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第一章

 アラームのけたたましい音で目が覚めた。

 乱暴にスマートフォンの画面をタッチしてアラームを止めた。寝ぼけた頭で耳をそばだてる。雀の鳴き声、微かに聞き取れるご近所さんの足音。どうやら同居している兄はもう家を出ているようだ。スマートフォンを手に持ちベッドから起き上がる。見るわけでもないのに、テレビの電源を入れた。

 数秒経っても電子音で起きた不快感は消えない。色々と音源はあるのだが、この不快感を軽減できる音には未だ巡り会えてはいない。まあ、なんというか。きっとどれだけ優雅な音楽だろうと関係ないのだと思う。俺は朝が苦手なのだ。

 体質的なものもあるのだろうが、性格的なものもあるのだと思う。妙に気怠い体に、シャキっとしない頭。加えてこれから学校生活の一日が始まるのだと思うと、気怠さは何倍にもなって襲ってくる。

 加えて。今日は記念すべき高校生活一日目である。クソったれ。

 社交的で未来には希望しか抱いていないような性格の人間であるならともかく、残念というか残当な事に俺はそういったタイプの人間ではない。彼らを馬鹿にするつもりは更々ないが、斜に構えた今どきの面倒臭い若者である。自分からお近づきになろうとは到底思えなく、不安とため息だらけの初日だった。

 しかし一日は否応なしに始まるわけで。テレビを見ればタイムリミットも刻一刻と迫っている。そもそも住み慣れた地元を出て、兄のマンションで居候を始めたのは自分の意思なのだし、こう文句を垂れるのもどこかおかしい話である。仮に地元で進学していればマシかと考えてみて、まあそこまで差はないかと思い当たる。雁字搦めの人生だ。諸悪の根源は俺の性格にある。

 ため息交じりに着替えを初める。制服を着るというのは良い気持ちの切り替えになるって、兄貴が言っていたっけ。警察家系の父さんの受け売りらしいが、その言い分はわからないでもない。着替え終わる頃には不思議と、まあ何とかなるか程度に気持ちは上向いていた。

 顔を洗って、テレビを消して、朝飯は食べない人間なのでそのまま家を出る。まだ覚醒し切っていない頭でこれからの事を順序だてていく。が、家を出た後の事は特に考えない事にした。計画を立てるにも懸念材料が不透明過ぎて立てるだけ無駄だろう。

 洗面所から戻りテレビのリモコンを手に取る。

 消し際。ニュースでは、どこぞの用水路で女学生の遺体が見つかったというテロップが流れていた。


 学校までは徒歩でおよそ15分。自転車通学を考えてもいたのだが、随分前に事故で生徒を亡くしてからは禁止になったのだそうだ。不満を述べる生徒もいるのだろうが、俺には大して苦ではなかった。変わっているとたまに言われるのだが、徒歩での移動というのが好きなのだ。何故かと問われれば言葉にして答えるのは難しいのだが、子供の頃からそうだった。

この町――ときわ市には海と山が同居している。港から少し坂を上がればそこはもう深い森の中だ。都心から少し離れているせいか、手をつけられていない自然がまだふんだんに残されている。その為定年を迎えた老夫婦や富裕層の別荘地として密かに人気があるらしい。都心からは電車で20分程で利便性も抜群。兄曰く、さして大きな店舗もないのにこうして人で賑わうというのは、別段不思議な事ではないのだそうだ。

 かくいう俺もこの町の雰囲気は気に入っている。以前住んでいた都心程雑多ではなく、かといって寂れているわけでもない。自然が多いせいか、道行く人々の表情も心なしか柔らかい。観光客のいないバカンス地というのは、こういうものなのではないのだろうか。あまり旅行などには興味がないので断言は出来ないが、自然と清々しい気分にしてくれるこの土地は、おそらくそういった場所と大差はない。

 そんな街の港側に我が家――もとい、居候先はあったりする。富裕層に人気のこの町で一等大きな高層マンション。『海まで三分、更に山をも味わえる高級マンション』という謳い文句と共に建造されたマンションの契約料はしかし、わずか一年で三分の一の値まで暴落した。

 何せ海が近いのだから風が強い。我々の住む10階程度ならまだ良いのだが、20階では何かに掴まって移動しないと心許なく、30階に至っては生きた心地がしない。洗濯物には潮が付着するし、そもそも物がどこかへ旅立ってしまったりもするので、とてもじゃないが外には干せない。

 加えてスーパーなどの店舗が集まる街の中心地までは、それなりに角度のある上り坂だったりする。我々のような若い人間は別として、年配の人たちにとっては結構な減点対象なのではないだろうか。

別荘と割り切った大金持ちならともかく、わざわざ好き好んでこんなところに住もうという人間は、企画者の予想よりも遥かに少なかったのだろう。ここときわ市の治安を守るべく警官となって三年足らずの兄ですら、ローンを組んであっさり買えてしまった。それでも多少無理はしたそうなのだが、アウトドア派である兄は心底気に入っているらしい。なので本人以外があれやこれやと口を出すような事ではない。それが居候であるなら尚更である。万年生乾きの臭いで満ちている事以外、さして不満はないのだし。

十五分程歩いて、坂の中腹にある学校についた。学校近辺――この町の中心地であるここは、他の場所とは違ってほぼまっ平らだ。地形の関係なのだろう。港からここまで上り坂が続き、また少し行くと山まで上り坂が続いている。港の近くには駅があり、この町で最も宅地開発が進んでいて都会的だ。そこから上がっていくにつれて手の入れられていない自然が増えていく。もしかしたらこの町にこれだけ自然が残っているのは、この変わった地形のせいもあるのかもしれない。


