくらい会員がいるのか。入会条件は。真の目的は。そもそも本当に存在するのか……。全てが謎に包まれて、名称だけが一人歩きしていることもある」
「そうなんですか」
「ただエクレシアに関しては、だいたいのことは把握しているよ。倶利伽羅で、最も目立っているクラブだし……まあ少しばかり因縁があってね」
たしかにとおれは思った。あの集団行動は、とても秘密結社とは呼べない振る舞いだ。
「エクレシアはイギリスにあるコーデリック大学に起源を持つクラブだ。コーデリック大と倶利伽羅は親交が深く、留学制度も充実しているね。先ほど瀬戸熊くんが説明してくれたように、司法や警察、あとは政治の世界とも太いパイプがあると言われている。会員数はおおよそ四十人というところかな。各年代、十名ほど取ると言われている。どのクラブもそうだが、入会には厳しい条件をクリアする必要がある。エクレシアはとくに、初等部の人間を優遇する傾向があるね。彼らは絶対的に裕福だし、家柄も優れているから、自分達の得意分野と相性がいいんだろう」
「じゃあ玲香がエクレシアに入ったのは、珍しいケースなんですか」
「そうだと言えるね。彼女は恐らく、金銭面でも家柄でもなく、その能力があまりに優れているから入会が認められた、稀有な例だろう」
「おれはもう一度、玲香と話がしたいんですが……」
「難しいだろうね。目立ちたがり屋なくせに、最も排他的なクラブでもあるからね、エクレシアは。会員以外の接触は、まず不可能だよ。今日みたいに食堂に来ることだって、とても珍しいことなんだ。いつもは白川宿舎にある、会員制のレストランを利用しているはずだ」
「それにしても詳しいですね」
村田が率直な疑問を口にした。おれもそれは気になっていた。
「さっきこれ見よがしに挨拶に来た女がいただろう?」
「ああ。あの背の高い女性ですか」
「あいつは百合沢っていって、エクレシアの幹部だよ。まあなんだ……。実は昔、彼女と付き合っていた時期があってね」
「まじすか?あんなお嬢様と、蜂さんが?」
村田がナチュラルに失礼なことを口走った。おれはすぐさまつっこんだ。
「ばか。そんな言い方はないだろ」
「……すいません。でもすごいですね。話も趣味もまるで合わなさそうだ」
「確かに、実際そうだったよ。でもそれなりに上手くいってたんだ……途中までは。なぜだか分からないけれど、彼女が誤解をしてね。ぼくが浮気をしたと。それで天下の大悪党だと断罪された。別れたあとしばらく、随分と陰湿な嫌がらせを受けたものだよ。それからというもの、ぼくはエクレシアの連中を見ると、鳥肌が立つようになったのさ」
「……本当に、誤解だったんですか?」
村田のつっこみに、蜂さんは答えようとしなかった。
シークレットクラブ――か。進級することさえ難しいおれとは、随分な差がついてしまったものだ。まあもともと、そんなことは分かり切ったことではあったが。おれは玲香ともう一度話がしたかった。突然話しかけたこと、声を荒げたこと、事情も知らずにいきなり肩をつかんだこと。全てを謝りたかった。モヤモヤとしたわだかまりが残ったが、どうすることもできなかった。おれにできることは、早めにベッドに潜り込み、気持ちをリセットすることだった。肉体的にも精神的にも疲弊していたおれの脳は、一瞬でシャットダウンされた。
遠い存在になってしまった玲香と会う機会は、もうないかとも思われたが――。彼女との再会は、意外なほど早くやってくるのだった。