第二章
子供の頃、怪物を見た事がある。
その記憶は酷くおぼろげで、いつの事だったのかは今ではもうわからない。
俺は雪山の中にいて、何かを啜るような音が聞こえて、気になって必死にその音を辿ったのだ。
音に近付いて行くにつれて、何故だか息が苦しくなっていく。寒くはないのにガチガチと震えていて、そんなつもりはないのに何故か体に力が入る。気付けば、緊張からか鼻からは真っ赤な鼻血が滴っていた。
じゅるじゅると聞こえていた音が、ぴたりと止まる。止せばいいのに、荒い呼吸のまま音の正体へと更に近づいていく。
木々のカーテンを抜けると、そこには人が二人いた。一人は倒れていて、もう一人は倒れている人に覆いかぶさっている。倒れている人はピクリとも動かなくて、覆いかぶさっている人は口に真っ赤な血を点けていた。
その姿を見て、呼吸は更に荒くなっていく。不思議と怖いとは思わなかった。ただ、頭の中ではひっきりなしに不快な感情が渦巻いている。
――ああ、あれは人の形をしているけど、きっと人じゃない。逃げないと、いけない。
子供心に、そんな確信を得ていた。血を啜る怪物はそんな子供の思考を感じ取ったのか、エモノから手を離してこちらへと近付いてくる。
その後の事は覚えてはいない。気付けば車の後部座席に寝かされていて、運転席には父さんがいた。
後で父さんに聞いてみたのだが、そんなものは見ていないという。雪の中の倒木を見間違えたのだろうと。誰かに話してもほとんど信じてくれなくて、幼い俺は酷く腹を立てた覚えがある。
あれは夢だったのか。幼い子供がそう考えるようになるのは、不思議な事ではなかったと思う。
けれど少しして、親友である沖セイイチは化け物に酷似した殺人鬼に殺されてしまう。自分でも何が真実なのかがわからないまま常識には否定され続け、いつからか、その事実に蓋をするようになった。
懐かしい夢を見た気がする。不思議なもので内容は思い出せない。人というのはつくづく痒いところに手が届かない生き物だと思う。まあ、生きていればどんな生き物であれ、おそらくはそう感じるのだろう。他の生物に比べいくらか賢いのだ。出てくる不満の数が多くなるのは仕方がない。
珍しく目覚まし時計が鳴る前に起きたらしい。アラーム音による不快感はなく、頭はすっきりしている。家の中からはもう物音はしない。昨日も俺が寝るまで帰ってこなかったというのに、警察官というのはそんなに早く出勤しなければいけないのだろうか。
「――――」
不安に駆られ、テレビのリモコンをとって電源を入れる。チャンネルを回し続け、あるかもわからないニュースを探す。一通り回し終える直前、目的のものを見つけた。
「ここ木島病院では、奇跡の万能薬を研究しているという事です。がんの完全治癒に期待出来る他、驚く事に何と認知症にまで効果が見込める可能性まであるそうです。木島理事長は難病の奥様の為個人的にこの研究を行っていましたが、奥様亡き今は多くの人にこの薬の存在と可能性を――」
満面の笑みでニュースキャスターは夢のような話をしている。万能薬なんてものが出来れば、人間は病気で死ぬことはなくなるだろう。けれど一部の人は寿命とは別の形で、結局は死ぬ。
万能薬のニュースの下には、ときわ市三人目の被害者と出ている。俺が寝ているうちに、連続殺人鬼による被害者はまた一人増えたらしい。犯人の異常性と、この報道順にしたディレクターに頭が痛くなる。朝の報道番組でこんなニュースを締めに持ってくるというのは壊滅的にセンスがない。
「次のニュースです。今日未明、ときわ市美沢公園で身元不明の女性の遺体が発見されました。年齢は十代後半と見られ、警察は身元の確認を急ぐとともに、一昨日から起きている殺人事件との関連性を――」
ニュースキャスターはそれ以上の情報を言う事はない。当然だ。遺体は今朝見つかったばかりなのだから。