「はぁ」


不安と諦めと、何とかなるかという楽観。そんな感情を一緒くたにしたようなため息を一度だけついて、門を潜った。



結論から言うと、不安のほとんどは見事に外れてくれた。

入学式はつつがなく終わり。やんちゃな上級生に絡まれたり、可愛い女の子にメールアドレスを聞かれたり。そんな派手なイベントがあるわけでもなく、こうして退屈なHRを受けている。

まだ一人も友達と呼べる人間は出来ていないが、周りを見る限りほとんどが自分と同じ状態だろう。考えてみれば当たり前だ。よっぽど社交的でもない限り、人というのはそう簡単に親睦が深まるものでもない。

三日前から緊張していたのが馬鹿らしくなる。そうなのだ。こういったイベントにおいて俺はこういった性格で、毎度こうやって胸を撫で下ろす。ああ、終わってみれば大した事はなかったと。まったく、難儀な性格である。わかっていても改善できないというのが少し腹立たしいのだが、考えてもただ空しくなるだけなので毎度途中で思考を放棄する。


「それでは皆さん、今日はこれで終わりにします。不安もあるとは思うけれど、この三年間で仲の良い友達をたくさん作って、学校生活を楽しんで下さい。勿論、ハメを外さない程度にね」


少し緊張した様子の二十代半ばの女教師は、満面の笑みで話を締めくくった。素直、反抗、まるで興味なし。十代の生徒の反応は様々だろう。

最後にお決まりの形式ばった挨拶をして、皆チリヂリに解散する。中にはもうグループになっているところもあって、若干胃が痛くなった。

仲の良い友達、か。

二年前。親友の沖セイイチは化け物に攫われ、殺された。

自分で言うような事でもないが、その頃の俺は本当に酷い状態だったと思う。

無意味な自問自答を繰り返し――それに意味がないとわかっていても、止める事が出来なかった。

仮定の話を妄想し――それが慰めにもならないとわかっていても、やめる事もせず。

どう謝罪するかと熟慮して――それを、不満に思われる事もないとわかっていたのに。

助けられたかもしれない人間を死なせてしまった。殺したのは別の人物だとしても、果たしてその人間には何の責任もないと言えるのだろうか。もしあの時違った行動をとっていたら、もし数分早く動き出していたら。事実とは異なる選択肢に身を任せていたら、死人など出なかったとしたら。そこに、責任はないと言えるのだろうか。

答えはきっと、もう出ている。けれど納得はしていないし、してはいけない。

あの事件の後短い休みをもらって久々に登校した時、住んでいる世界が変わってしまったようなそんな錯覚に陥った。

慰めてくれる友人、元気づけようとしてくれる同級生。誰も彼もが優しく、その気遣いのどれもが嬉しかったのは間違いない。間違いないのだが、何故か、その気遣いを受ける俺の心は虚ろだった。

慰めを受けて、何か返さなくてはと、機械のように振る舞って。

あいつが死んで、同時に俺の中でも何かが死んだのかもしれない。理屈はてんでわからないが、唯一の親友が死んだのだ。そういう事もあるのだろう。

それから少しして持ち直しはした。したのだが、どうにも以前以上に人付き合いというのが苦手になってしまった。元々積極的に友達作りをする性格ではないのだ。加えて俺は目付きが悪いらしく、昔の友人曰く「話しかけづらい」のだそうだ。

セイイチが生きていた頃は何をせずとも知り合いは増えていた。それは偏にあいつの才能なのだろうが、あいつがいないとこんなにもダメだったのか。何とも情けない話である。

今回これだけ緊張してしまったのは仕方がないと言えば仕方がない。周りは知らない人間だらけで、俺の潜在能力は下の下である。誰か向こうから話かけてきてくれればまだやりようがないでもないのだが、いかんせんこの顔つきだ。望みは薄い。

やっぱり地元に進学すればよかったかとため息をつきかけて――


『本当に――』


――それは、ないかと飲み込んだ。

何はともあれ、友人の一人や二人欲しいところではある。さすがに三年間常に一人の学生生活というのは侘しい。受け身では一向に解決できないと思われるので、どうにかこちらからアクションをかけたい。かけたいのだが、はて、友人の作り方とはどういうものだったかと思い当たる。小学生、中学生と、どうやって友達を築いたのかがはっきり思い出せない。気付いたら友達、だったような気がする。困った。それはそれで子供独特の美談なのだが、これから役に立つとは到底思えない。

などと考えながら鞄をまさぐっていると、不意に良い香りに鼻孔をくすがられる。

一言で言えば、シャンプーの香り。頭の悪い言い方をするのであれば、女の子の香りとでも言うのだろうか。

顔を上げると、そこには女子生徒が一人立っていた。その大きな瞳はこちらの様子をじっと窺っている。その瞳には好奇心と、幾ばくかの不安が覗える。


「どうかした?」


不意の出来事なので少し驚きながらも、笑顔で無難なセリフを投げかける。何か用?ではまるで彼女が俺に用があるみたいで、勘違い野郎とも捉えられかねない。このチョイスで間違いはないはずだと言い聞かせ、よそ行きの笑顔の維持に尽力する。

「後藤、ギイチ君?」

あまり表情を変えないまま、しかしやはり少し不安な様子で尋ねてきた。何というかその様は卑怯だ。彼女の姿を見てから、何故か俺は正体不明の動悸に襲われていた。


「そうだけど」


悟られないように返したが、あまり自信はない。動悸の正体などわかり切っている。経験上男という生き物は悲しいもので、酷く素直である。なのであまり俺自身に落ち度はないものと考える。動悸の正体なぞ分かりきっている。つまるところ彼女はとんでもない美少女だったのだ。

