朝聞夕死
汽笛が鳴ったから踏切を遠ざけた。電車は死の象徴だ。圓谷はあれに連れられて消えた。
圓谷が死んだと聞いた時、俺は正直悲しみの裏でほっとした。圓谷がもう長いこと様々な精神疾患に苦しんでいたことを知っていた。医者から出されたものとはいえ、毎日それが食事の代わりになりそうなくらいの量の薬を飲んで、「こんなことをしてまで人は生きていないといけないんだな」と言って笑っていた。その度に俺もつられて笑った。あんな冗句で笑うことができたのは、俺もまた圓谷の抱える問題に共感していたが為だった。「俺にはお前の気持ちが分かる」なんてあまりに響きが安っぽい上に彼の苦悩を軽んじているようでついに言えなかったが、今となってみれば、その陳腐な告白はまた今とは違う展開を運んできたかもしれない。俺は好きで圓谷に付き合っているつもりでいたが、その実、いつもこうして自分についてをなにひとつとして彼に打ち明けられないことを後悔ばかりしていた。
圓谷は電車に飛び込んで死んだ。まだ明るい内のことだったらしい。俺はその場にいなかった。彼の妹から「ついに」と連絡が来たのはその日をもうまたごうという頃で、ちょうど眠りに付こうとしていたのをいきなり覚醒させられたものだ。彼女からのメールは非常にシンプルで、「ついに兄が死にました」というたった一文だけだった。それだけで充分だった。俺はそれを見てすぐ、彼女に電話した。「はい」と応えた彼女の声は冷静だった。
「飛坂さん、何か兄から聞いていました?」
俺はどきりとした。彼女の話によれば、圓谷の部屋の中はほとんど空っぽの状態で、この一件が計画的なものであったことは明白であるのにも関わらず、遺書が見当たらないらしい。圓谷は普段から物を書くことを好み、筆まめな方であったから、それが気がかりなのだそうだ。彼女は、「兄の性格なら確実に手紙を遺すと思うの」とひとりごとのように言った。
「普段の様子からいつこうなってもおかしくないとは、思っていました。でもあまりに突然で。あれを選んだきっかけがあったんじゃないかしら、だとしたら手紙にするんじゃないかしらって……そうでなければ、飛坂さんは兄のたったひとりのお友達ですから、何か聞いているんじゃないかと思って」
「………………」
「わたし、落ち着かないんです。兄は、本当に、病気で死んだのかしら?」
彼女は言葉を言い替えた。
「兄は、病気に殺されたのかしら」
俺はこれを聞いて、情け知らずにも、彼の実妹にさえ真相を秘すことを決めた。
正直に言おう。俺は圓谷から遺書を渡されていた。それは圓谷が死ぬたった一日前のことだった。遺書と呼んでいいものかは、俺に判断のつくことではなかったが、それでも意味のある手紙が届いていたのは間違いなかった。手紙の内容は次の通りである。
『飛坂知也君へ
多忙な飛坂君のことだから、もしやまだ十月に入ったことにも気が付いていないのではないかな。十月に入りました。まだ少し暑いけれど、じきに秋らしく涼しくなるのだろうね。季節の変わり目は体調を崩しやすいと聞きます。外食に頼るのも良いが、たまにはちゃんと栄養のあるものを食べるように。
手紙を書くのは、久しぶりになります。というのも、最近はペン一本持てる気力が湧かず、怠惰にばかりしていました。しかし、そうしている中でも、気づきというのは溢れている。僕は近頃、文学が僕の人生に与えてくれた意味について考えていた。君が知っている通り、僕は本を読んだり文章を書いたりすることが好きで、君と語るその多くの場合も、僕等は一冊の本を間にはさんでいる。少し大げさな名前を付けるけれど、僕のこうした「文学生活」は、飛坂君という貴重な友人をつれてきてくれた。これはしょっちゅう口にする事なのだけれど、そもそもの始まりは、一遍の詩を見つけたことだった。僕はその詩を読んだ時、それまでただ広大なばかりだった真っ暗な空間に、初めて火が登場したことに気付いたんだ。それは太陽のように、あるいは松明の様に僕のいる世界を照らしてくれた。真っ赤で熱い炎だった。あんな感激を言葉から得られるなんて、それまでの僕には考えもつかないことだったよ。はじめて僕の目はいろいろな物を正しく映すようになったんだ。しかしそれはまた、僕にとっての試練でもあった。僕は受け入れがたい現実を直視してしまう勇気をそこから得たが為に、幻視や幻聴など、余計なものまで抱え込むはめになってしまった。ところが、混乱した僕は、ここでもまた詩を見つけるんだ。その詩は熱い炎では無かったが、ひやりと気持ちよく僕に寄り添ってくれた。そして僕の混乱した視界に、秩序を与えた。これにはどれほど助けられたかわからない。僕は自分の見ているものの全てを、その詩人と共有しているような気がした。それは実際錯覚だったんだろうけれど、でも、それは僕に幻覚を美しいと思える価値観をくれた。それのおかげで、僕の心はどんどん変わった。傍目からは気の狂った病人に違いないが、僕はただ生きていれば得難い貴重なこれらのものを手に入れた、いわば、なんだろう、ああ、幸せ者なんだ。実際。