頭の中で不安は加速して、歯止めはもう随分前から効かなくなっていた。その不安を払うように急いで制服に着替え、部屋を飛び出した。
駅近辺は概ねいつも通りの様子だ。相も変わらず少なくはない通行人で混み合っている。昨日と違う点をあえて挙げるとすれば、随所に警察官が見受けられるところ。
被害者は三日で三人。同じ町で一日一人のペースというのはただの学生である俺から見ても異常だ。そんなものは歴史的な大事件の中の話である。三人の被害者を出した金井市の連続殺人事件ですら一週間の内に起きた出来事だ。それでも勿論常軌を逸した事件に変わりはないのだが、今回はそれを超えていると言っていい。
兄貴に詳しい話を聞きたかったが、昨日は深夜まで起きている事が出来なかった。入学式を皮切りに、色々あって疲れていたのかもしれない。
『言うまでもない事だと思うけれど』
「……っ」
歩く速度を更に速めて、学校へと向かった。
教室に着いた頃には肩で息をしていた。どうやら自分でも気付かない内に走っていたらしい。
息を整えながら興梠の席へと視線を向ける。そこには隣の席の女子と話す、昨日から何一つ変わらない彼女が笑顔で座っていた。
「はぁ」
どうかしている。俺は一体何で、興梠が殺人事件に巻き込まれてしまっているんじゃないかなんて、根拠のない不吉な事を思ってしまったのか。そもそも彼女とは昨日出会ったばかりだ。一度昼飯を一緒に食べた程度でこんなにも気にしてしまうというのは、どこかおかしな話ではないか。
やはり、新天地での生活には色々と不具合が起きるものなのかもしれない。そうでもないとこの一連の奇行は説明がつかない。というか学校生活二日目に肩で息をして教室に走り込んでくる目つきの悪い男子というのは、一体同級生からはどんな評価を下されるのだろうか。
などと、一人狼狽えていると興梠がこちらに気付いたらしい。笑顔で手を挙げて、話していた女子に謝るような仕草をしてからこちらへと歩み寄ってくる。
平静を保ちたいのは山々なのだが、いかんせんまだぜーぜーと息は荒い。桜の咲いている季節だというのに額にはほんのり汗が滲んでいる。どうにも誤魔化しきれそうにない。なのでこれから起こるであろう自分にとってマイナスの事象を、全て甘んじて受ける覚悟を決める。
「おはよう……なんか、息切れてる?もしかして走ってきた?ホームルームの時間勘違いでもした?」
怪訝ながらも、興味津々といった様子でこちらの顔を覗き込んでくる。それは昨日会った彼女そのものだ。改めてホッとしてから、とりあえずは無難な方向で話を進める事にした。
「まあ、そんなところ」
「うわ間抜けー」
ケラケラと昨日の仕返しだと言わんばかりに笑われる。多少頭に来ながらも、この奇行の動機はそれ以上に間抜けだと思われたので予定通り甘んじて受ける事とする。
「今日ばっかりは本当にそう思うよ」
「お、今日は何か素直じゃない。新天地で気が弱くなりでもした?」
「それもあるかもしれない」
興梠のニヤケ面が加速する。思っていた事を言い当てられて、ついつい答えてしまった。呼吸が荒いとまともな思考を失うという事を失念していた。もう俺はダメかもしれない。
「さっきから面白いんだけど。今日ってエイプリルフールだったっけ?」
もっとも、相手の返答も相当なものなので、あまり落ち込む必要はないのかもしれない。
上級生との対面式、ホームルームはやはりというか当然というか、入学式に次いで何の滞りもなくつつがなく終わった。現役の学生の行事に対する姿勢としては何か問題がある気がしないでもないのだが、生来こういう人間なので大目に見てほしい。
何にせよ自分にとってはこの上ない結果だ。マイペースだ何だと言う人もいるだろうが、出来る事なら俺は予定外の何かに煩わされる事なく生きていきたいのだ。何もないというのは真に素晴らしい。一人とはいえ友達も出来た事だし、高校生活は順風満帆の様相を呈してきていた。