「あ、やっぱり。よかった、高校生活初日に人違いだなんて、恥ずかしい事できないし」

ほっとした様子を見せ、満面の笑みになる。人というのはここまで可愛くなれるのかと少し呆けてしまう。学生をしつつ副業でモデルもやっています!と言われても、まあ驚きはしない。驚きはしないが、一体彼女はどちら様なのだろうか。生憎とモデル業界には疎いし、容姿端麗完璧人間、どこの婿に出しても恥をかかないようなセイイチならともかく、俺のような人間には彼女のような生物の知り合いはいないはずだ。


「えっとごめん。知り合いだったりする?」


先ほどまでの緊張はない。気になる程度に動悸はまだ続いているが、質問の答えの方が気になって多少気が紛れてくれていた。


「え」


一転、彼女の華のような笑顔が彫像のように固まる。自分の発言が招いた結果であり、失礼極まりないのだが、その様は中々に面白い。が、さすがに失礼なのですぐに我に返る。


「あれ、ごめん。知り合いだった、かな」


慌てて自分でも意味のわからない発言をすると、固まっていた彼女の表情が再度動き出す。先程よりもさらに大きく笑って。ついでに今度は、腹を抱えて。


「あはははは。だった、かなって。適当すぎるよ」


お腹痛い、とひとしきり笑う。……確かにあの発言は間抜け過ぎだ。なのだがさすがにここまで笑われると少々不愉快である。仮に目の前の美少女が兄だったのなら、最低でも三日は口をきかなくなるだろう。


「ごめんごめん、冗談。多分だけれど、後藤君は私の事を知らないよ。私は後藤君の事知っているけどね」


こちらが苦い顔で黙り込んだのを見てさすがに不味いと思ったのか、慌てて手を合わせてごめんなさいと繰り返す。顔が整っているというのは本当に厄介なもので、その仕草ですらもトキメキを覚えてしまう。奴もこういった利得を持ち合わせた結果あんな性格になったのだろうか。どちらが先なのかはさして問題ではないのだが――ん。というか今この子は、何と言った?


「俺を知っている?」


聞き間違いでなければ、確かに彼女はそう言った。耳は良くもないが悪くもないはずなので恐らく聞き間違いではない。どこぞのドラマでこういった展開を見た覚えがある。クライマックス直前国民的女優は目を潤ませながら、笑顔で主人公に向かって次にこう言うのだ。あなたの事が好きでした、と。

 まあ、自分には到底起り得ない事なのでさして浮かれる事もなく、何か別件であろうと彼女の返答を待つのだが。沖セイイチ。年中モテキの貴様のせいで俺の心は鉄になったのだ。


「あれぇ。私今ケッコウ意味深な発言をしたのですがー」


こちらの落ち着き払った様子が気に食わなかったのか、彼女はニヤつきながらも不満な様子でのたまう。何となくわかった。男にとっては結構厄介な性格をしているらしい。こういった手合に気を遣うのは馬鹿らしいので、遠慮なく言う事にした。


「免疫のない男子をからかわないでくれ。で、俺をどこで知ったの。あ、もうふざけるのはなしで」


目に「騙されんぞ」という気迫をのせ、ハッキリ言う。すると少し驚いた様子だった。

「免疫がない割にははっきり言うね」

が、それも一瞬でまた先ほどまでの華のような笑顔になる。本当に無様だ。あれやこれやと気を張ってはいるものの、結局こうやって笑顔に魅せられてしまう。彼女の手の平の上で踊らされているのではと、誰かに言われても否定は出来ない。

彼女はというと、そんな男の性の話など知りませんよと言わんばかりに「わかりましたよー」と一つ前の机に腰を掛ける。位置関係からして、スカート近辺が視覚的に危うい事になるのだが、彼女はまるで気にした様子はない。なので俺一人気にするのもそれはそれでおかしな話なわけで、足長いっすね程度の感想を抱きつつ彼女の返事を待つ事ととした。


「ま、と言っても詳しく知っているわけじゃないんだけどねー……」


困ったような観念したような様子で「うーん」とひとしきり唸る。その仕草に作為的な雰囲気は感じられず、どうやら本当に何やら悩んでいるようだ。とはいえ俺を知っているというのならその理由を吐いてしまえば良いわけで、一体何を悩むのかは甚だ疑問ではあるが。

更に数秒唸って、何か思い付いたように勢いよく立ち上がった。


「ね。ここでは何だし、お昼でも食べながら話さない?時間もちょうど良い頃合いだし。お腹空いてない?」


矢継ぎ早に言われてしまって、怪訝な表情をしつつも教室の時計を見る。時刻は十一時半。いい頃合いかどうかはともかく、小腹が空いてきたかどうかと問われればイエスである。


「小腹は、空いてはいる」


 嘘をつく理由も見当たらなかったので、ついつい正直に答えてしまう。それを聞くと満足げに「結構結構」と肩を二回叩かれた。女子に体を触れられるというのは健全な男子であるのなら悪い気はしない。それがこれほどの美貌をもった人物であるのなら尚の事。しかしどこか釈然としないのは、一体何故なのだろうか。


「じゃあ近場の喫茶店でサンドイッチでも一つ」


 一方の彼女はというとこちらの気など知りもせず、芝居がかった言い方をして、何故か自分の席へと戻っていく。…謎だ。一体どういった思考でそうするに至ったのか、そのまま教室を出て行ってしまった。


