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婚約破棄されましたが、わたくしが恋をしていたのは殿下の恋文を書いていた方です

作者: みぎみみ
掲載日:2026/10/25

 大広間のシャンデリアは、千本の蝋燭で燃えていた。蜜蝋の甘い匂いと、三百人分の香水と、楽団の弦の音が、天井の高いところで混ざり合っている。


 その真ん中で楽団の演奏が止まった。


「ベアトリス・ローデン!」


 王太子オルランド殿下の声はよく通る。よく通るように、幼いころから教師に鍛えられた声だ。わたくしは手にしていた果実水のグラスを近くの給仕の盆にそっと戻した。


「僕は今夜、ここで君との婚約を破棄する!」


 ざわめきが波のように広間の端まで走った。扇が開く音。誰かが息をのむ音。グラスが一つ、どこかで床に落ちて割れた。


 殿下の隣には、淡い桃色のドレスの令嬢が立っていた。ふわふわの蜂蜜色の髪。ジゼル・ミルフォード男爵令嬢。この半年、殿下がお茶会のたびに隣に座らせている方だ。ジゼル様は殿下の腕にしがみつきながら、わたくしを見て困ったように眉を下げた。


 ああ、とうとう。


 わたくしはドレスの裾をつまんで一歩前に出た。


「理由をお聞かせいただけますか」


「理由? 分からないのか、君は」


 殿下の金の巻き毛が、蝋燭の光に揺れた。


「君は冷たい。二年間、僕がどれだけ心をこめて手紙を書いたと思っている。八十四通だ。八十四通、僕は君に愛を綴った。君は顔を合わせても、ろくに笑いもしない。ジゼルは違う。ジゼルは僕が一言話しかけるだけで、花が咲くように笑ってくれる」


 八十四通。


 わたくしの喉の奥で、小さな笑いがはじけそうになった。扇を開いて、口元を隠す。


 殿下、それは数え違いでございます。八十四通ではなく、八十五通。いちばん最初の一通は、季節のご挨拶だけの短いものでしたから、お忘れなのでしょう。


 もっとも、殿下が数を覚えていらっしゃらないのは無理もないことだった。


 殿下はその八十五通のうち、一通も、ご自分ではお書きになっていないのだから。


 扇の陰から、わたくしは殿下の背後に目をやった。


 広間の壁ぎわ、柱の影。殿下の側近たちが並ぶ、さらに後ろ。紺色の地味な上着を着た青年が、書類の束を胸に抱えて立っている。眼鏡の奥の目がまっすぐにこちらを見ていた。


 顔色が紙のように白い。


 王太子付き書記官、ユーリ・ヴェント。


 わたくしが二年のあいだ、恋文を受け取り続けた方だった。




 最初の手紙が届いたのは二年前の春だった。


 婚約が決まってひと月。殿下とはお茶会で三度お会いしていた。三度とも、殿下は狩りの話と、新しい馬の話と、ご自分の剣の腕前の話をなさった。わたくしが好きな本の話をしようとすると、殿下はあくびを噛み殺した。


 この方と、一生。


 三度目のお茶会のあと、帰りの馬車の中で、わたくしは窓の外の雨を見ながら、そっと手袋を握りしめた。悲しいとは思わなかった。公爵家の娘に生まれた以上、そういうものだと分かっていた。分かっていたけれど、胸の真ん中が、少しだけ冷たかった。


 その二日後、殿下から手紙が届いた。


 封を切ると、ほのかに杜松《ねず》の匂いがした。冬の森の、すっとした匂い。便箋は薄い象牙色。


 ――先日のお茶会で、ベアトリス様の左の手袋の、人差し指の先に、小さなインクの染みがありました。きっと、出がけまで何か書きものをなさっていたのでしょう。何を書いていらしたのか、とても気になっています。


 わたくしは馬車の中で読んでいたその手紙を膝の上に落とした。


 左の手袋。インクの染み。


 たしかに、あった。あの日、出かける直前まで、読みかけの詩集に感想を書きこんでいた。染みに気づいたのは馬車に乗ってからで慌てて手を膝の下に隠した。隠したつもりだった。


 殿下は狩りの話をしていた。わたくしの手など、一度もご覧にならなかった。


 ――なのに、この手紙は。


 その夜、わたくしは返事を書いた。詩集のことを書いた。好きな詩人のこと、雨の日に庭の東屋で本を読むのが好きなこと。書きながら、指先が少し震えていた。こんなに長い手紙を書いたのは、生まれてはじめてだった。


 次の手紙は五日後に届いた。


 ――雨の日の東屋は、屋根を打つ音が、本の頁をめくる音と重なって、きっと心地よいのでしょうね。ベアトリス様のお好きな詩人の、「三月の窓」を読みました。最後の一行で、私は思わず本を閉じて窓を開けました。


