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胡蝶の夢、金木犀

「それじゃあママ帰るけど、また明日のお昼になったら来るからね、さびしいだろうけど我慢してね」

ママの手がやさしくぼくの頭をなでた。

「うん、大丈夫だよ」

ぼくがそう言うとママは泣きそうな顔で笑って、ぼくのランドセルと体操袋を抱えて部屋から出ていった。ママのハイヒールの音が遠くなっていく。きっとまた会社に仕事をしに戻るんだ、と思った。


はじめての入院。

体育の授業中にとつぜん目の前が真っ暗になって、そのまま救急車で運ばれた。なにがなんだかよくわからないまま今日から入院することになってしまって、ぼくよりもママの方が心配しているみたいだった。ぼくは今、どこまでも白い病室の、ひっそり静まり返った空間にひとりきり。前におじいちゃんのお見舞いにきたときは6人部屋で、みんなで将棋をしたりテレビを見たりおせんべいを食べたりして、すごく楽しそうにしていたのを覚えている。ぼくもできればそっちの方がよかった。だけど、きっとママがぼくのためを思ってひとり部屋にしてくれたんだから、文句を言ってはいけないんだ。


夕方に看護婦さんがやってきて、夕飯を食べて体温を計って、それからまたひとりになった。ママが置いていってくれた漢字ドリルをやったりマンガを読んだりしていたけど、すぐ飽きてしまった。ベッドにもぐって目をつぶってみても、ちっとも眠くならない。まだ夜の8時。いつもだったらママと猫のモモコと一緒にテレビを見ている時間だ。カーテンのすきまからちょっとだけ外をのぞいてみる。


病院の向かいにある公園に、ちらちらと光る電灯。その下にぼんやりと浮かぶ、ベンチに座る人影。

「ゆう、れい」

心臓がドキリと大きく鳴った。カーテンを握る手が強くなる。ぎゅっと。ぎゅっと。爪が手のひらに食い込んで痛い。だけど力を弱めることができない。だめだ、このままじゃ気付かれる。あのひとがこっちを向いてしまう。ちらり。目が合った。女の人の、あざやかなオレンジ色に光るふたつの目。ふっと力が抜けて、体育の時間に味わったのとまた同じ感覚がやってきた。真っ暗になる。真っ暗に、


「……あれ? 」

気がつくと、ぼくの目はまた天井を見つめていた。消したと思った電気がついていて、ふかふかのベッドの中に胸から下がすっぽり包まれている。夢、だったのかな。


「やあ」


真っ白だった天井がオレンジ色に染まる。オレンジの中に、目をまあるく見開いたぼくが映っている。鼻と鼻が触れ合いそうな距離に、女の人の顔があった。

「ひぐっ……」

「おいおい、病院では静かにって教わってるだろう? 」

女の人の冷たい指がぼくの口を優しく、でも決して開かないように押さえつける。

「まさか君のようなお子ちゃまに気付かれてしまうとは思ってなかった。これはやんごとなき大失態だ」

首を伸ばすようにして頭をずらし、女の人が立っているはずの位置を見てみる。当たり前のように真っ白な壁があって、そこから胴体がにょっきりと生えている。

「君は一度した約束を守れるかな? できるなら手を離してもいい。できないならこのまま君の命をもらっていく。どうかな、悪い条件ではないと思う」

にっこりと笑う女の人に向かって必死にうなずくと、出会ったことを誰にも話さない、という約束で手を離してくれた。


「自己紹介がまだだったね。私はこの病院を守るいい神様だ」

「いいかみさま? 」

ママとよく似たスーツを着たその女の人は、胸の前で祈るようなポーズをした。

「そうだ、いたいけな子羊たちの命が好き勝手に奪い去られないように、わるい神様からこの病院の命を守っている」

「わるいかみさま……死神のこと? 」

「君は頭がいいな、いい神様になれる素質を持ってる」

ベッドに腰掛けて足を組んだ女の人、本人いわくいい神様は名前を桂子ちゃんと言うらしい。なんでもとてもいい人生を送ったのが神様の神様に認められて、いい神様に生まれ変わったのだそうだ。


「君の名前は千秋というのか、いい名前だ」

「でも女の子みたいだって言われるから好きじゃないよ」

「好きじゃないなら名前だけもらっちゃおうか」

「なくなったら困るから大丈夫」

「ふふ。冗談だよ、名前は神様が授けるものじゃないからね、勝手に奪ったりできないんだだ。……おっと、もうそろそろ行かなくては。短い時間だったけど楽しかったよ、千秋」

「また会えるかな、ここひとりで寂しいんだ」

桂子ちゃんはもちろんだとも、と言いながらぽんぽんと頭をなでてくれた。ママと同じ優しい手。ふわふわ鼻をくすぐる金木犀のにおい。だけどその手は、やっぱりひどく冷たかった。