「……まだ、行くとは言ってないんだが」


 一人ごちて、仕方がないので彼女の後を追う。途中、何か上手く彼女を例えられないかと思案して、ああと思い付く。あれは、台風というやつだ。


 突如発生した台風――もとい、クラスメイトの少女はこちらに振り返る事なくきびきびと歩を進める。先程までのおちゃらけた雰囲気はどこへやら。ピンと伸びた背筋。一切の迷いなどないような歩み。カツカツと音を立てて大通りを歩くその様は、ランウェイを闊歩するファッションモデルを連想させる。

何か話かけようかとも思ったが、そういえば自分には気の利いた事は言えなかったと気付いたのでやめた。それにあれだけ饒舌だった彼女は教室からここまで一切口を開いてはいない。少しばかり不可解に思いつつも、とりあえずは流れに身を任せる事にする。もしかしたら「何か食べながら」と言った手前、着くまで口を開くつもりはないのかもしれない。まあ同世代には珍しいが、そういったメリハリのある性格は嫌いではないし、この沈黙も不思議と苦ではないから問題はないのだが。

歩き始めてそろそろ十分程経つだろうか。周りには少しずつ緑が増え、それとは逆に人工物は減っていた。あまりこの辺りに来た事がなかったので知らなかったが、周りには家屋も数える程しかない。街路樹のカーテンによって日の光もいくらか遮断されており、辺りは少し薄暗い。気付けば周りには人気もなく、日が落ちれば不審者の一人も現れそうで。


――まるで、二年前のあの場所を思い出す。



「おーい、後藤君。ここなんだけれど、いいかな」


言われて我に返る。少し前を歩いていたはずの彼女が随分離れた場所にいて、不思議そうにこちらを見ていた。頭に浮かんだ不吉なビジョンを、頭を振って隅に追いやる。もう終わった事だ。半ば強引に連れてこられたとは言え、無関係な彼女の前で呆けているというのは流石に失礼だ。


「ああ、構わないよ。好きにしてくれ」


 呆けていた事への謝罪の意味も込めて、彼女の好きなところで構わないという、恐らくは無用な気遣いをする。もしかしたら呆けていた事にすら気づかなかったかもしれないが、それで俺の中では帳消しにしてもらう事にする。

彼女が指を指す方向に目を向ける。


――その光景を見て、思わず息を呑んでしまった。


気付けば我々は大通りから少し逸れた場所に来ていたらしい。そこには小さな木造の建物があった。木目の看板には見慣れない細字のフォントで『喫茶店』とだけ書かれている。

 地面は舗装されておらず、荒れ放題というわけではないが家庭の芝生程整えられてはいない。周りを囲む樹木は大通りに生えていたものとは少しばかり様子が違う。形はどこか歪で、枝も所々伸びきっている。手入れはしているが行き届いていないといった感じが伝わってくる。どちらもおそらくは天然のものだろう。歩いた時間からしてもまだ山には入っていないはずだが、ここはまるで森の中だ。その小さな森の少し開けた場所に、そのロッジ風の喫茶店はこぢんまりと建っていた。恥ずかしい事を言うと、その様は童話に出てくるお菓子の家を彷彿とさせた。

その光景は男である自分から見ても神秘的で、なんだか感心してしまう。……兄の住むマンションもコンセプトは似たようなものだったと思うのだが、一体どこで差が出てしまったのだろうか。


「綺麗なところだな」


 つい正直な感想が口をつく。とっさに口を抑え彼女の様子を窺う。だが予想に反して小馬鹿にするような素振りは一切なく、ただ満足そうに「でしょ。私のお気に入り」と言って笑っただけだった。……こういうのは気にする方が馬鹿なのだろうか。それとも女々しいと思う事が時代遅れなのか。どちらにせよ、彼女に対する認識を今一度改める必要があるように思える。

中に入り彼女にならって席に着くと、店員は何も言わず笑顔でメニューとおしぼりを差し出す。喫茶店の中には水を出さない店も存在する、と聞いたことがある。理由は気にもならないが、どうやらここもそうであるらしく、辺りにはピッチャーのようなものも見当たらない。40台半ばと思しき男性店員はそのまま会釈をしてカウンターへと消えていった。

照明は最低限、店内は大方の予想通り薄暗く、席もさほど多くはない。昼時であるにも関わらず、客は俺たちの他に老夫婦一組だけのようだ。

店の立地、装いと相まって、出来過ぎだろうと一人心の中でごちる。狙ってやっているのだとしたらその徹底ぶりに感心を通り越して脱帽すらする。少しばかり悔しくて決して彼女には言いたくはない話であるが、どうやら俺の感性はこの店が甚く気に入ったらしい。

 メニューから空腹具合に見合う適当な物を見繕い、お互い決まると彼女は慣れた様子で手を挙げて店員を呼び、注文をする。店員が会釈をしてカウンターへ消えていくのを見計らって、さて、と彼女に向き直る。