あえて当面の悩みを挙げるとするならば――。
『寂しくなったらいつでもメールするんだゾ(笑)』
そう、その唯一の友人が何やら勘違いしてしまっている事だろうか。メールを見返して画面を叩き割りたくなる。
今回の不安は杞憂に終わったとは言え、犯人はまだ捕まってはいない。これだけ被害者が出ているのだから捕まるのは時間の問題だろうが、今日みたいな奇行、もしくは胃の痛くなるような報道に一喜一憂するというのはなるべくなら避けたい。そう思い、とりあえず連絡先だけでも聞いておくかとフランクに持ち掛けたのが失敗だった。
あのニヤケ面を、生涯忘れる事はないだろう。聞くタイミングを絶望的に誤ってしまった。
否定の言葉も空しく、ピースサインを伴った顔写真まで送られてくる始末。この事実を内情知らぬ男子生徒に知られれば、嫉妬と憎悪の対象にされる事請け合いである。
どうしたものかと悩みながら校門を潜る――瞬間。視線を感じた。
「こんにちは」
聞き覚えのある、凛とした静かな声。声のした方向へ振り向く。
「突然ごめんなさい。話があるのだけれど、いいかしら」
激しい既視感に襲われ、眩暈を起こしそうになる。校門のすぐ傍。そこには昨日と同じように、喪服じみた服装の少女が立っていた。
唐突な疑問なのだが、ときわ市の喫茶店はこの森の喫茶店しかないのだろうか。
駅前のショッピングモール、学校近辺の商店街。思い返してみるとそういったものを見かけた記憶はない。
「…………」
校門で話しかけてきた彼女はというと、無言でメニューと睨めっこしている。この状態になって彼此五分程立つ。あの少ないメニューでそんなに悩む事があるのだろうか。
話をしたいと持ち掛けられ、特に用事もないし断る事も何処か無粋な気がしたので承諾すると、立ち話もなんだからお昼でもと、場所を移動する事になった。で、彼女が足を向けた場所はというと、なんと昨日来たばかりの森の喫茶店だった。
存外、この喫茶店は人気があるのかもしれない。俺も気に入っているのだが、ならこの客の少なさはどういう事なのだろう。今日は老夫婦すらいないので、客は我々二人だけである。
さらに二分程経って、ようやく決まったのか彼女はメニューを置いて手を挙げる。その流れるような仕草に目を奪われる。興梠のキビキビとした動作とはまた違って映るが、どちらも見惚れるくらい優美だ。彼女はこれまた流麗な仕草でメニューをめくりながら、注文をする。
「生ハムのサンドイッチと、コーンスープ。それとペペロンチーノとチーズケーキを。飲み物はブラッドオレンジジュースと、コーヒーは食後で」
貴方は?と視線で問われ、自分が固まっていた事に気付く。
「えっと、じゃあ俺はカルボナーラとコーヒー……と、シーザーサラダで」
かしこまりましたと会釈をして、店員はカウンターへと消えていく。怒涛の注文の余波を受けてか、頼むつもりもなかったサブメニューを頼んでしまった。
彼女をまじまじと見てみる。身長は150センチぐらいだろうか。その体は女性の中でも小さい部類だろう。横はというと、驚くぐらい細い。興梠も大分細身な方だと思うが、彼女は更に細く、ちょっとした事で大怪我をしてしまいそうだ。もっとも、彼女の雰囲気や仕草からは怪我をした姿など到底想像出来ないのだが。
「……何か顔についているかしら」
まじまじと見過ぎていたようで、表情は変わらないまま、しかしどこか怪訝な雰囲気で彼女は言う。
「ああいや、ごめん。よく食べるなぁと思って」
そう素直に答えると、心なしか彼女の目が少し細まったような気がした。絵画のモデルのように美しい容姿と、見つめられると圧倒される色素の薄い瞳、近寄り難いこれでもかという無表情。どこか人間離れした彼女にはもしかしたら感情がないのかなんて馬鹿な事を思いもしたが、どうやらそれは間抜けな杞憂だったらしい。