 わたくしは手紙を胸に押し当てた。


 心臓がうるさかった。


 それから、手紙は五日に一度、ときには三日に一度届いた。わたくしが書けば、必ず返事が来た。わたくしが書いた一行を相手はちゃんと拾ってくれた。庭の木蓮が咲いたこと。乳母が腰を痛めたこと。新しい靴で踵を擦りむいたこと。どんな小さなことにも、返事があった。


 お茶会では殿下は相変わらず狩りの話をなさった。


 わたくしはそれでもいいと思った。手紙の中の殿下と、目の前の殿下が、少し違って見えるのは、きっと殿下が人前では照れていらっしゃるからだ。そう、思おうとした。


 五通目の手紙が来たあと、わたくしは一つ試した。


 お茶会の席でわたくしは「三月の窓」の話をした。最後の一行で、窓を開けたくなりましたわ、と。殿下は紅茶のカップを持ったまま、きょとんとなさった。


「三月の……何だって? 詩か。僕は詩はさっぱりでね」


 わたくしはカップを受け皿に戻した。かちり、と小さな音がした。


 ――違う。


 この方ではない。


 胸の奥がすうっと冷えていった。冷えて、それから、なぜか熱くなった。


 では誰が。


 あの手紙を書いているのは誰なの。




 それからの一年、わたくしは手紙の主を探した。


 筆跡は殿下の公式の書状とは違う。殿下の書状は王宮の書記官たちが清書している。清書の字はどれも整っていて、癖がない。手紙の字はそれよりも少しだけ右に傾いていて、文の終わりのはねが長い。


 そして、わたくしの名前の頭の一文字、その最後の線を必ず小さく輪にして閉じる。


 その癖をわたくしは、王宮の廊下で見つけた。


 春の終わり。父の用で王宮の書記局を訪ねたとき、机の上に置きっぱなしの書類があった。北の街道の修繕についての報告書。署名は王太子付き書記官、ユーリ・ヴェント。


 報告書の中に、「ブレンナー橋」という言葉があった。わたくしの名前と同じ頭文字。その最後の線が小さな輪になって閉じていた。


 わたくしはその場に立ち尽くした。


「――あの、失礼いたしました」


 背後で声がした。


 振り返ると、紺色の上着の青年が、両手に書類の山を抱えて立っていた。眼鏡。くせのある栗色の髪。指先がインクで青黒く染まっている。


 杜松の匂いがした。


「そ、その書類は、私の……あの、ローデン公爵令嬢でいらっしゃいますね。たいへん失礼いたしました。お見苦しいものを」


 青年は慌てて机の上の報告書を集めた。集めながら、わたくしの顔を一度も見なかった。耳が真っ赤だった。書類の山が崩れかけて青年は小さく「あ」と言った。


 わたくしは手を伸ばして落ちかけた一枚を支えた。


 指先が一瞬だけ、触れた。インクで汚れた、細くて少し冷たい指。


「……ありがとう、ございます」


 青年は深く頭を下げて、逃げるように書記局の奥へ消えていった。


 わたくしは自分の指先を見つめた。


 この方だ。


 この方がわたくしの手袋の染みに気づいてくださった。雨の東屋の音を想像してくださった。乳母の腰を案じてくださった。「三月の窓」を読んで窓を開けてくださった。


 息が苦しかった。


 うれしくて苦しかった。会えたのに、名前も分かったのに、わたくしには何もできない。わたくしは王太子殿下の婚約者で、あの方は殿下の書記官で、あの方が書いているのは殿下の名前の手紙だ。


 あの方は命じられて書いているだけ。


 わたくしの返事は、殿下宛ての手紙としてあの方に読まれているだけ。


 帰りの馬車で、わたくしは、はじめて少し泣いた。


 泣きながら、それでも、家に帰ると机に向かった。その日の返事を書いた。殿下へ、と書き出して、そのあとは、あの方に向けて書いた。インクで汚れた指が、この便箋を開くところを思い浮かべながら。


 一度だけ、わたくしはずるいことをした。


 書記局を訪ねた日から十日ほどあとの手紙に、わたくしはこう書いたのだ。


 ――先日、父の用で王宮の書記局に参りました。書類の山を抱えて、落としかけていらした書記官の方がいらっしゃいました。わたくしが一枚支えましたら、たいそう恐縮なさって、耳まで赤くしておいででした。殿下の書記官の方々は、皆さまあのように働き者なのでしょうか。どうぞ、あの方に、無理をなさらないようにとお伝えくださいませ。


 書いてから、封をする前に、三度読み返した。三度とも、破いてしまおうかと思った。


 破かずに、出した。


 いつもなら五日で来る返事が、その時は七日かかった。


 封を切ると、便箋の右上に、小さなインクの染みがあった。ペン先を長いこと紙の上で止めていたときにできる染みだ。わたくしの手袋の染みと、同じ形をしていた。


 ――ベアトリス様のお言葉は、確かに書記官に伝えました。その者は一晩、眠れなかったようです。書類を落としかけたところを見られたのが恥ずかしかったのか、それとも、別の理由なのかは、本人にも分からないと申しておりました。