「ん、どうかした?」


 が、これである。何よ改まってという顔をして、おしぼりを弄り倒している美少女女子校

生。先程教室で釈然としなかった理由が、何となしにわかったような気がする。そうこれは

間違いなく馬鹿にされている。先程認識を改めると言ったがそんなものは森の片隅に投棄

する事とする。穢れないウブな感情であれば自然を汚すこともあるまい。というか半ば無理

やり話を進められ連れてこられた結果がこれで何かしら思うところがあるというのは、人

間的に間違った部分は何もないと思う。


「お前……半ば無理やりこんなところまで連れてきておいてそれはないだろう。あ、この店

は気に入ったけどそれとこれとは話は別だからな」


 また話を逸らされないように予め予防線を張った結果、言いたくないはずの本音を言ってしまったような気がするが、この際どうでもいい。

この場所までは時間で言えば学校から20分程である。家に帰ろうとすると40分はかかるだろうか。歩くのは好きだ。好きだが、見ず知らずの人間に勝手に人参をぶら下げられた挙句お預けを食らい、更には知らんぷりを決め込まれればそれなりに怒りもする。


「気に入ってくれたのは素直に嬉しいけれど……なに?もしかして返事を待たずに教室を出て行ったのを怒っているの?嫌ならついてきた時に断ればよかったのに」


 節操なかったのはそっちでしょ、と言われぐうの音も出ない事に気付く。……甚だ遺憾ではあるが、言われてみれば確かにその通りである。20分も一緒に歩いていて断るタイミングがありませんでしたというのは、話として大分おかしい。


「いや、そうなんだが、そうじゃない」


 咄嗟に自分でもよくわからない返事をする。新生活、高校初日、クラスメイトの美少女、森の喫茶店。新しい環境に中てられて、俺はどうかしてしまったのかもしれない。そんな自分の発言に頭を抱える人間を見て、彼女は声を出して笑う。


「いやー、他の皆が蜘蛛の子を散らすように帰る中、落ち着き払って帰り自宅をしているものだから大人っぽいのかと思っていたけど。案外そうでもないんだねぇ」


 ニヤニヤと顔を歪ませて面白い面白いと一人頷く。非は俺にも確実にあったわけで、それは認めるが勿論俺は面白くない。どうにも彼女には敵わないような気がしてきて気が滅入るが、会話の主導権を握られたままうやむやにされるわけにはいかない。


「……わかった。それについては俺も悪い。いや俺が悪かった。悪かったから許してくれ。だからさっさと俺を知っている云々の理由を教えろ」

「発言から感情が読み取れないんだけど、それは謝っているの」


 飽きれたように言われるが、黙って彼女の返事を待つ。生憎とそう器用に感情表現できる程コミュニケーション能力には恵まれなかったのだ。さらに今はそこそこテンパってもいるので、多少の無理には目をつむっていただきたい。

 そんなけったいな発言を受けた彼女はというと、困ったような表情をしてまた唸る。次いで少し目を泳がせてからおしぼりを弄り、こちらの目を見て、またおしぼりを弄るという奇行に走り始めた。その様は見ていて中々に面白いのだが、また誤魔化されるわけにはいかない。


「何を遠慮する事があるんだよ。理由を言えばいいだけなのに。そもそもそう言って話かけてきたのはそっちなんだぞ」

「うーん……おっしゃる通りで」


 彼女の一際大きな目が限界まで細められている。普段であれば噴飯ものの光景だ。しかし彼女がここまで話たがらない理由がわからない。

ある程度唸って、終始弄り続けていたおしぼりを手から解放する。弄り続けていた割には形はとても綺麗で、法則性のある弄り方をしていたのかもしれない。

小さくため息をついて、遠慮がちな目でこちらを見据える。その様相はまたあのメロドラマを思い出すのだが、悲しい事にそうではないという自信は揺らがない。


「気を悪くしないで欲しいんだけど」


 伏し目がちに言って、またおしぼりをいじり出す。おしぼりの形は崩れないまま、また同じ動きを繰り返す。そのいじけた様子は大通りを歩いていた彼女とも、楽しそうに人をからかう彼女とも、まるで印象が異なる。


「内容にもよるけど、気にしないでいいよ」

「難しい事言うなぁ」


 仕返しだと言わんばかりに少し意地の悪い促し方をすると、遂に彼女はため息をついて机に突っ伏してしまった。まずい。調子に乗り過ぎたか。


「中学生の頃に、聖人と用心棒の話を聞いたの」


 そのまま顔を上げる事なく、小声で童謡のタイトルのような事を言う。

言われて、ああ、と納得した。実家のある金井市からときわ市までは電車で20分程。ここにそんなつまらない噂が流れてきても、そう不思議な事ではないのかもしれない。こうまでして話をしたがらないのは、そういう訳か。

 なるほどなとため息をつきそうになって、突っ伏したままの彼女の姿を見てすんでのところで飲み込む。まあ、もしも結末まで知っているのだとしたら、これはあまり気分の上向く話ではないだろう。そしてこの様子からして、恐らく彼女は最期を知っている。一向に話したがらなかった理由は、つまりそういう事か。


「随分と、つまんない話を」


 本当につまらない話だ。俺にとってはそれなりに人生観を変える程の出来事ではあったが、他人からしたらそこまで面白くもない話である。クラスメイトやあいつとの共通の友人が面白がって吹聴し、それを聞いた大人達が何を勘違いしたのか美談に仕立て上げてしまった。気付けば金井市ではそれなりに有名な噂話になってましたという、真実を聞けば何だそんなものかとがっかりするような武勇伝。別段この顛末が嫌というわけではないのだが、今時の若者が興味を示すというのは正直意外だった。

 きっかけは、ヒーローに憧れる子供のような羨望心だったように思える。あまりいい表現が見つからないが、まあそんな感じの英雄願望だ。

小学生の頃、人気の文房具が盗まれるという、小さな事件が起きた。

放課後のHRで担任が言う。


『皆さん目を閉じて下さい。絶対に開けてはいけません。では盗った人は正直に手を挙げて下さい』


 担任の若い男性教師はそんなありきたりなルールを設けて、とりあえずのけじめとして加害者に微量な配慮をしつつ犯人探しが始まったのだ。子供心にこんな事をしたって白状するわけがないのに、なんて思ったっけ。この頃から既に捻くれている辺り、将来有望で絶望的である。

