第16話 現在 〜私と知らなかった真実〜
——椿
飛行機の窓から、空港が見えてきた。
数年ぶりの日本だ。
椿は、あれから目まぐるしい変化の人生を歩んだ。
変化のスタートといえば、あのシュークリームを無下にしてきた子を見返してやろうとでも思ったのだろう。まったく大人気ない。が、今は感謝している。あの悩みがなければ、今の椿はない。
今でも鮮明に思い出す、姉の桜と重なった、同じような顔をした、和水の憎たらしい笑顔。あの顔を、和水に二度とさせたくないと、あの顔で見られたくないと思えたこと。
そして、たくさんの感謝をしなければならないのは悠哉と亮太だ。あのカフェでの一件。たくさんの妖精を携えていた素敵な二人。
亮太さんはカフェに絵を飾ってくれて、悠哉は椿の思いもしなかった、海外という選択肢を与えてくれた。
彼らのおかげで、海外に行く決心がついた。
元々、学校も会社も、自分に合う環境ではなかった。姉の束縛、親の離婚という柵から一度解放されたかったのかもしれない。
思い切って、三十も手前で、椿は海外に挑戦することを決めた。
フランスに留学も兼ねて赴き、そのままフランスの地で仕事に就いた。そうして、フランスでフィアンセも見つけ、家族へ報告の為戻ってきたのだ。
そして、感謝すべき人達に、直接感謝の意を伝えるべく。
帰国して、二日は気持ちの整理をつけるためホテルに滞在していた。フィアンセには、椿の心の余裕が出来次第、こちらに呼んで挨拶してもらうことになっている。
海外に行ってから、椿はパタリと妖精が見えなくなった。うじうじした性格もだいぶ変わったのが、自分でもわかる。その嬉しさもあり、海外に長く居たのかもしれない。
見えなくなってから、改めて妖精の存在を考える。あれは、自分の憧れからくる、自身の無さが具現化していたのではないか、と。
そして帰国が迫るにつれ、日本に戻ったらまた見えるのではないか。家族に会ったら見えるのではないかと心配で、少しずつ慣らすために、帰国後すぐに家族に会わなかった。
今、椿は待ち合わせのカフェに来ていた。亮太のカフェではなく、一般的な街のチェーン店だ。
日本に戻って二日ほどしてから、桜に帰国したことを連絡すると、今日の昼過ぎに和水が迎えに来てくれるという。
五年以上経った時並町は、だいぶ様変わりしていた。昔は百貨店もなかったのに、だいぶ都会感が増している。
「隣、いいですか?」
右から声がして顔をあげると、にっこりとほほ笑む、綺麗な顔をした青年が立っていた。どこかで見覚えがある。
椿は長いソファ席に座っていた。小さなテーブルがいくつか並び、向かいには椅子がテーブルに合わせて並んでいる。
青年は、その隣に座るためにわざわざ声をかけてきた。混んでいれば気にはしないが、周りには空いているテーブルがいくつもある。
ナンパだろうか。まさか、こんなおばさん流石に相手にしないか。
そんなことを考えるほど、椿は海外で自信をつけた。行くまで、自信などという言葉は知らなかったほどの椿が、変われたのは環境の違いだろう。
「どうぞ」
椿は隣のテーブルに手を出して誘導した。
青年は会釈をすると、赤の他人とは思えない距離に座ってきた。ソファー席の、ほぼ肩が当たる距離。テーブルとテーブルの間だ。距離感のおかしい人。
そんなことを頭の中でごろごろと考えていると、隣の青年はその距離のまま腕を回して椿の肩を抱く。
椿は驚きのあまり変な声を出してしまった。
周りの視線もざわりとこちらに向いた。
青年はくすっと耳元で笑う。
「椿さん、こんな綺麗な人だったんだね。俺気付かなかった」
「……は?」
椿は顔の近い青年をよく見た。
柔らかそうな髪。誰でも振り返ってしまいそうな目鼻立ち。その笑みは、昔の嫌味な笑みではなかった。そして、昨日百貨店でぶつかってしまった青年だ。だから見覚えがあったのだ。
「和水くん?」
青年は歯を見せて笑った。
「おかえりなさい、椿さん」
こんな素敵な青年になっているなんて。桜の血は恐ろしい。そして和水を見ていると彷彿とさせるのが、亮太だ。和水の父親である、将より似ていると思ってしまう。まさか、あの椿と桜の喧嘩の一件で間違いがあったわけではあるまい。あれから何年も経ってから、桜と将は結婚した。その時既に、お腹には和水がいたらしいが。血は繋がっているのだから、似るのだろう。なんという父方と母方の血の融合。
