土下座と記憶と憎しみと
ぼくは、墜ちていく。今はいじめっ子、かつては幼なじみだった剛志とつかみ合ったまま、高校の非常階段からはるか下のコンクリートの地面目がけ、まっさかさまに墜ちていく。そもそもは彼が、いつものようにぼくに「土下座して靴を舐めろ」と強要したのがきっかけだった。断ったがもみ合いになり、その結果緩んでいた柵のネジが外れ、そして…。
数年後の同窓会、ホテルの会場ホールの入口をくぐった瞬間、目の前に立つ剛志を見て、ぼくの口からは「あ、ごめん…」何もしてないのに、つい謝罪の言葉が出かかった。
その瞬間、剛志が土下座した。
「すみません!」毛足の長いカーペットの上、ぼくの足元にひれ伏し、涙を流して詫びる剛志。「謝るから。この通り謝りますから。殴るのだけは、勘弁してください」顔を伏せたまま震えている。
ぼくはほくそ笑み、剛志に命じた。「じゃあ、ぼくの靴を舐めろよ」
剛志は情けない表情をしたが、すぐにぼくの革靴を犬のように卑しく舐めはじめた。
「ははははは! いい気味だ。はは!」
ぼくの高笑いがホール中に響いた。元クラスメイトの皆も笑っている。ぼくの心は、勝利の恍惚に酔いしれた。
「あら、笑ってる」翔悟の母は、包帯で頭部をすっぽり包まれた翔悟の頬が僅かに動くのを見て複雑な表情になった。「こんなに顔色もいいのに、目覚めることがないなんて…」
「しかし、脳が潰滅し死亡した相手、剛志君の無事だった脳内記憶補助NANDメモリ、つまり『バイオ・メモリ』を、翔悟君の脳内にきちんと移植できたことは奇跡です。剛志君とは逆に脳は無事でしたが、翔悟君はバイオ・メモリが損傷し使いものになりませんでしたから。互いの欠けた部分が補完できただけでも、成功と言えます」若い外科医が言う。
「その結果、二人の記憶が混在したり、記憶内で互いの行動主体が入れ替わったりすることがあると聞きましたが」父が聞く。
「剛志君の思い出と翔悟君の思い出が混じるわけですから、かつて剛志君がしたことを翔悟君が行うといったことも、今の翔悟君の脳内では起こり得るでしょう。翔悟君も、本来あくまで〝補助〟の役割のメモリに、余りに過度の記憶を預けすぎていたようですから…」
「仕方ないわ。今の子たちの傾向だもの。けど小さい頃は、本当に仲良しだったんだからせめて夢の中では、仲直りでもしてくれてればいいのに」母はようやく白い歯を見せた。
ホールで卑屈な剛志の姿を見ているうちに、ぼくの中の彼への憎しみが加速度的に倍加していく。ぼくは思わず、剛志が舐めていた靴を蹴り上げた。鈍い音がし、「うぐっ」剛志が口もとを押さえてのけぞった。快楽が背筋を走る。ぼくはゾクゾクした。しかし剛志のぼくを見る目に、いつの間にか憎しみの炎が宿り始めているのに気がついた。
「何だ、その反抗的な目は。生意気なんだよ、剛志のくせに」もう一度、足を振りあげた。
「更に一点だけ申し上げます。彼らのバイオ・メモリは一世代前の旧式です。強い脳波などの刺激があると、メモリ内の〝記憶の出入口〟の役目を果たす『トンネル酸化膜』が磨耗・劣化し、機能しなくなってしまいます」病室の医師は、遠慮がちに続けた。「あまりに強い感情的刺激を脳内に生じた場合、強い電圧がかかりメモリが機能不全を起こすのです。つまり大事な記憶が消去されたり、逆に関係ない記憶が大量に書き込まれて消去できずそのまま永久的に固着してしまうこともあるのです…。それだけはご承知おきください」
「生意気なんだよ、剛志のくせに」
剛志のこめかみを思いきり蹴り飛ばした瞬間、ぼくの頭の中を強い電流のような、えも言われぬ快感が疾走した。バチン、ヒューズが飛ぶような音がし、一瞬周囲が真っ暗になった。再び明るくなると、周囲が剛志だらけになっている。どこから来たのか、幼少時から現在まで、様々な背格好、表情の剛志が立っている。しかし皆、一様にぼくへの強い怒りに殺気立っている点だけが同じだった。
「…よう…」いつの間にか、土下座していた剛志が血まみれの顔で立ち上がっている。「よくもやってくれたな…」目には、煮えたぎる怒りといつもの自信がみなぎっている。
「うわ…」
ぼくは後ずさりした。
しかし全方位を無数の剛志に囲まれ、逃げ道はない。クラスメイトは、皆消えている。
絶望に囚われたぼくに向かい、無数の剛志たちが、拳を鳴らしながら距離を詰めてくる。
「今ごろは、〝記憶〟と言う永遠の空間の中で、剛志君と仲直りでもしてるのかしら…」
父と向き合った母は、ようやく小さな笑みを見せた。医師も優しく頷いている。
その時、窒息したようなくぐもった声が翔悟の口から微かに漏れたことに、病室の誰も気付かなかった。
2011年4月17日に書き上げた作品です。