しかしその幸せ者を幸せ者たらしめる幸福とは、結局のところ、気休めでしかないことには、いくら僕程の愚か者でも気づいていた。僕はいつの間にか、とにかく本を貪って暮らし、満足した気になっていたが、最近になってついにそれが耐えられなくなってきた。ハリボテの幸せの表面をなぞるたびに、僕の耳元で囁く呪詛がその声のボリュームを上げる。いつまで逃げ続けるのか? いつまで知らない振りをし続けるのか? 僕は尋ね返す。僕が一体何から逃げていると言うのか? すると耳元のそいつはこう答えるんだ。「死ぬことからだ」と。
そう、僕のもう幼い頃から長いこと、実に長いこと付き合ってくれているその幻聴は、僕が無意識のうち、「死」から逃げていることに気づいていた。なんせ僕が死ぬことを望み始めた頃から傍に居る奴だ。とはいえ、さすがの僕も些かそれに懐疑的だった。なんで死から逃げることが悪いことみたいに言われているんだろうか? いいや、その問いも表面的で僕の核に触れられない。僕が聞きたいのは次のことだ。「そもそもなぜ、死から逃げる必要があるのか?」
世間では、自殺は愚かなことだと噂されている。僕は、……わからない。何とも言えない。ただそれが起こっている、ということだけが確かだ。この世には確かに、その道を選ばざるを得ない人がいる。かつて僕は、そういう人たちの助けになりたいと思っていた。それを志すことがまた僕自身をも助けることだと思っていた。しかし実際はどうだろう。僕のその大志さえ、実は現実逃避にしか過ぎなくて、そして、もしや、もしやついに、僕は死に追い付かれたのではないか。そしてもう、ついに、もしや、これ以上逃げることはできないのではないか。』
俺は昔、圓谷と共に何度か来た墓地を訪れた。今回はひとりでの来訪となった。この町を嫌う圓谷が、ここだけは珍しく気に入っていた。短い坂を上った先にある小さな墓地で、しげった木々の僅かに開けたところからは市立の中学校が見える。今日も複数の生徒の声が聞こえてきた。恐らくは運動部が活動中なのだろう。健康的な若々しい声で、単調な発声を繰り返している。他に人がいないのをいいことに、俺は適当なところに腰を下ろした。ここに圓谷の眠る場所は無い。ああ、お参りではないのだ。俺は隣に置いたビニール袋の中から、缶ビールを一本取り出して、開けた。ひとくちあおると、いやに苦みが濃く感じた。
青緑の風が吹いて、俺は遠くを見渡した。中学校とこの墓地の正面には、連なった田んぼと小屋、民家がぽつぽつと見える。細い道路の上を走る車は無い。小さな小さな田舎町だ。ここが俺と圓谷の、生まれ育った町。改めて言う。俺は自分の口下手に甘えて、圓谷に何も自分のことを語らなかった。こうなってしまった今、伝えておけばよかったと思うことはたくさんある。しかし、その中でもとりわけ言いたいことといえば、たったひとつ。お前と同じく、俺も、この町が大嫌いだったんだ。
そんなことを考えて、俺はハッとした。居ても立っても居られない、強烈な焦りが急に沸騰した。俺は、圓谷が手紙に書いた「死」について、突然すべてを理解した。
「なあ圓谷、俺達が本当に見つめるべきは、そんな大層な物じゃなかった」
気づけば日は暮れて、俺は浅い川の中をざぶざぶ歩いていた。手には猫を持っていた。不思議な感覚であった。猫のひげが水の中でそよそよなびくのを感じていた。俺の胸の中をしめるのは諦めだった。それははっきりわかっている、そのつもりなのだが、体全体がふわふわと浮いているようで、何だか現実味がない。カプセルの中に詰められたようで、水の冷たさや夜の恐ろしさが感じられない。全てが直接響かない。ああ、圓谷に尋ねたい。俺の唇は情けなく震えた。お前に追い付いた「死」は、お前と一緒に死んでくれたか――その生き物を、俺に残したのは何故か。