桂子ちゃんがいなくなって、時計を見た。針は夜8時少し前を指している。桂子ちゃんを見つける前と変わっていないけれど、秒針はちゃんと動いている。

「きっとこれもいい神様の力なんだ」

なんとなく納得して目をとじる。意識がすっと溶けていくような、ふしぎな感覚。そしてぼくは、さっきまで眠れなかったのが嘘のようにぐっすりと眠ってしまった。


「昨日はよく眠れた? 」

次の日、ママは面会時間ちょうどに現れた。

「うん、とってもよく眠れた」

「なんだか顔色もいいみたい。安心した」

そう言ってイスに座るママの方が、なんだか青白い顔をしている気がした。

「ママ、具合悪いんじゃないの? 」

「ママは大丈夫。日曜日にはパパも来てくれるって言ってたから……あら? 千秋、お外に出たの?」

ママがぼくの髪についていた金木犀の花を指でつまんで見せてくれた。きっと桂子ちゃんがぼくの頭をなでてくれた時についたんだ。

「ううん、お外は出てないよ」

「じゃあ看護婦さんが連れてきちゃったのかな」

「どうだろ、ぼくわかんない」

ママについた、はじめての嘘。桂子ちゃんと会ったことは誰にも言わないって約束したから。それなのにすぐぼくに見つかるし、会ったことがバレるようなものをわざわざ残していっちゃうし、神様なのになんておっちょこちょいなんだろう。そう思ったらなんだかとてもおかしくなって、ぼくはクスクス笑ってしまった。


しばらくいろんな話をした。

あれからみんながお見舞いに来たいと言ってくれていることや、となりの席の莉子ちゃんがふたり分ノートをとって一週間ごとに届けてくれること。入院は冬休みが終わるころまで続くかも知れないこと。パパは会社の人に了解してもらったので、これから毎週日曜日に家に来てくれること。ぼくのためにみんながいろいろしてくれるのが、なんだかちょっとだけ嬉しいと思ってしまう。


ママがこれから仕事があるからと言って立ち上がったとき、入れ替わりに看護婦さんが入ってきた。ママがおじぎをして出ていくと、看護婦さんがニヤリと笑う。

「やあ、また会ったねぇ」

「桂子ちゃん! 看護婦さんだったの? 」

「ふふふ、これは世を忍ぶ仮の姿なのだ。いつ死神が襲ってくるとも限らないからね」

ボールペンをくるりと回して得意げそうに言う桂子ちゃん。

「髪に金木犀の花がついてたよ、おかげで桂子ちゃんと会ったことがバレちゃうんじゃないかってヒヤヒヤしたんだから」

「あ、取っちゃだめだよ。君を守るお守りなんだ」

「でもまたついてたら怪しまれちゃう」

桂子ちゃんはしばらく悩んだあと、胸ポケットから蝶々の模様が入ったあめ玉をくれた。金木犀と同じオレンジ色をしている。

「これを舐めるといい」

「……にがいよ、すごく」

「良薬は口に苦しと言うからね、いい男になりたかったら我慢して舐めなさい。また仕事の合間に遊びにくるよ」

右手をひらひらと蝶々のように振りながら、桂子ちゃんは部屋を出ていく。昨日はあんなに寂しかったのに、今日は全然寂しくない。


桂子ちゃんがいなくなったあと本を読んでいたらまた目の前が真っ暗になった。ゆっくりとベッドに横になる。真っ暗な視界の中で、真っ赤な朝顔が咲いているのが見えた。これはもう夢なのかな。からだがすごく熱い。目を開けても目を閉じても同じ景色。なんだか息が苦しい。


「はぁっ」

思いきりため息をつくと、ぼくの口の中からたくさんの蝶々が飛び出してきた。金木犀の匂いをさせながら一斉に朝顔に向かって飛んでいく。すごい。桂子ちゃんが戻ってきたら教えてあげよう。そう思って目を閉じてまた開いた瞬間、パパとママの泣き顔が見えた。せっかく久しぶりに会えたのに泣かないで。


目を閉じる。朝顔が半分に減っていた。その下には蝶々がばらばらになってたくさん積もっている。ぼくが息をするたびに蝶々が生まれては死んでいく。

目を開ける。莉子ちゃんがぼくの胸に覆いかぶさって泣いていた。ごめんね、ノート受け取れなかった。

目を閉じる。朝顔はほとんど無くなって、ばらばらになった蝶々が辺り一面を埋め尽くしている。

目を開ける。目の前に桂子ちゃんの顔があった。オレンジ色の瞳からぽたぽたと涙が垂れて、ぼくの顔にかかる。桂子ちゃんはどうしていつもそんなに悲しそうな顔で泣くんだろう。笑ってる方が可愛いのに。


「またね、桂子ちゃん」

目を閉じる。

そこにはもう、何もなかった。

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