「……これでも控えたつもりだったのだけれど」
そう衝撃発言をして、目線を外して何やら考え込んでしまった。どうやら彼女は思いもよらないところで人間離れしているらしい。いやしかし、これは俺の失言になるのだろうか。常識的な感覚としては何も間違った事は言ってないとは思うのだが、異性に対してこういった発言ははたして失礼にあたるのだろうか。
などと一人考えていると、いつの間にか彼女は顔を上げこちらを見ていた。
「次からは少し減らすわ」
「ん、いや別にその必要はないと思うけど。好きで全部食べれるならいいと思う」
悪い癖で、反射的に返してしまう。どこか無念そうな彼女の発言に、ついつい心の中の思いが漏れてしまった。
彼女はというと、無表情で一度こちらをじっと見つめてから、視線を外してどこか虚空を見たまま「そうね」と呟いた。
少し安心する。見かけ通り口数の少ないタイプではあったが、話しかければきちんと答えてくれるし、微細な変化なので読み取りづらいがちゃんと喜怒哀楽も存在している。俺のような拗らせている人間でも、何とか間は保てそうだ。
「それで話っていうのは?」
注文も終えたし本題に入ろうと、話を振ってみる事にした。当たり前の話だが興梠のようにおしぼりをいじり倒しているわけでもなく、彼女は静かにこちらを見据えていた。そして少し間を置いてから、口を開く。
「まずもう一度確認なのだけれど。貴方は後藤ギイチ君で間違いないわよね」
その質問は先程も校門の前で一度されたものだ。何故繰り返し確認するのか疑問ではあったが、「ああ、間違いない」と答える。すると彼女は少し声のトーンを落とし、まっすぐにこちらの目を見据えて言った。
「率直に言うわ。二年前、貴方は誘拐された沖セイイチを探し出した訳だけれど」
彼女の発言に、一瞬思考が固まる。彼女の言っている事は事実だ。化け物に連れ去られた親友を、俺はある特殊な方法で見つけ出した。それは紛れもない事実だ。
「一体あれは、どうやったのかしら」
ただそれを、彼女が知っているのはおかしいのだ。二年前小さなヒーローとチープな報道は散々されたが、ただの一度も俺の名前は出ていない。なのに一体何故、あの安っぽい英雄像の正体を知っているのか。
「……何でそれを知っているんだ」
その事実を知っているのは親父を含む、当時あの事件の捜査に関わった警官のごく一部とうちの家族、それとセイイチの母親だけだ。その本来であれば知り得ない真相を、一体彼女はどこで知ったのか。
返答はない。しかし代わりに、別の質問を投げかけてくる。
「……少し質問を変えるわ。後藤ギイチ。貴方は一体どうやって二年前の連続殺人犯――あの血を吸う化け物を、探し出したのかしら」
場の空気が一変する。もういつの事か思い出せない幼年期。二年前に見た化け物。そんなものはいないと、大人達に否定され続けた化け物の存在を、さも実在するかのように、彼女は口にした。
頭をハンマーで殴られたような感覚というのは、こういう事を言うのだろうか。彼女は直接的ではないが言ったのだ。空想上の化け物は、存在するのだと。
「……血を吸う化け物?所謂吸血鬼って奴か。まさか二年前三人を殺したのはそんな空想上の化け物だって?」
馬鹿な話だと、芝居を打って彼女の様子を窺う。幼年期に見た化け物は、紛れもない吸血鬼だった。美味そうに血を啜って新たな獲物の登場に顔を歪ませていたあの怪物は、間違いなく人間ではなかった。そして誰も信じてはくれなかったが、二年前沖セイイチを殺し、最後にはあっけなく射殺された女もまた、あの時の化け物と同じ生き物だ。他の人間にはわからないが、俺にはそれがわかってしまった。
しかし彼女の様子はまるで変わらない。ただこちらに向けられる瞳が、下手な嘘はやめろと言っているような気がした。
「そう。そして今起きている連続殺人事件も、彼らの仕業」