「やっぱり和水くんだったのね。昨日、百貨店にいたでしょ?」
和水はぱちくりと目を瞬かせた。そして、ああと声を上げる。
「あの、名前聞こうとしてきたの椿さんだったの? 逆ナンかと思った」
そう。なんだかこの顔に見覚えがあって、ぶつかった際に思わず名前を聞いてしまったのだ。
「一瞬だったから、きっと子供の頃の見覚えがふっと出てきて」
和水は照れくさそうにはにかんだ。こういった顔は、まだあどけない十代に見える。
「それって小学生とかの話でしょ。やめてよ、俺だいぶいい男に成長したと思うんだけど」
「うん、凄いかっこよくなった」
素直な感想だった。
小学生の頃の人形のような可愛らしさから、男性の魅力のある青年に成長している。
はは、と和水は笑った。
「素直に褒められると嬉しいね」
と、和水は突然椿の頬にキスをした。
驚く椿の顔を見て、和水はにやりと笑う。
「フランスじゃ日常でしょ。それとも、口の方が良かった?」
本当に、血が怖い。
椿はくすりと笑う。
「こんないい男にされるなら、口でも良かったかもね」
和水は嬉しそうに笑った。
「なんか、いい女になったね、椿さん」
あのシュークリームの少年から、こんな褒め言葉をもらえるなんて。
「普通、婚約者がいる女にそんなことしちゃダメなのよ」
椿が軽く叱るように言うと、和水は悔しそうに首をかいた。
「婚約者ができる前に手出しておけば良かった」
君が手を出そうと思う年齢の時には既に海外に居たわけだが。
和水はソファーから立ち上がり、みんなへのお土産の袋をさり気なく掴むと、椿の手を取った。
「さ、椿さんの大好きな亮太さんが車で待ってるよ」
亮太の名前を人の口から久々に聞いて、まだ心臓が跳ねることに椿は呆れた。もう、条件反射のようなものだ。幼い頃の初恋なのだから、仕様がない。
また、桜は亮太がいることを教えてくれなかった。和水が迎えに行くとだけ聞いていたのに。
和水についていくと、駅前に路駐してある車がある。その車の脇で車に寄りかかる、すらりとした芸能人のような男。道行く人はその男性を一目見て囁く。何かの撮影なのか、どこの芸能人なのか。
ただの義妹を迎えに来ただけのカフェのオーナーは、椿と和水を見つけると、懐かしいふわりとした笑顔を見せた。
数年経っても変わらない。むしろ若くして、おかしい程の色気があった亮太は、歳を重ねて相応の、大人の色気のある男性となっていた。
この、美しい顔の高校生と、色気のある大人にサンドイッチされる日が来るとは、椿は夢見心地のような気分だった。
「妖精ちゃん! なんだか見違えたね」
と、手を大きく広げて待たれる。
これは、胸に飛び込んでこいと言われているのか。椿は流石に飛び込めずにあははと笑って誤魔化す。
すると亮太は少しむっとした顔をして、自ら椿を抱きしめに来た。
「おかえり、妖精ちゃん」
高校生の時とは、違う香水の香り。
「ただいま、です」
亮太には、伝えておこう。
「私、妖精見えなくなりました」
頭一つ分高さの違う亮太の顔を見上げて、椿は報告する。
亮太は、はたと椿を見つめると、逆光でもわかる、美しく柔らかい微笑みを見せた。
「良かったって思う? 見えなくなって」
亮太の問いに椿はしっかりと頷く。
「なら、今日からは椿ちゃんって呼ぶね」
椿は、嬉しさと改めて聞く亮太の口から出る自分の名前に恥ずかしくなる。
ぎこちない挨拶に、後ろの和水はくすくす笑っている。
「亮太さん、人集りできる前に早く車出して」
椿が助手席に、和水が後部座席に乗り込むと、亮太は車を発進させた。
「亮太さん、俺が迎えに行く前にカフェ寄ったらついてきたんだよ」
後ろから身を乗り出すようにして、和水が言う。
「和水、俺に車出して欲しいからカフェ寄ったでしょ」
亮太の言葉に、和水は苦笑いを見せた。
「バレてたか」
「でも、椿ちゃん迎えに行くって聞いたから、慌てて準備したんだよ」
そういう亮太の髪はいつものように無造作ヘアーではあるが、それがまた魅力でもある。
亮太が、椿のために車を出してくれたことさえも嬉しい。
