始まりのゼロ(上)
妹が殺された。
たった一人しかいない家族の、妹が。
華奢な体を押しつぶしている瓦礫を必死に退けようとする。
地面に広がる血潮を一刻も早く止めなければならないのに、認めたくない現実は到底持ち切れるものじゃなかった。
こんなことなら少しは身体を動かしていればと口にしたくなる。こんなことなら、もっと早く助けに来てやれればと願いたくもなる。
「十束お兄ちゃん……」
ごうごうと辺りの炎が出す陳腐な音に紛れ込むように微かに、雫が声を漏らした。
両の蒼い瞳はぼんやりとこちらを見据えている。
その筈なのにその焦点は確実にブレ始めており、ハイライトを消したかのように色を無くしてきている。
「喋るな、今助けてやる! 」
一声上げただけなのに、口元から筋を描くように赤の液体が滴った。
一刻の猶予なんて無い。ここで助けられなければ俺はきっと自分で自分を許せなくなる。
無い力を振り絞れ、火事場の馬鹿力はこんな時に湧き出る物だろうが。
徐々に熱さを増していく塊を動かそうとする。
だが俺のそんな意志に反して作業は一向に進まない。どころか、次第にその重みはゆっくりと増してきている。
「いいの」
小さく動かされた唇からは、最も聞きたくない言葉を吐き出された。
ふざけるな、その言葉を継げようとした所に、雫は自分の状態を噛みしめるように言葉を続けた。
「助からないの、もう分かってるから」
普段聞いたことのないくらいに淡々と、そして悲しさを滲ませて事実を語った。
零れ落ちている命は既に、何も分からない俺ですら分かるくらいに流れ出ている。
ただでさえ色彩の薄い肌は死人のように青くなっており、魂が少しずつ離れているかのように思えた。
そしてそう言われた事に対して俺は、まだ助かるのだとも声を掛ける事も返す事も出来なかった。
頭では分かっていても、理解したくはなかった。
雫は、死ぬのだと。
そんな俺の表情を見て、雫はほんのり笑う。
「手、握って欲しい……な。何だか、寒くて」
「あ、ああ! 握ってやる、いくらでも握ってやる!! 」
ようやく一つ目の瓦礫をずらした俺は、急いで雫の手のひらを包み込むように両手で握る。
周りはこんなにも熱いというのに、雫の手は冷たかった。
静かにしてやりたいのに爛々と音を鳴らす世界に辟易する。
血に濡れたかのように真っ赤な夜闇は時代の終わりを告げているかのようだった。
「あったかい、なぁ……。小さい頃、よくおてて握って貰ってたっけ……」
ぽたり、と地面に雫の涙が零れ落ちる。彼女は泣きながら柔らかく微笑んでいた。
涙を流しているのに、彼女は懸命に笑おうとしていた。
せめて残された俺に悲しんで欲しくないのだろうか。苦しげに笑っては、水滴が地面へと落ちる。
だというのに俺は、彼女と同じように涙を流さずにはいられなかった。
どうして、なんで。なんで俺の妹が。なんでよりにもよって俺の妹が。
「……ああ、アップルパイ食べたいなぁ……、十束お兄ちゃんが、つくった……。きっと、……また焦げて……」
最後まで続くことはなかった。
握っていた手は重力に引かれるように力が抜けて。
雫は死んだ。死んでしまった。死んで……。
「あ、ああああああああああああああああああああああああッッ、うぁああああああぁあああッ、あああぁあああああああッ」
ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなぁっ。
神がいるならなんで、どうして、どうしてだ。
まだ見せてない光景だって、まだ教えてない事だって、まだ体験したことのない事だって、俺の妹には、まだ、あったはずなんだ。
一人しかいないんだ、たった一人だけしか。雫しか俺に家族はいないんだ……。
決して、こんな風に死ぬために生まれた訳なんかじゃない。
世界に何も残せないまま意味なく消える為に生きてきた訳じゃない……!
幸せじゃなくとも、普通の誰が見てもつまらないただの人生を迎えて欲しかった……。
けれどいくら嘆いても、もうその身体に血が通う事はないだろう。
それこそ、神様でもいない限り。
声を上げた。
神がいるのなら憎かった。不条理を与えたこの世界が憎かった。
未だ戦火が収まらない空に、此処だけじゃない鳴り響く轟音に掻き消されていく。
――――――
涙も枯れ慟哭する声も上げれなくなった頃には、瓦礫を退ける気力すら湧かなかった。
ただただ、ぼんやりと雫を見つめる。
もっと色々してあげればよかったな、もっと幸せにしてやればよかったな。
もう手に入れられない未来に馳せる。陽炎のように消えたそれに追いつくにはどうしたらいいだろう。
……、ふと本当に燃え盛る炎が目に入る。
あそこに入ったら、きっと楽には死ねないだろう。
苦しむだろう、けれど、もしかしたら妹に会えるかもしれない。
そんな事があるわけがないと分かっている。
ただ、もう楽になりたかった。
家族のいない俺にとって、たった一つの守るべき存在だったんだ。たった一つの宝物だったんだ。
死んだところで何も起こらないだろう。
けれど俺の妹は死んだんだ。もうこの世にいないんだ。
きっと此処が地獄に違いない。じゃなければこんなに苦しい事があるものか。
そうだ。地獄なのだろう。昨日までは確かに平和だったのだから。
其れが今日は何だ。焼けた血肉の香りというのはこんなにも臭いものかと覚えさせられたではないか。
爆ぜた死体は此れほど汚らしいものだろうかと知ってしまった。
