胡蝶の夢、朝顔
ぴぴぴぴぴぴぴぴぴ、ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴ……
アラームの設定時間より早く鳴り出した携帯電話。おかしいな、今日はバイト休みのはずなのに。そう思いながら携帯の画面を見てみると、電話の主は母だった。
出たくないので、しばらくそのまま画面とにらめっこをする。まもなく留守電に切り替わったので、おそるおそる耳に押し当ててみた。
『桂子、あなた何も言ってこないけど就職のこととかちゃんと考えてる? 卒業はできそうなの? この先、一体どうするつもりなのかお父さんも心配してます、連絡ください。じゃあね』
ぴーーーーーーーー。
目の前が真っ暗になるってこんな感じを言うんだと思う。全身から力が抜けて、足の方から得体の知れない何かが這い上がってくるような感覚。ものすごい勢いで憂鬱の波に飲み込まれていく。桂子ちゃんの爽やかな朝よ、サヨウナラ。大学生活のために始めた一人暮らし。しかし大学四年生の秋だというのに、就職どころか企業説明会どころか学校自体ろくに行っていなかったなんて言えるわけがない。いつかはバレてしまうだろうけど、っていうかもうそろそろ勘のいい母のことだからバレているのかもしれないけど、だけど今さら何が出来るっていうのだ。そう開き直ってごろんと寝返りを打とうとしてそのまま地面にしたたかに腰を打ちつけた。
「いたっ」
……よし、今日こそアルバイト以外の目的で外出しよう、そうしよう。えいっと飛び起きてカーテンを開ける。まったく、もう夕方も近いというのにきらきらした日差しが憎たらしい。
よれよれのパジャマを脱ぎながら思案を巡らせてみたものの、特に思いつくものも先立つものもないし、ここは近所をぶらぶらと歩いて光合成でもするしかなさそうだ。もしゃもしゃと昨日の食べかけのメロンパンを口に入れて、その辺にあったシャツにカーディガンを羽織って外に出る。
ぼんやりと、できるだけ日陰を選んで歩く。
道の途中にある本屋や百円均一ショップ、ちょっと大きめの文具店なんかに立ち寄ってはみたものの、特にこれといった収穫もなく気付けば駅まで来てしまった。引き返すのも億劫なので駅の逆側をとぼとぼ歩いていると、なんだか懐かしい景色に出くわした。
病院を挟んだ道路向かいに、ちいさくて人気のない公園がぽつんとあった。こっち側にくることなんて滅多にないからまったく知らなかった。公園と言っても、あるのは錆だらけのブランコだけ。実家とは遠く離れた場所だから実際の景色と多少の相違はあるだろうけれど、それは幼い頃見た景色にそっくりだった。公園を囲う緑色のフェンスにはびっしりと朝顔のツタが絡み付いて、薄青や薄紫の花を咲かせている。さながら秘密の花園のような雰囲気だな、と思う。そして私の足はまるで何かに導かれるかのように公園の中へ歩き出す。ブランコの脇に悠然と佇む大木の前で足を止める。これも同じだ。目をとじて、右手をそっと幹に押し当てる。ちいさい頃の私は、なにかあの木に願い事をしていたような……。
「『千秋くん』」
ふわっと、頭の中に誰かの影が浮かび上がる。千秋くんって誰だっけ?
「なにしてるの」
突然後ろで声がして、ぞわりと冷たいものが足下から這い上がってくるのを感じた。振り返ると、そこに居たのはランドセルを背負った小学生の男の子だった。違う、千秋くんじゃない。当たり前なのにほっとしている自分がいる。だって千秋くんがここに居るわけがない。千秋くんはあの病院で、
「ちょっとね、木とお話をしてた」
「ふうん」
男の子は私の隣に立って、真似するように右手を幹にあてる。真っ白な腕だ。
「ぼくも話せるかな」
「うん、でも修行しないとなかなかうまく話せるようにはならないかも」
「そっか」
男の子はまっすぐ私の目を見た。
「ところで、さっき言ってた千秋くんってだれ? 」
「……友達、昔の」
「ずっと忘れちゃってたくらい、昔の? 」
ランドセル姿に似合わない、大人びた表情と台詞。さっき感じた冷たいものが、ぴたりと肩のあたりに貼り付いているような感覚。それ以上、彼に応える言葉が出てこない。そのまま視界がぐるぐると回りはじめて、私の意識は千秋くんと一緒に学校へ通っていた頃へと引き戻されていった。
「けーいこちゃん」
団地の下から声が聞こえる。
「ほら桂子、もう千秋くん来ちゃったよ」
鏡の前で髪を二つ結びにしていると、お母さんが部屋からランドセルを持ってきてくれた。
「いま行くー! 」
ベランダから下で待っている千秋くんに向かって手をぶんぶんと振ると、千秋くんも両手を振って返してくれた。今日も変わらずやっさしー千秋くん。ふたりともコスモス団地に住んでいて、幼稚園からずっと同じクラスで、わたしの一番のおともだち。