「亮太さん、お母さんから聞いた? 椿さん婚約したんだって」
和水の言葉に、亮太はえっと驚きの声をあげた。
赤信号に、車が急停止する。
「ちょっと亮太さん、椿さん届ける前に事故らないでよ」
「ご、ごめん、びっくりしちゃった」
亮太は青信号になると、車を発信させた。
隣の椿は、まだ心臓が高鳴っていた。
亮太が、自分の婚約について驚いてくれたのだ。
「妖精ちゃ……椿ちゃん、婚約したの?」
改めて、本人に確認をとってくる亮太。
「は、はい。向こうの人と」
椿は頷くと、亮太はちらりとこちらを見てきた。
その瞳が何を物語りたいのか、椿には解釈することができない。
「そっかー、おめでとう」
微笑んだ亮太の目は、進行方向をずっと見ていた。
「フランスどうだった?」
和水が訊いてくる。
「フランスに行けて、正解だったと思う」
「いい女になったもんねえ、椿さん」
椿が答えると、和水は後ろから身を乗り出して、椿の伸びた髪に触れてきた。
びくりと肩を震わせると、亮太さんが前を見たまま和水の手をパシリと叩く。
和水は渋々元の位置に戻った。
「ヨーロッパいいねえ。美術館とか回りたいなあ」
亮太が言った。
「亮太さんってどっか海外行ったことあるの?」
ミラー越しには、和水が携帯をいじりながら応える。
「アメリカ行ったことあるよ」
「旅行?」
「カーペンターズ追いかけて、聖地巡礼」
和水はへえと声をあげた。
「亮太さんもカーペンターズ好きだったの」
「お、和水も好き? 高校生で渋いね」
赤信号になり、亮太は椿の前にあるグローブボックスに身を乗り出す。
椿は慌てて拳銃を突きつけられたように両手を上げた。
「ごめんごめん」
にこやかに笑うと、亮太は身体を元に戻す。その手には、CDが握られている。
信号が青になった。
「あ、ごめん椿ちゃん、これ流せる?」
亮太から渡されたのはカーペンターズのCDだ。
車のカーナビの下にあるCD入れに、渡されたディスクを入れる。
懐かしい。
柔らかい歌声が流れてきた。
こんな気持ちに なれるなんて
私の人生で 一番の奇跡
雲一つない青空に 太陽が眩しい
これが夢だって 驚かない
この世界で望む すべての事が
私にだけ 叶えられた
理由は はっきりしてる
あなたが ここにいてくれるから
私が知る中で あなたは一番 天に近い存在
椿は数年前のカフェを思い出した。カフェで、椿の自己肯定を最大限にまで上げ、海外に送り出してくれた二人。あの時も、この曲が流れていた気がする。
あの絵、まだ飾られているのだろうか。
「あの時、本当にありがとうございます」
「あの時?」
「絵を、カフェに飾ってくれた時です。あのおかげで、私フランスにいく決心ついたんです」
「あそこで決心つけさせちゃったのか」
亮太はふうとため息をついた。
「嬉しかったです」
椿の言葉に、亮太はふふと笑った。
「あの絵、お客さんに人気なんだよ。誰が描いたんですかって」
それは、亮太さんが描いたのではという淡い期待から来る女性客の言葉なのではないか。という言葉は飲み込んだが、ミラー越しの和水の呆れ顔のため息が、その事実を物語っている。
「悠哉くんも、元気ですか? 悠哉くんにもお礼言いたくて」
椿の言葉に、初めて亮太も和水も返事を返さなかった。急に、車の中の空気がどんよりと重くなった気がする。
何か、悠哉に触れては行けないことでもあっただろうか。
「悠哉には会えないよ」
和水が、吐き捨てるように言った。
「どうして……?」
純粋な椿の疑問に、ミラーの向こうの和水は、顔を顰めた。
そうして、椿は車の中で、悠哉のことを聞いた。
「そんな……」
椿は、あの元気だった、中学生の割に落ち着いていた少年の姿を思い返す。彼のために、ココアをお土産に買ってきたのだ。
話を聞いて、椿は返す言葉が見つからなかった。何を言っても、薄っぺらい言葉しか思い浮かばない。
「義姉さんの家に行く前に、行こうか?」
亮太の言葉に、椿は一瞬悩んだが、頷いた。彼に、お返ししなければいけないことはたくさんある。
「お願いします」
亮太の提案で、ある場所へ向かってもらうことになった。
悠哉に、感謝を伝えに、ココアを届けに行かなければ。