友達の臓腑はこんなにも透き通っていたのかと苦しまされてしまった。
「それは、貴方の家族かしら? 」
そんな言葉を掛けられた気がする。
どうでもよかった。放っておいて欲しかった。
けれどもそれは妙に優しく、そして嫌に耳に残る声色だった。
濁って薄汚い空気に差し込んだ、一筋の光明のように清らかさを含んでいた。
だからこそ振り向いてしまった。それが一番の間違いだと気付かずに。
「………誰だ」
辺りは炎に囲まれているというのに、熱さなど微塵にも感じさせないかのように退廃的で象徴的な黒のマントを羽織っている少女が立っていた。
何度も何度も折り曲げたようにひしゃげた青の三角帽の下からは、幻想的で儚い表情を覗かせている。
肌と同じかそれ以上に対照的な白く美しい銀の髪は黒のマントにコントラストを彩らせていた。
それはまるで御伽噺か何処かで唄われていそうな"魔女"がそこにいる。
「……え? 」
だから、声をあげてしまった。
何せその姿かたちは先ほどまで血塗れになっていた雫ではないか。
ただその蒼の瞳は紅に染まり、黒だった髪は銀色に塗り替わっていた。
そして最後にみた柔和な笑みは見たことのない表情へと変わっていたが。
雫と瓜二つという話ではない、雫そのものが其処にいるではないか。
「は、ははッ」
嬉しくて声を上げる。
そうだ、そんな訳がないじゃないか。雫が死んだなんてそんな馬鹿な話が――。
「雫は死んだのね? 」
少女は微かに笑う。
チリン、と帽子の端に結ばれた鈴がそれに合わせて鳴った。そんな清廉な音とは裏腹に浮かべた笑みは酷く薄暗い。
そんな訳ないじゃないか。だって、お前はこうしてここにいるじゃないか。
けれど雫は俺の喜ぶ姿を見て、悦に浸っているように歪に口元を歪ませた。
「うふふ、現実逃避するのも良いけれど。そろそろ"本物"のシズクちゃんを埋めてあげないのかしら? 」
振り向きたくなんて無い。認めたくなんて無い。
だって雫は此処にいるじゃないか。もうやめてくれ。
「――ところで貴方は雫が本当に瓦礫で押しつぶされて死んだのだと思う? 」
雫は話題を変えるようにして話始める。
誰もが見惚れるくらいに端麗に笑い、それらを壊してしまいそうなくらいに下種さを滲ませて。
俺はこれ以上会話をしたくないと思いながらも、その言葉に引き込まれていた。
本当の死因は建築物の崩落による失血死じゃないのか。本当にそうじゃないのなら。
緩やかに後ろへと振り向いて、見たくない現実を直視する。
――ああ、やっぱり雫は死んだのだと。
枯れた瞼が少し濡れる。けれどある種の現実感が其処にはあった。
だから少しくらい嗚咽を洩らしても許されるだろう、いつまでも子供でいたかったのだから……。
こうして見比べてみると分かってしまう。
容姿こそ似ているものの雫と彼女では違った。
俺の妹はたった一人しかいなかったのだから、気づいてしまえた。
そんな感傷とは裏腹に俺は一番見たい事実を確認したかったが、生憎と上半身より下は瓦礫によって埋もれてしまっていた為に分からなかった。
もしかしたら。と少女に目を走らせると、答えるように左右に首を振る。
「安心していいわ。純潔のまま殺されたのだから。殺したのは……、そうね。今丁度世界を混乱させている『帝王』と呼ばれる異世界からの侵略者達よ」
異世界からの侵略者? それは今日の昼頃に起こった内乱の事だろうか。
世界で同時に起こった内乱は、俺達の町にさえ余波が来ていた。
内乱と呼ぶ事が正しいのかは分からない。
ただそれは主要都市を狙うかのようにテロリズムが起こり、今尚交通機関を含めあらゆる手段が麻痺している。
だからこそ俺は学校を抜け出し、家で寝たきりになっている雫の元へと向かったのだから。
……それでも、結局は間に合わなかったが。
荒唐無稽な話だ。よりにもよって異世界からの侵略者だと?
――そう口に出来るものならしていただろう。
だけれど俺は実際に"魔法"のような物を見てしまっていた。何処からか現れた化け物たちを見てしまっていた。
ならば何故、少女はその事を知っているのだろうか。いやむしろどうしてそこまで雫に似ているのだと。
それをいざ口にしようとした所で初めて俺は気づいてしまった。それこそ少女はまるで"魔法"使いのような服装じゃないか、と。
けれどそれを発することは出来ない。
動けない。掌どころか、足の小指一本すらもその場から動こうとしない。
金縛り? そんな生ぬるい感じではない。
まるで空間を凍り付かせたかのように。呼吸は出来るし瞬きや音も聞こえる。
けれど行動を起こす事が出来なくなっていたからだ。
「分かりやすく実力差を理解して貰う為に、まずは貴方を拘束させて貰ったわ」
少女はマントを広げる。中に着ている服は白のシャツに青の袖が紡がれた、まるでどこかの神聖な装束のような成りだった。
けれども下は履いておらず、膝元まで伸びたシャツはスカートのように機能している。
腰元に巻かれた帯はゆらゆらと空を凪いでいた。
それでも禍々しいほどの紅い両目と銀の髪は世俗の物とは思えず、身体を覆いそうなほどに大きい三角帽は少女を魔女たらしめていた。
「――私は世界を操る『帝王』。まだ呼ばれてはいなけれど、いずれ"壱"の『帝王』を名乗るつもりよ」
どこから取り出したのか分からない箒に、腰かけるようにして座る。
その両の脚は既に地面を離れており、完全に箒が法則を無視して浮いている。
まさしく人間離れしたその雰囲気を醸し出す少女は、俺の妹を殺した奴らの一人だと名乗っていた。