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胡蝶の夢、彼岸花

木曜日、朝7時40分。待ち合わせに10分遅刻してきた桂子が、着くなり興奮した様子で口を開いた。

「今すれ違った人、超格好よくなかった? 」

「ごめん見てなかった。はい、これ昨日言ってた本」

本当はそのすれ違った人とやらも彼女をぼうっとした目で追っていたのを、私は知っている。だけど彼女の興味は既に彼から離れてしまった。彼女はいつもこうなのだ。


「ありがと。どこの本屋行っても売り切れで困ってたんだよね。どうしてもこの本読んでからじゃないと勉強する気になんなくて。テスト前だってのにごめんね」

「読んだって勉強しないでしょ、毎回余裕で赤点取るんだから」

「えへ、バレたった」

桂子は本で口を隠すようにしてにんまりと笑う。

ミルクティみたいに柔らかで甘い茶色の髪が、歩く度にふわふわ揺れる。大きなつり目は洋猫のような気品を漂わせていて、控えめながら主張を忘れない唇はまるで桜の花びら。私の理想をすべて持ち合わせた桂子は、何より大切な宝物。


「最近あの文化祭で出会ったって彼氏の話聞かないね」

「あ、楓高の人? 一週間前に別れちゃった。こないだ一緒に食事行ったんだけどさ、食べ方が超汚くて、なんかもう一瞬で冷めちゃった。あはは」

「残念」

「やっぱり莉子以上に私のこと分かってくれる人なんていないんだよねぇ」

「そうかもね」

私たちは微笑み合う。

ねぇ桂子、私は心からそう思ってる。


「あ、おはようございまーす」

昇降口で出会った教師が私たちを見比べて言う。

「橙野桂子、最近随分髪が茶色いんじゃないのか? スカート丈も隣の赤岸に比べると規定違反バレバレだぞ。来週の頭髪検査までに直しておけよ」

「はーい。じゃあ先生、黒く染めたら国語の点数おまけしてよね」

「努力次第だな。しかし本当にお前らは一緒に居るのが似合わんよなぁ」

こんなふざけた態度をとっても、教師は怒るどころかちょっと笑いながら去っていく。桂子以上に誰からも好かれる人を、私は知らない。


「全教科満点と全教科赤点だもん、ちょっと莉子の点数わけてくれても罰は当たらないとか思っちゃうよね」

「でも私、体育は平均以下だよ」

「とじなべにぶた?」

「割れ鍋に綴じ蓋、のことかな」

「そそ。ふたりでひとり。あー、今日もミスドで勉強会したいんだけどいいかな。次こそ赤点脱出目指して頑張りたい。やっぱり悔しい」

「今きたばっかりなのに放課後の話? じゃあドーナツ3個で1教科ね」

「よーし! 今日は桂子ちゃんのおごりだー! まかせとけー! 」


そんな会話をしていると間もなく教室に着いた。私たちの席は窓際の前から3番目と4番目。机に鞄を置きながら何気なく外へ目をやると、校舎前の花壇でビニール傘をさして突っ立っている学生姿が目に入った。

「なんで傘さしてんの? 雨降ってないよー」

同時に気付いたらしい桂子の声が声をかける。気付いた彼がこちらを見上げた。


「 。」


何か呟いたように見えたが、聞き取ることはできなかった。彼はそのまま、また花壇に向き直る。

「変わった人だね」

「うん」

桂子は始業のベルが鳴るまで、ずっと彼のことを見つめていた。

そして私は、ずっとその後ろ姿を眺めていた。


「あのビニール傘の人、紫垣千秋って言って、なんか病気で長いこと入院してた人らしいよ。さっき隣のクラスの子が話してた。2組に今日から来たんだって」

放課後、帰り支度をしていると唐突に桂子から彼の話題を振ってきた。

「ふーん」

「入学したときから格好良くて評判だったのに超変わり者で、日向に居ると倒れちゃうんだって」

「へぇ」

「でね、あのビニール傘は入院する前から有名で、あの傘からは金木犀の匂いがするんだって」

「そう」

「金木犀の匂いは蝶々が嫌いな成分が入ってるらしいんだけど、莉子知ってる? 」

「知らない」

「あの花壇には朝顔がいっぱい咲いてて、赤い朝顔が咲くと死人が出るってこの学校の七不思議の」

ガタン。喋り続ける桂子の言葉を遮るように席を立った。


「あの人に興味があるのは桂子であって、私じゃないよ」

「……そうだよね、ごめん」

「用事思い出したから、勉強会はまた今度にしよう。じゃあね」

「莉子! 」

ドアを閉めるその瞬間、桂子が泣きそうな顔をしているのが見えた。きっと、私も同じような顔をしていると思う。桂子が誰かに夢中になることなんて今までに何度もあったのに、今回は言いようのない不安感に襲われていた。


好きって気持ちがこんなにも人を醜くするなんて知らなかった。


翌日から、桂子は学校を休んだ。

メールも電話もないままに一週間が経ち、久しぶりに登校してきた彼女の姿に教室がざわめく。桂子は漆黒の髪をぱつんと切りそろえ、制服をすっきり着こなしていた。

「おはよう」

そう言ってぎこちなく微笑んだ目元はちょっと赤い。今まで見たことのなかった銀縁のメガネが凛と輝いている。

「橙野さんどしたの?! イメチェンってレベルじゃないよ〜それ」

「でも似合ってるよね、なんか生徒会っぽい」

「スカートって新調したの? すごいね」

「やっぱ可愛い子は何やっても可愛いよ〜」

またたく間に女生徒たちが桂子を取り囲んで、結局私と桂子が話すことはできなかった。


放課後、教室にビニール傘を携えた紫垣千秋がやってきた。

「桂子ちゃん、一緒に帰ろ」

相変わらず桂子の周囲に居たグループのひとりが素っ頓狂な声をあげる。

「えっ、橙野さんって千秋くんと知り合い?」

「うん、友達」

休んでいた間に何があったのか、私は知らない。知りたくもない。彼女が教師たちに嫌味や小言を言われても変えることのなかった容姿を180度変えた理由も。


「莉子も一緒に帰ろうよ」

桂子が振り向いて言った。


「用事があるから」

「じゃあ私も一緒に行くよ」

「一人で行きたいから」

「なんで、どうしてそんなこと言うの」

「それはこっちの台詞なんだけど」


騒然とする教室の雰囲気に嫌気がさして、鞄を抱えるようにして廊下の方へ向かう。紫垣千秋はドアに寄り掛かって気怠そうにこちらを見ている。


「莉子ちゃん、桂子ちゃんに悪気がないの知ってるでしょう」

「あなたに莉子ちゃんなんて呼ばれる筋合いはありません」

「……ふたりともすぐ忘れちゃうんだもん、困っちゃうよ」

彼が笑ったその顔に、見覚えがあるような気がする。

「まだおまじないは好き?」

その言葉で、私はすべてを思い出してしまった。


「来週の土曜日、千秋くんが動物園に行きたいって言うから一緒に行こうよ」

「たまにはふたりで行ったら」

「だって千秋くんのことも莉子のことも同じくらい好きなんだもん」

知ってるよ。私が桂子と同じくらい千秋くんを好きだったことも、桂子が私と同じくらい千秋くんを好きだったことも、千秋くんがずっと私と桂子を好きでいてくれたことも。


「莉子は今、好きな人とかいないの?」

「恋ならしてるよ、ずっと」

恋人なんかよりずっと近くで想ってる。


「おはよう、桂子ちゃん、莉子ちゃん」

目を閉じても、彼はどこへも行かない。

ずっとずっと一緒にいるんだ。

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