「ごめんね、いつも待たせちゃって」
「ぼくも今来たとこ。行こ」
どちらからともなく手をにぎる。それも幼稚園のころから。一緒に行って一緒に帰ってきて、千秋くんのママの帰りが遅いときはうちで一緒にカレーを食べたりなんかして、そのまま日曜日はお泊まりしたりなんかして。それも幼稚園のころから。わたしの一番のおともだちだから。
「桂子ちゃんと千秋くんが両思いって本当? 」
休み時間、莉子ちゃんがこっそり近寄って話しかけてきた。
「ちがうよ、千秋くんとは小さい頃からのただのともだちってだけ」
本当はそんなこと全然思ってないけど、千秋くんの心はわたしから揺るがないって分かってたからうそをついた。
「本当に? じゃあお願いしたいことがあるんだけど、桂子ちゃんにしか頼めないの」
そしてわたしは、そのうそをすぐに後悔することになったんだ。
「千秋くん、髪の毛一本くれない」
「髪の毛? いいよ」
さらさらでくせのない髪の毛を、千秋くんはひょいと抜いてわたしの手のひらに乗せた。
「あー、やっぱりもう一本」
「変な桂子ちゃん」
そう笑って、もう一本くれた。
ひとつは莉子ちゃんの分、もうひとつはわたしの分。莉子ちゃんが言ってた、ふたりが両思いになれるおまじない。莉子ちゃんの気持ちがわたしの気持ちより強いことなんてあるわけないけど、でもおまじない効果で莉子ちゃんの気持ちがわたしと同じくらいになっちゃって、わたしの千秋くんがわたしのものじゃなくなっちゃうのはいやだった。だったら莉子ちゃんがおまじないをした次の日に同じおまじないをすればいい。じゃんけんだって後だしした方が勝てるんだ。そう思った。
莉子ちゃんが嬉しそうにおまじないをしたって教えてくれた日の放課後。
彼女が言っていた通り、ピンク色の折り紙に好きな人の名前を書いて髪の毛と朝顔のタネを包んでハートの形に折って、団地のすぐそばにある公園の木の下へ埋めた。次の日から千秋くんは学校に来なくなった。理由は先生が教えてくれなかった。わたしがあんなうそついて、莉子ちゃんにいじわるして千秋くんを手にいれようとしたから、そのせいで千秋くんに会えなくなっちゃった。罰が当たったんだって思った。
一回だけお母さんと一緒に行ったお見舞いの日。
千秋くんは静かに眠っていて、泣きつかれた顔をした千秋くんのママからもう二度と目覚めないかも知れないって言われた。それから一度もお見舞いに行くことができずに、気がつけば学年も変わって、彼の席がなくなって、いつの間にか彼のこと自体忘れてしまって。
中学生になってからはじめて金木犀が香った日。
学校から帰って来たら突然、テーブル脇でうずくまっていた母から聞かされた。
「千秋くんが亡くなったって」
最低だけど、一瞬だけ千秋くんって誰だっけ? って思った。そしてあっという間にいろんなことを思い出して、それからまたすべてに全部心の中で蓋をして、母には「ふーん」ってだけ返事した。これからお通夜が行われるって聞いて、制服のまま家を飛び出してあの木の下まで走った。素手のままであの木の下のピンク色の折り紙を探して地面を掘った。だけど掘っても掘っても掘っても掘っても地面が血だか涙だか雨だかよくわからないぐちゃぐちゃの液体に塗れても、あの折り紙は出てこなかった。あの日まできっとわたしのものだった千秋くんはあの日を境にずっとわたしのものじゃなくなってしまったんだ。
「忘れちゃってた昔は、忘れちゃいたかった昔なんでしょ」
まるで夢を見ているような表情だ、と思う。男の子はいつのまにかブランコにひとりで腰掛けていた。キコ、キコという規則的な音が耳に響く。
指先が酷く冷たい。男の子の顔をじっと見つめる。やっぱり彼は千秋くんじゃない。じゃあ一体誰なんだろう? 視線を感じた男の子が優しく笑った。そしてその後ろで、夕焼けに照らされたフェンスの朝顔たちがオレンジではなく真紅に染まろうとしているのに気付いた。
血のような赤。
男の子がブランコからこちらへ一歩近づく。それに合わせて、こちらも一歩後ろへ退く。もう一歩。さらに一歩と思ったとき、膝がかくんと崩れてそのまま後ろへ尻餅をついてしまった。男の子の影が私の膝に重なる。彼がどんな表情をしているのか確かめるのがこわくて、顔をあげることが出来ない。こぶしをぎゅっと握りしめたそのとき、突然ポケットに入れていた携帯電話が鳴り出した。
ぴぴぴぴぴぴぴぴぴ、ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴ……
慌てて取り出して画面を確認する。非通知。
誰からなのかも分からない着信が、私を現実へと還す。
「またね、桂子ちゃん」
そう呟いた男の子の姿は、もうどこにもなかった。