 しかし、気の小さい犯人は意外にもあっさりと手を挙げて御用となり、担任のルールに従わなかった悪ガキたちによってその事実は瞬く間にクラス中に知れ渡った。

……何というか、今思い返しても担任に落ち度があると思う。

小学生でも『盗む』という行為は立派な『悪』だと認識しているもので、そこから当たり前のようにイジメが始まった。良い気分はしなかったが、盗んだ本人にも問題があると捻くれたクソガキは思ったのだ。それは俺だけではない。誰もが自己防衛という名の仮面を被って、不干渉に徹したのだ。その後親友になる沖セイイチ一人を除いて。

 長引くであろうと思われたそれは、クラス中の予想に反してあっさりと止んだ。

イジメの止んだ日。あいつはその現場を初めて目撃して、即座に被害者と加害者の間に割って入った。何の躊躇もなく『これは良くない事だから止めようよ』と言って。捻くれたクソガキはというと、そいつの行動に何故だか腹を立てていたような覚えがある。

 皆が唖然とする中いじめっ子が『そいつは悪い事をした』と癇癪を起こしていたっけ。それに対しあいつは子供とは思えない毅然とした態度で『君のやっている事も悪い事だよ』なんて返していた。気付けば俺を含めクラス中の視線があいつの次の動向を追っていた。

 いじめっ子を諭す一方でいじめられっ子に対しても『人の物を盗むのは悪い事だよね』なんて強い口調で戒め泣かせてしまう。かと思いきや『先生は黙っていたけれどもう皆知っているし、今ここで謝ろう』なんて笑顔で促しはじめたのだ。それを早熟と、一言で言ってしまうのは簡単だ。だがあいつはその一言では足らない。それは俺個人の錯覚だったかもしれないが、沖セイイチはどこか人間離れした雰囲気を持っていたのだ。

 驚いたのはここからの展開だった。クソガキは終始呆気にとられていたような記憶がある。

まず最初に驚いたのはあいつの態度があまりにも大人びていたせいか、どちらも素直に言う事を聞き、お互いに謝り出したところ。今さっきまでいじめを行っていた子供が同い年の子供に諭されて謝るというのは、ある種異様な光景とも言えた。

 で、ここが一番驚いたというかアホか馬鹿かと思った所。奴は彼らが一通り謝り終えるとこれでもかというぐらいのとびきりの笑顔で『じゃあ皆で遊ぼうよ』と宣ったのだ。

 俺ですらポカンとしていたのだ。どいつもこいつもポカンとしていたに違いない。

 和解したとは言え、人間関係というのはすぐに修復できるものではない。それは俺たちが子供だからではない。成長した今尚思う。大人ですらも、それは酷く難しい事なのだ。

 が、そんなものは我々凡人の常識だったようで、あいつは心底楽しそうに遊び始め、元通りにするどころかいじめっ子といじめられっ子。彼らを親友にまでしてしまったのだった。

 なんだそりゃ、と思ったものだ。世界にどれだけこんなうまい話があるだろうか。結果は誰も不幸にならない文句のつけようのないハッピーエンドであった。

文句はなかったしあいつの行動には諸手をあげて賞賛を送りたかったが、クソガキはどこか納得がいかなかったので、小さなヒーローに不満をぶつける事にしたのだ。…正直今でも疑問に思う。内気な俺は一体何故あんな行動に出たのだろうか。まあ、きっと羞恥心だとか諸々な部分が未熟な子供だったのだろう。

 ケチをつけるわけじゃないが、世の中そうそう上手くいかない事もある。一歩間違えればお前がああなっていたかもしれない。クソガキはそんな感じの事を、子供ながらに伝えた気がする。やはり捻くれているが、その疑問は今でも時々思ってしまう。

 あいつはそれを聞くとポカンとして、心底おかしそうに『君もタイガイだけどね』なんて言って笑った。大概、なんて言葉を使う辺り、やっぱりあいつはどこか普通の子供とは違ったのだろう。意味のわからなかった俺は必死に問い質し、理解すると無性に腹が立って『そんなにキレイなものじゃない』と怒った。俺が言った事はつまり、あいつを助けるなという事だぞ、と。

 それを聞いてあいつは難しい顔で笑った後『それは今重要な事じゃない。君は僕を心配してくれた。それが今大事な事だ。それにあの子達はもう仲良しだ。何も問題ないじゃないか』と言って、一度言葉を切る。そして少し気恥ずかしそうな仕草をしてから

『それに、もし僕が失敗しても。君はきっと助けてくれるでしょ』

なんて、イタズラっぽく言ったのだ。

 羨望心を向けた相手からの信頼というものには、捻くれた子供の性格を矯正するだけの効力があったらしい。

 冷め切っていた心に火を入れられたような、そんな感覚だった。仕方がないからと傍観者に徹していた自分に恥を感じるとともに、あいつの行いを美しいと思った。その行いを穢したくないと思った。クソガキは子供ながらに、あいつを助けてやりたいと思ったのだ。