淡々と表情を変える事なく。彼女はおかしな事を言う。
「……じゃあ、死体には血が残っていないのか?」
「そうね。殺害した後血を飲まない吸血鬼は珍しいわ」
それもまた、おかしな話だった。
「じゃあ二年前の被害者、沖セイイチの死体にも、血は残っていなかったっていうのか」
彼女は顎に手を当てて、何かを思い出すような仕草をする。
「……いいえ。二年前の被害者の中で、沖セイイチだけは血を抜かれていなかった」
それは、知っている。あいつは化け物に血を吸われる前に死体になっていた。殺してから吸い取るのか、生きたままなのか。怪物の生態など知りたくもないが、それらしき傷は見当たらなかったし、それは恐らく事実だ。
「じゃあ犯人は吸血鬼じゃないだろう」
朦朧とする頭で子供のように反論をする。彼女のような理知的な人間にそんな行為は無意味だとわかっていても、止める事はできなかった。
「……彼の死因は頸部を圧迫された事による窒息死。それだけなら人間にも可能だけれど、彼の場合は首の骨が粉々に砕かれていた。首には手で締めたような痕が残っていて、何か道具を使ったような痕跡はない。そんな事人間には到底不可能、犯人は吸血鬼で間違いないわ。撃ち殺された彼女の遺体は吸血鬼のそれであったし、他の被害者二人の遺体には、血が残っていなかった」
それは、警察官だった父さんの話とは異なる。その空想上の存在を疑っていた俺は必死に問い質したが、死体はごく普通の他殺体だったという。公式の記録にも、そう載っていると。
「……それはおかしいな。公式の記録ではまっとうな他殺体だったらしいが」
「……ええ。公式には、そうなっているわね」
表情は変わらず、ただ少しだけ目を細めて、彼女は頷く。
「第一、犯人が吸血鬼だったら今頃大騒ぎだろう。自分達を餌にする怪物が実在するのだとしたら、人類は今頃大パニックだ」
疑いをもったまま、しかしその事実に蓋をして今まで大きく騒ぐこともなかったのは、そういう理由もある。事件は起これど概ね世界は平和で、あれ以来吸血鬼の姿も噂も微塵もありはしない。
彼女は少し間を置いて、再び口を開く。
「そうね。けれどこの世界は貴方も知っている通り、驚く程上手く出来ている。吸血鬼は歪な均衡の元この世界に実在している。何故その正体が知られていないか。そこには様々な理由がある。人側は吸血鬼の存在を知られて集団恐慌を起こして欲しくはない。今更吸血鬼全てを排除する、というのにも無理があったしね。吸血鬼側からしても同じ星で生きていく以上主な食料とはいえ、人とはなるべく上手く付き合っていきたい。無論全ての者がその意思で統一されているとは言わないけれど、概ねその考えで統一されているのよ。まあ、詳しく知りたいというのなら追々教えてあげるわ」
本当に訳がわからない。俺は今見ず知らずの少女に、常識で考えれば非現実的と言わざるを得ない真相とやらを聞かされている。話の出来の悪さに、頭が痛くなってくる。それじゃまるで――。
「……まるで、映画の中の話だな」
鼻で笑って、しかしそれを否定出来ない自分がいた。いつの頃からか考えないようにしていた。あいつを殺したのはただの気の触れた殺人鬼なのだと、そう思うようにしていた。
正直、気が狂うかと思った。あいつが死んだだけでも大分参っていたというのに、誰も俺の話など信じてくれない。それどころか化け物だという確信はあったのに、親父に聞いてみればそんな者はいなかったと言われてしまう。やはりあれは、父さんの言った通り幻だったのかと。そうこうしている内に、いつの間にか考えないようになったのだ。…ただ、頭では考えないようにしつつも、あの怪物はいるのだと、本能のようなモノで確信してもいた。
鼻で笑った態度が気に食わなかったのか、彼女は眉間に皺を寄せていた。そしてため息をつくように口を開く。
