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 倶利伽羅に来て、二か月近くが過ぎた。おれはだんだんと自分の立場が分かってきた。そしてこのままではどうなるのかも、感づいていた。何かを変えなければいけない。それだけは確かだった。

 授業は面白い。それも、予想していたよりもはるかに。もちろんつまらないものもあるが、そんなものは切り捨てればいいだけだった。倶利伽羅においては、選択肢は無限にあった。困ったのは、面白くてもおれがそれを吸収できるとは限らないことだ。倶利伽羅の授業についていくには、おれのスペックは二世代前のパソコンのように貧弱だった。半期ごとのふるいを突破するのは難しいことが、目に見えていた。


 そこはアフリカの大自然だった。全てが平等で、分かりやすく、クリアな世界だ。頼れるものは、おのれの身体一つのみだった。

 王者であるライオンが、群れをなして逃げるシマウマを追っている。群れの先頭は、賢くてしたたかなエリートだ。彼らは常にライオンの動向を注視し、狩られない術を熟知している。足も速く、近づかれても逃げきるだけの能力を持っている。後方にいるのは、のろまで愚かな落ちこぼれだ。自分が危険な場所にいることも分かってない。群れの先頭にもいけない。なにせ彼らは、足がおそい。そしてその足を鍛える術も知らない。いつまでたっても、群れの最後尾というポジションは変わらない。

 ライオンの狩りの成功率は高くない。普通にやれば、シマウマに分がある勝負なのだ。それでも狩られるシマウマは存在する。そいつらは、普通ではないシマウマだ。大自然の掟についていけない、愚鈍なシマウマだ――。

 ライオンの前肢がおれの首の骨をとらえたその時、目が覚めた。身体にはたっぷりと寝汗がついていた。不愉快極まりない目覚めだった。

 時刻は昼の十二時を回っていた。生活サイクルは狂い、おれは曜日の感覚も忘れていた。共用スペースに行くと、瀬戸熊と蜂さんと村田がいた。寮生の女子二人と話をしていた。

「おはようさるっち。今日も遅いね」

 おれを変なあだ名で呼ぶこの女性は、理学部三年の崎山恭子さん。

「猿川くん、顔色悪いよ?大丈夫?」

 大人しそうな小柄の女性は、文学部一年の小野瀬みなみだ。

「ちょうどいい。これからみんなでランチに行くんだ。猿川も来るだろ?」

 食欲などまるでなかったが、蜂さんのあまりに爽やかな笑顔に負けたおれは、みんなの後ろにくっついて典獄寮を出た。

 おれたちは自動運転のバスに乗り、第二食堂に向かった。倶利伽羅には十三の食堂があり、そのどれもが巨大だった。学部生、大学院生、教員、そして大学関係者。あわせて四万人近い人々の胃袋を満たすのだから、それも当然だった。大学の外には飲食店があるのだが、おれたちは学食を好んだ。量も多いし、栄養も満点。そしてとにかく、値段が安かった。第二食堂は二番目というだけあって、レンガ造りの歴史のある食堂だった。とはいっても典獄寮とは違い、良い意味で歴史を積み重ねていた。天井からぶら下がるシャンデリア、太陽の光が射しこむ高い吹き抜け。古き良きヨーロッパを思わせるような、美しい建物だった。

「倶利伽羅の生活にもようやく慣れてきただろう。みんな、調子はどうだ?」

 蜂さんが、チンジャオロースを頬張りながらきいた。

「正直しんどいっす。大学に入ってからも、こんなに勉強することになるとは。受験勉強でひいひい言ってたのが懐かしいですよ」

 村田はボロネーゼをきれいにフォークに巻いた。こんなところも器用なやつだった。

「わたしも……。想像よりもずっと厳しいですけど、充実してます。友達もできたし、先輩も優しいし。学生生活はとっても楽しいです」

 優等生らしく、みなみは模範的な回答をした。彼女はアボカドとエビのサラダを注文していた。そんなに少なくて大丈夫なのかとおれは思った。

「わたしも最初は大変だったな。授業のレベルもそうだけど、とにかく量をこなさなきゃならないから。まあ慣れちゃえば、どうってことないんだけど」

 恭子さんはサバの味噌煮を丁寧に箸でほぐしていた。色気と気品が身体から漏れていた。二つも年が違うだけで、こうも大人になれるものなのか。

「ふう……」

 おれがため息をつくと、全員の視線がこちらに向いた。おれがどんな状況にあるのか、恐らくここにいる全員が認識していた。優しい彼らは何も言わなかった。

 意外といったら失礼かもしれないが、典獄寮の寮生はみな基本的に優秀だった。村田はしんどいと言っているが、おれに比べれば十分すぎるほど単位は取れていた。みなみは文学部で上位に位置しているらしい。蜂さんと恭子さんも順調なペースで三年まで進学している。つまりおれだけが、蚊帳の外にいた。

「それ、いらないなら貰ってもいいか?」

 前言撤回。一人だけ例外がいた。隣に座っている瀬戸熊だ。五百グラムのハンバーグを頼んでおきながら、おれの塩ラーメンをかっさらっていったこの男は、例外中の例外だ。おれと同い年でありながら、すでに学生ではないのだから。典獄寮――いや倶利伽羅の中でも、トップオブトップと呼ぶにふさわしい人材だった。