 子供の頃の俺はとても褒められるような人間ではなかったと思う。今も大して変わりはしないが。ガキの癖にどこか現実的で、下手をすれば今よりも斜に構えていた気がする。けれどあいつの行いを見て、あいつのようになりたいと切に思った。そうしてあいつの後を追っかけて、車に轢かれそうになった子供を身を挺して助けたり、引っ手繰り犯を追っかけ回して捕まえたり。そんな善行紛いの事を繰り替えす内に、気付けばあいつは聖人と称され、俺は用心棒と呼ばれるようになった。子供特有のチープな噂話で心底恥ずかしいのだが、残念な事にその噂は地元金井市では有名だったようだ。


「あんな噂話聞いて、本人に話しかけてみようだなんて思うか普通」


 やはりというかやっぱりというか、彼女は変わっているのかもしれない。つい話の流れから謝ってしまったが、先程の行動には問題があると思うし。勿論俺が一切悪くないとは言わないが。

 件の変わり者はというと、まだ机に突っ伏したままだったりする。もう二年も前の話で関係者も軒並み心機一転再スタートを切っているわけで。有体に言えばもう終わった事であり、そんなに気にする事でもないのだが。こうなってしまう辺り、彼女は変わり者ではあるが悪い人間ではないらしい。


「もう二年も前の事だし、終わった事でもある。気にかけてくれるのは素直に嬉しいけどさ。お互い疲れるし止めにしようぜ」


 さすがに気の毒であるし居心地もあまり良くないので、どうにか元に戻ってもらうべく優しく言ってみたのだがまるで効果がない。どうやら思った以上に重症なようだ。

 憚る事なくため息をついて、少し思案する。結果良ければすべて良しだなという結論が出たので、さっさと彼女には元に戻ってもらう事にした。


「というかだな、あいつが死んだの知ってて興味本位で俺に話しかければこうなる事ぐらい予想出来ただろうに。それで勝手に凹むっていうのは少し間抜けじゃないか」


 間抜け、という言葉に反応してピクリと動く。思った通り、彼女には湿っぽい慰めよりもこういう言葉の方が効くようだ。少しばかり心が痛むが、これも致し方ない。


「……間抜けは酷くありませんか」


突っ伏しながら小さな声で言う。その言葉には少しばかり怒気が含まれていた。


「事実だし。後先考えないで行動するからさっきも俺が謝るハメになったんだぞ」


 言われて、ついにガバッと体を起こす変わり者。その体は今にも爆発するぞと言わんばかりにわなわなと震えていた。


「……それはあなたにも落ち度があったじゃない」

「だからさっき謝った。まあ、つまりは俺の方が大人だったという話だな」

「へぇ?」


 あ、なんか面白い顔になった。


「大人。大人ですか。ええ確かに私はどうにも要領が悪いですよ。けどメルヘンなお店見て『綺麗だ』なんてぬかしつつ女々しいかなぁ、なんて恥ずかしがる人には言われたくはないかなー!」


 赤い顔で饒舌に捲し立てる。何だか思わぬところで反撃を食らってしまった。あんな純粋に笑ってくれたから気付かれなかったと思ったのだが、世の中そうそう旨い話はないらしい。


「油断できねーなホント。余裕がなくなったら弱点にジャブ連打か」

「あら、ラッシュをかけて決めにいくのは基本よ」


 本当に油断ならない。カウンターで止めを刺しに来ていたらしい。


「わかったよ、今のは俺が言い過ぎた。腹も減ったしメシ食おうぜ。ほれ体どけろ、よく来る店で仕事の邪魔はしたくないだろ」


 先程のように、何とも絶妙なタイミングで店員がサンドイッチと紅茶を運んでくる。今はその奇妙ともとれる間の良さに感謝したい。

 得意げだったボクサーはというと、何だか気まずい顔をして口を抑え、こちらを見たと思ったら視線を逸らし、かと思えば下を向いて青ざめた顔で何やら考え込んでしまった。表情がコロコロ変わる人間というのは、見ていて本当に面白い。


「……もしかして気使ってくれた?」

「多少」


 反射的に返すと、彼女はため息をついてだらしなく背もたれにもたれかかり、卵の入ったサンドイッチに手を付ける。その表情にもう翳りはない。


「……わかりづらー……やっぱりどこか似ているのよねぇ…」


サンドイッチを頬張りながら彼女はよくわからない事を言う。


「似ている?」


 気になって聞き返すと、まずったという表情をする。が、それも一瞬でティーカップに手をかけつつ観念したように話し始めた。


「昔お世話になった人に、少し似ているのよ。…もしかしたら、似ていたから話しかけたくなったのかもしれないわね」


 まるで一人事のように彼女は言う。その表情にはどこか翳りがあるように感じた。


「ま、何にせよ気を使わせてごめん」


 と思いきや、ずるずると紅茶を啜りながら片手でジェスチャーをする。その顔は教室で見たそれと同じで、ひとまず安心する。


「この店に免じて許す」


 冗談っぽく言うと、彼女もまた冗談っぽく「ははー」などと大仰に頭を下げる。その際こちらの反応をチラチラと窺っていて、思わず吹き出してしまった。


「下手くそだなぁ……ところで今更だけど。そろそろ自己紹介してくれ」


そういえばと思いだしたように言う。何で今まで気にもしなかったのか。名前を知っておかないとこれから色々と不便がありそうだし、機嫌が良いうちに聞いておこう。それにしても名前も知らない人間とこれだけ長い時間話すというのは、中々体験し得ない事ではないだろうか。