「……そろそろその下手な芝居も止めにしたらどうかしら。二年前貴方は確かに『犯人は化け物だった』と供述している。自分の目で見たものを否定され続け、真実を知り得なかった事に対しては同情するわ。けれどそれは仕方のない事なの。いい加減現実に目を向けて質問に答えて。殺された彼の為にも」
何故それがあいつの為になるのかはわからない。ただどうしようもなく、頭にきてしまった。
「……あんたに何がわかる」
消え入りそうな声で、言うべきではない台詞を言ってしまう。彼女の言っている事は非現実的ではあるがきっと間違ってはいない。言ってしまえばそれは子供じみたただの愚痴だ。こんな事を言えばまた彼女は怒ってしまうかもしれない。狼狽えた態度を表に出さないまま、彼女の様子を窺う。
「……ごめんなさい。少し、感情的になっていたみたい。彼の事を引き合いに出すべきではなかった」
しかし彼女は意外な反応をする。本当に申し訳なさそうに謝って、顔を伏せて黙り込んでしまったのだ。さっきまでの彼女からは想像もつかないその様は見ていてとても痛ましく、正視に堪えなかった。詳しい理屈はわからないが、それを見た瞬間頭に冷水をかけられたような錯覚に襲われた。
目の前の彼女に八つ当たりしてどうする。勿論さっきからショックは受けっぱなしで、未だにその話は信じ切れなくてそれが原因と思われる頭痛もずっと続いている。けれどそれは決して彼女のせいではない。彼女はただ、こちらの問いに応じてその真実の断片を話してくれただけなのに。
深呼吸をする。その話が信じられない、訳じゃない。俺は自分の疑いを認める人間が突然表れて、それに戸惑っていたのだ。
「……いや、こっちこそ悪かった。……そうなんじゃないかとは、ずっと心の中で思っていたんだ。ただそれを今更認めるのが嫌で、子供のような態度をとった。本当に悪かった」
言葉にして、ようやく頭痛は止まってくれた。単純な生き物だと安心すると共に呆れてしまう。何にせよ、早く彼女の疑問に答えなくてはなるまい。
「あいつらを見ると、呼吸が苦しくなるんだ」
そう言うと、彼女は顔を上げてこちらの話に興味を示す。
「呼吸が?……理屈はわからないけれど、体質的なものかしら」
「本当理屈はわからないけど、多分そうだと思う。もう思い出せないぐらい昔――子供の頃に、俺は森の中で人間の血を啜る化け物を見たんだ」
断片的にしか思い出せない昔話をする。その不確かな話を彼女は黙って聞いていた。その様は授業を受けて頷く、生真面目な学生に似ている。
「誰も信じてくれなかったけど、沖を殺した奴を見つけた時も同じように呼吸が辛くなった。血は吸っていなかったみたいだけど、同じ生き物だって思ったんだ」
「二年前の犯人とされる彼女は確かめるまでもない……。幼年期に遭遇したその男も十中八九吸血鬼よ……場所が雪山というのは、少し不可解だけれど」
彼女の言い回しに若干の違和感を覚えながらも、それよりも気になる発言があったのでそれについて言及する。
「雪山が何で、不可解なんだ」
ファンタジーの中でそういった化け物は、人里離れた場所を住処としている事が多いように思える。我々受け手側の人間が違和感を感じない様に、大多数の作り手側も又、それが自然であると考えるのだろう。けれど彼女はそれを不可解だ、と言った。セイイチを殺した犯人の方ではなく、人っ子一人いない雪山にいる吸血鬼こそおかしいのだと。それは一体どういう事なのだろうか。
「……そうね。確かにおとぎ話に出てくる怪物は皆、社会から隔絶された場所にこそ居る。雪山なんていうのも、珍しくはないかもしれない。けれど現実の吸血鬼は違うの。何百年も前ならまた話は別かもしれないけれど、彼らは人との共存を追及した結果、人間社会に紛れ込む事に落ち着いたのよ」
こちらの発言の意図を察してか、彼女ははっきりとそう告げる。けれどそれこそおかしな話だ。