「大丈夫だよ、猿川君。半期までまだ時間はあるし、これから巻き返せばいいんだよ」

 みなみの優しい言葉も、今はただむなしいだけだった。巻き返しという言葉が口にできるのは、もともとの馬力があるやつだけだ。おれのエンジンは、軽自動車どころか草刈り機に使うような排気量しかなかった。前進したいのはやまやまだが、圧倒的に力不足なのだ。

 瀬戸熊がおれの塩ラーメンを食べ終わるころ、遠くから大勢の足音が聞こえた。振り返って見ると、そこには二十人ほどの集団がいた。みな揃えたように白を基調とした服を着ている。向かいに座っている蜂さんが、ちっと舌打ちをした。

「ついてないな。エクレシアの連中と鉢合わせるとは」


 蜂さんがエクレシアといった白の集団は、おれたちのすぐ近くのテーブルに陣取った。そこだけ空気が違うような、異様な雰囲気を醸し出していた。第二食堂はカフェテリア方式なのだが、なぜかエクレシアの面々には給仕が付いていた。あからさまな特別待遇を見て、蜂さんはまた舌打ちをした。

「迷惑をかけるなら、来るんじゃねえよ」

 悪態をつく蜂さんを見るのは初めてだったので、おれは驚いた。

 集団の中の一人が席を立ち、こちらに近づいて来た。背の高い女性だった。美しく長い黒髪に、白いシャツが良く似合っていた。理知的で神経質そうな顔をした女性は、おれたちに笑顔を見せたあと、蜂さんに声をかけた。

「あら。お久しぶりね、蜂須賀さん」

「……どうも」

「もう食事はお済みで?」

「そうだよ。もう帰るところだ」

「それは残念。楽しくお喋りができると思ったのに」

「なんだと?」

 蜂さんはあからさまに不機嫌だった。おれが二人の間に入って止めようとすると、恭子さんが先に立ち上がった。

「どうしたの?瀬戸熊君」

 険悪なムードの中、みなみの言葉が聞こえたおれは、瀬戸熊の方を向いた。瀬戸熊は白い集団の方を見ていた。その視線の先には、一人の女性がいた。鮮やかな赤い短髪。彫刻のように整った顔。白いジャケットとパンツが細い身体にぴったりと張り付いていた。鷹野玲香は、エクレシアの一員として、集団の中央に座っていた。


 おれはとっさに席を立った。待てという瀬戸熊の声が聞こえたが、足を止めることはなかった。周りの白い視線を無視して、おれは玲香の後ろに立った。

「久しぶりだな」

「和馬……」

 この時、おれは気づくべきだった。玲香の戸惑っている様子に。

「メールとか結構送ってたんだけど。玲香も伯父さんに止められてたのか?」

「ええ……」

 聞きなれた声だったが、別人のような気がした。おれは今になって、寝起き丸出しのぼさぼさの髪と、二日洗濯していないジャージ姿が恥ずかしくなった。こんなことになるなら、ちゃんと準備をしておくべきだった。ただそれでも、後には引けなかった。

「瀬戸熊から聞いたよ。もう、准教授なんだってな」

「そうね」

「すごいよ。倶利伽羅の准教授なんて」

「……そうね」

 こんなに近い距離にいるのに、おれと玲香の間には二年間という距離があった。おれはそれを、全く考慮することができなかった。

「もしよかったら、明日にでも瀬戸熊と一緒に――」

 言い終わる前に、隣に座っていた取り巻きの女が、おれと玲香の間に割って入った。女は大柄で、百七十センチのおれよりもずっと身長が高かった。

「何の用だ?」

「……何って言われても」

 女はおれの顔にスマートフォンのカメラを向けた。アプリか何かで身元を確認しているようだった。どんな情報が載っていたのかは分からないが、女は画面を確認したあと、おれを一瞥して吐き捨てた。

「玲香さんの手を煩わすな。質問はBotにしろ」

 玲香のよそよそしい応対。そして女の見下すような態度。おれは冷静さを失って、最悪の行動を取った。とっさに玲香の肩を掴んでしまったのだ。

「おい玲香。言ってやれ。おれとお前は――」

「やめて!」

 大声をあげて、玲香はおれの手を乱暴に振り払った。まるで痴漢にでもあったかのような反応だった。はじかれたおれの手は、そのまま自分のメガネにあたった。安物のメガネが、食堂の床を転がった。心臓がぎゅっと収縮して、おれの身体は硬直した。あまりのショックで、その場から動けなくなった。

「何をするんだ!」

「離れろ!」

 周りに座っていた他の取り巻きの女性達に、おれは囲まれた。何だこいつは。お前みたいなやつが近づくな。冷たい視線と罵声が突き刺さった。

 そんな最悪の状況を救ってくれたのは、頼もしい友達と先輩だった。

「和馬、もういいだろ。寮に戻ろう」

 肩をぽんと叩かれて、硬直が解けた。瀬戸熊がやさしく、おれの隣でほほ笑んでいた。精一杯の作り笑顔で――。蜂さんと村田が間に入り、場を落ち着かせてくれた。おれは深々と頭を下げ、メガネを拾った。久しぶりの再会は、気まずさだけを残して終わった。食堂を去る時、おれは何度も玲香の方を振り返ろうとしたが、結局最後まで下を向いたままだった。


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