 彼女は、ああ、と手を打ってティーカップを置く。そして改まった様子で遅まきの自己紹介を始めた。


「ん、そうだったそうだった。私は興梠。興梠チトセ。まあ後藤君にだったら呼び捨てにされてもいいかな」


 イタズラっぽく笑って、また教室の時のようにこちらの様子をニヤニヤと窺う。望むところだ。この際だから免疫がないのを興梠で克服してやる。


「元からそのつもりだけど」

「うわー、予想通りドライ」

「そういう人間なんだから仕方がない」


 不思議なもので、こういった時間というのはすぐに過ぎてしまう。店内の時計を見れば時刻は一時を回っていた。偉人の言う事は難しくてよくわからないが、アインシュタインの有名なジョークには両手を挙げて賛成する。

 二人とも綺麗に完食し、いい頃合いだし解散するかという話になって席を立つ。

 会計の際、店の窓ガラスに映る自分の顔はだらしなくニヤついていた。気持ちが悪い事この上ないのだが、こればっかりは許してほしい。捻くれた人間ではあるが、今日は心底楽しかったのだ。

 誰かとあれだけ長い時間話したのは、随分久しぶりな気がする。それも知り合いのほとんどがあれだけ蓋をしていたあいつに関わる話だ。彼女にはああ言ったが、あいつの話をしていたのにこうやって笑顔で店を後に出来るというのは少々意外だった。これは偏に興梠の才能なのだと思う。何にせよ暗雲漂う高校生活に一筋の光が見えたような気がしないでもない。

 まあそれとは別のところの話なのだが。悲しいかな男というのは単純なもので、ただああやって女の子と話をしたという事実だけで、気分がだらしなく上向いてしまう生き物なのだ。



 興梠と別れて坂を下っていく。彼女の家は更に上の方にあるらしい。不便そうだとも思ったが、あの店を気に入っているのだ。憶測でしかないが、彼女にとってそういった不利益は些細な事のような気がした。

 まだ時刻は一時過ぎ。家に帰っても特にやることもないので、学校の近くにある商店街に立ち寄る事にした。これから暮らしていく町なのだ。今のうちに散策しておいて損はあるまい。

 目的地に着くとそこは多くの人で賑わっていた。発展的な駅前と比べ、ここの商店街は少し古めかしい。見ようによっては古き良きアーケード街なのだが、若者が満足しそうな店はあまり多くはなさそうだ。兄貴がこっちはそんなに面白くはない、と大雑把に言っていた理由が、なんとなくわかった気がする。

 気分は穏やかだ。朝あれだけ緊張していた自分は、もういない。きっとそれはつい先程まで一緒にいた彼女のお陰なのだろう。


「――女性の遺体が発見されました」


 不意に、女性の声が聞こえる。大通りにある、今時珍しい個人経営の電気店。その店頭に並べられたテレビの中で、アナウンサーは緊迫した様子で速報を読み上げていた。


「女性は昨日夕方から行方がわからなくなっており、警察が捜索したところ、飲食店のダストボックスの中から遺体で発見されました。ときわ市では昨日も用水路内で女性の遺体が見つかっており、警察は同一犯の可能性もあると見て――」


 悪い冗談だ。今朝ニュースで流れていた事件は、どうやらこの町で起きていた事らしい。それも立て続けに遺体が見つかり、警察によると同一犯の犯行のようだ。つまり俗に言う、連続殺人。

――二年前のあれも、そんなチープな呼ばれ方をしていた。

 金井市で起きた中学生ばかりを狙った連続殺人事件。沖セイイチを含め三人の犠牲者を出した、金井市始まって以来の未曾有の大惨事。

 いつの世の中にも、人殺しというものは存在するらしい。


「…………」


 不意に、不穏な考えが頭を過ぎる。

 殺されたのはどちらも若い女性だった。一人は学生だという。同じ学校かは今重要な事ではない。犯人は若い女性を標的にしている。――もし、この町に住む彼女が殺されたら。あんな花のような人間が、沖セイイチのようにある日突然あっさり死んでしまったら。

 頭を過ぎる不穏な考えを意識してかき消そうと試みるが、それは自分の手を離れたように消えかけては再燃する。人間の頭の不出来さに、今は腹が立って仕方がない。

 唐突に――背後に人の気配がした。斜め後方に振り返る。

 後ろには、興梠にも見劣りしない程の美少女が立っていた。彼女よりも背は低く、瞳の色素は同じ日本人とは思えない程薄い。その表情に色はなく、感情はまるで読み取れない。人懐っこい興梠がひまわりだとしたら、どこか近寄り難い彼女は一輪の薔薇だった。

 こちらの視線に気付いたらしく、その色素の薄い瞳がこちらに向けられる。吸いこまれそうな瞳、というのはこういう物を言うのだろう。名の知れた彫像を前にした時のような不思議な感覚に囚われる。


「こんにちは」


 見惚れていると、唐突に彼女は口を開いた。表情は先程と変わっていない。冷たさもないが温かみもない、淡々としたそんな口調。少し気まずさを感じながらも、会釈を返した。

 すると値踏みするような、そんな視線を向けてくる。数秒してから視線を外すと、会釈をして立ち去っていく。

 学生だろうか。年の頃は恐らく俺とそう変わらないだろう。しかし制服を着てはいなかった。丈の長いプリーツスカートと七分袖のシャツは、どちらも黒を基調としている。それは彼女の日本人離れした外見にこの上なく合っていたが、どこか喪服じみていて人を寄せ付けない雰囲気を醸し出していた。

 立ち去っていく姿を目で追っていると、彼女は思い出したようにこちらに振り返る。そして先程と寸分たがわぬ表情で、口調で、静かに、しかし凛とした声で言ったのだ。


「言うまでもない事だとは思うけれど。夜道には、努々気をつけて」


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