「いや待ってくれ。紛れ込むって、俺たちと一緒に生活しているって事か?…言いたくはないけど、俺たちはあいつらにとって食料なんだろう。確かにそれなら食料には困らないけど、そんな状態で何もないなんて事は有り得るのか。そりゃ今の事件は吸血鬼によるらしいけど、今までそういった事件はほとんど明るみに出ていないじゃないか」
確かに雪山で見た化け物も、二年前にみた女も、どちらも見た目は人間のそれだった。俺たちの中に紛れ込むだけならば問題はないだろう。しかしその実態はあれ(・・)な(・)の(・)だ(・)。
「貴方の言う通り人間社会に彼らが紛れ込むというのはそれだけで危険よ。事実貴方が知っている以外にも被害者は出ている。それが明るみに出ていない理由は、さっきも言ったわよね」
人間側も、協力しているという事か。現実味を帯びない話ではあるが、そうであれば二年前の公式の記録が改ざんされていた点にも納得がいく。しかしだ。
「……何で俺たちはそんな事を許しているんだ。犠牲者は出ているんだろう。共存する事に何の意味がある」
そう。何故そんな状況に目を瞑っているのか。パニックを起こされたくない、処分が難しい。きっと俺のように何も知らない人間には感知し得ない様々な理由があるのだろう。けれどそれが犠牲者達に対する言い訳になるとは到底思えない。彼女はその問いに少しだけ考えてから口を開く。
「先程もいくつか挙げたけれど、理由は大雑把に言って四つ程あるわ。一つはその絶対数の少なさ。二つ目は、彼らを生かすメリットが少なからずあるから。三つ目に、数は少ないとは言え根を断つには相当な労力と被害が予想されるから。そして四つ目に、私達のような存在があるから」
そこまで言われて、そう言えば目の前の彼女は一体何者なんだろうと、今更な疑問が浮かぶ。それを察したように、彼女は改まった様子でこちらを一瞥する。
「そろそろ、本題に移りましょうか」
今一度こちらの目をしっかりと見て、話を始めた。
「私は人側に被害が出た時の対処要員のようなものだと思ってもらっていいわ。簡単に言ってしまえば、問題を起こした吸血鬼を始末するハンターかしら」
これもまた、夢物語のような話だ。けれど彼女の発言に疑いを持つ自分はもういなかった。
「吸血鬼専門の警察官みたいなもの……か?」
「……少し、違うわね。どちらかというと自警団のようなものかしら。けれど概ねその認識で間違いないわ」
言われて、またまじまじと彼女を見てしまう。こんな小柄な少女が、あの化け物のハンターだって?そんな洋画は確かにあった。けれどこれは非現実的ではあるが現実だ。この小柄な体があの化け物を倒す場面などとてもじゃないが想像出来ない。何か武器でも使うのだろうか。
「……どうかした?」
まずい。じっと見過ぎてまた怪訝な顔をされてしまった。
「いや、何でもない。続けてくれ」
慌てて繕うと、彼女は怪訝な様子を崩さないまま話を再開する。
「今日貴方に話かけたのは、今回の連続殺人犯――その犯人捜しを手伝って欲しかったからなの。勿論貴方を危険な目には合わせない。ただ犯人を探し出して欲しいだけ。そしてもしよければ――行く行くは、私の仕事を手伝って欲しい。その能力は、それ程に貴重なの」
そして、驚くような勧誘を持ち掛けてきた。
確かに俺は吸血鬼を探知できる特殊な体質だ。けれどそれ以外に特殊な資質は何も持ち合わせてはいない。……二年前自ら動いたのは、あいつを助けたかった。ただ、それだけの理由だった。
「……一つ疑問なんだが。その自警団には俺みたいに吸血鬼を探知できる人間はいないのか」
「残念ながら、私達には事前に彼らを探知する術はないわ。出来るのは、起きた事の後始末だけ」
鋭い視線を向けられて、そんなのわかりきっているでしょうと言われているような気がしてしまう。
「……そもそも貴方の存在そのものがイレギュラーなの。東欧の伝承に似たような話はあれ、実物を見た事はただの一度もない。勿論それは私に限った話ではないわ。貴方の存在を聞いた時だって、とても信じられなかったもの」
言われて、良くないとは思いつつも気になってしまった。
「話を逸らして悪いんだが、一体俺をどこで知ったんだ。二年前の事件か」
「ええ。言っておくけれど、貴方は私達の間ではそれなりに有名よ。二年前のあれは、それこそ大事件だったもの」
そこまで言って黙り込んでしまう。どうやら彼女はこれ以上答えるつもりはないらしい。
もう少し詳しく聞き出したいのだが、彼女は何故か腹を立てているらしい。心当たりは勿論ない。それが俺の与り知らぬものであるとは思うので納得はいかないのだが、これ以上言及するのは得策ではないように思えた。そもそもこれは話の本筋からは逸れている。
確かに、彼女のような組織の人間からしてみれば俺のような能力は喉から手が出る程欲しいのかもしれない。けれど俺はあまり気乗りがしなかった。
「……話はわかった。けど、俺に出来るとは思えない。二年前は友達が被害に遭ったから自主的にやったに過ぎない。それにあの時探し出せたのだって偶然で、運が良かっただけだ」
そう。あの現場を見つけたのも偶々運が良かっただけなのだ。偶然、事件現場の近くに立ち寄る事さえなければ、俺は小さな英雄などと持て囃される事もなかった。あれは単に巡りが良かっただけ。だってそうだろう。この身にはそんな優れた能力も、資格も、ありはしない。
「貴方それ本気で言っているの」
表情は変わらぬまま、しかし彼女は明らかに苛立っていた。
「……いいわ。確かにその過去は苦いものだったかもしれない。辛くもあったでしょう」
言葉を区切って、一度だけ躊躇うような素振りを見せつつもこちらを見据えてはっきりと言う。
「……先に謝っておく。今から、少し卑怯な事を言うわ」
彼女は律儀に謝って、話を続ける。
「今回の犯人は、はっきり言って異常よ。でもたとえ貴方の協力が得られなくても、恐らくあと数日で探し出せるでしょう。それは確実。…けれど貴方が協力してくれれば、一日二日、そこにたどり着くまでの日数が減るかもしれない。貴方が協力してくれれば、被害者となる人間は少なくなるかもしれない」
確かにその言い分は卑怯だと思った。もし断ってしまったら、俺は彼女に一生悪役のレッテルでも貼られるかもしれない。…きっと死んだ被害者達にも、呪われ続けるだろう。
「確かに。そう考えると断れない。わかった、協力する」
あっさり折れた俺を不思議に思ったのか、彼女が面を食らったような表情をする。皮肉にも、それは今までで一番彼女の表情に変化があった瞬間であった。
「あまり気乗りはしない。やれる自信はないけどやるよ。俺の中じゃ上手くいくとも思えないけど、力は貸す」
そう言うと、彼女は額に手を当てて何やらぶつぶつと呟きながら考え込んでしまった。
「……ええ。今のは、私の早とちりが悪いわ。けれどその思わせぶりな態度にも問題があると思うのだけれど」
「いや、悪い。ホントそうだ」
気付けば彼女の表情は随分変わっていて、グチグチと文句を言ってくる様には自然と顔がにやけてしまう。自信の無さを伝えたかっただけなのだが、彼女には本当に申し訳ない事をした。話を持ち掛けられた時から、もう既に返事は決まっていたのだ。いや、もっと極端な話をすれば――助けを求める人にそう返事をするのは、もう何年も前に決まっている。
「それでも、いいなら」
沖セイイチならこういう時何て答えただろうか。そう考えながら彼の真似をして手を差し出す。彼女はじと目でこちらを睨み付けながらも、その手を握り返してきた。
「その能力がどれだけ貴重なものなのか。わからせてあげる」
得意げに言う彼女に、また笑いそうになってしまう。その様子は最近出会った彼女にどこか似ていた。お調子者の彼女が巻き込まれない為にも、せいぜい頑張るとしよう。