 ただ、無理をするなと言っていただいたのは、生まれてはじめてだそうです。


 わたくしはその手紙を膝の上で何度も撫でた。


 殿下の名前の、殿下の手紙。書いてあるのは殿下の書記官の話。それでも、わたくしには分かった。この一通だけはほんの少しだけ、殿下の名前の陰から、あの方の声が聞こえていた。


 一晩、眠れなかった。


 わたくしも、その夜は眠れなかった。


 そうしてもう一年。


 八十五通の手紙は、全部、わたくしの部屋の、鍵のかかる文箱にしまってある。




「何とか言ったらどうだ、ベアトリス!」


 殿下の声で、わたくしは大広間に引き戻された。


 三百人の目がわたくしに集まっている。殿下は胸を張り、ジゼル様は殿下の腕の陰から心配そうにこちらをうかがい、殿下の側近たちは薄く笑っていた。


 広間の端、公爵家の席で父が立ち上がりかけていた。白い髭の下で口が固く結ばれている。わたくしは父に向かって小さく首を横に振った。


 父は眉を寄せたまま、椅子に腰を戻した。


 わたくしは扇を閉じた。


「婚約の破棄、謹んでお受けいたします」


 広間がしんと静まり返った。


 殿下の口がぽかんと開いた。


「……え?」


「殿下のお心がジゼル様にあるのなら、わたくしがお引きとめする理由はございません。どうぞ、お幸せに」


 わたくしはドレスの裾を持ち上げて深く礼をした。


 顔を上げると、殿下は、拍子抜けしたように目をしばたたいていた。泣いてすがりつくとでも、思っていらしたのだろう。冷たいと言われた女が、冷たくふるまっただけなのに。


「ただ、一つだけ、お伺いしてもよろしいですか」


「な、何だ」


「殿下からいただいたお手紙、二年分、八十五通。これはお返ししなくてもよろしいでしょうか」


 殿下は鼻を鳴らした。


「好きにしろ。燃やすなり、何なり」


「ありがとうございます。燃やしはいたしません。……殿下がお書きになったものでは、ありませんから」


 沈黙が一拍。


 それから、広間がどよめいた。さっきの婚約破棄の宣言より、ずっと大きなどよめきだった。


 殿下の顔から、血の気が引いていった。


「な、何を言っている。あれは僕が」


「では、殿下。わたくしが二年前に、二通目のお手紙のお返事に書いた詩人の名前を覚えていらっしゃいますか」


「そ、そんなもの、いちいち」


「殿下は、三通目のお手紙で、その詩人の『三月の窓』をお読みになったと書いてくださいました。最後の一行で、思わず本を閉じて、窓を開けた、と」


 わたくしは殿下をまっすぐに見た。


「その最後の一行を教えてくださいませ」


 殿下の唇が震えた。開いて、閉じてまた開いた。


 何も、出てこなかった。


 広間のあちこちで、扇の陰のささやきが広がっていく。王太子殿下が恋文を代筆させていた。二年も。公爵令嬢に。


「――殿下?」


 小さな声がした。


 ジゼル様だった。殿下の腕にしがみついていた手をそっと離している。大きな目が殿下の顔を見上げていた。


「あの、殿下。あたしにくださったお手紙も、最初のころ、とってもすてきだったんです。あたしの髪の色を秋の麦畑みたいだって書いてくださって。あたし、あれで殿下のこと」


「ジ、ジゼル、それは」


「でも、先月から、お手紙の感じが、変わって」


 ジゼル様は小さな手提げ袋から、折りたたんだ便箋を一枚取り出した。


「先週いただいたの、綴りが三つ間違ってて。あたしの名前も、頭の字が違ってて。あたし、殿下がお忙しいんだと思って、気にしないようにしてたんですけど……」


 ジゼル様の声がだんだん小さくなっていく。


「最初のお手紙も、殿下が書いたんじゃ、ないんですか?」


 殿下は答えなかった。


 答えないまま、首だけをぐるりと後ろへ向けた。


 柱の影。紺色の上着。書類の束を胸に抱えた、眼鏡の青年。


「ヴェント!」


 殿下の怒鳴り声が、天井に跳ね返った。


「お前だな。お前が余計なことを書いたからだ! 僕は、もっと短く、適当に書けと言ったはずだ。それをお前が、勝手に、ベアトリスに……ジゼルにも! 先月から書かなかったのもお前が勝手に!」


 三百人の目が一斉に、柱の影へ向いた。


 ユーリ様は書類の束を抱えたまま、一歩前に出た。


 眼鏡の奥の目が殿下を見て、それから、ほんの一瞬だけ、わたくしを見た。


 わたくしの心臓が、どくん、と鳴った。


「……おっしゃるとおりでございます、殿下」


 ユーリ様の声は小さかった。小さかったけれど、広間の隅まではっきり届いた。


「ベアトリス様への手紙は、すべて私が書きました。殿下のお名前で殿下のご命令で。ジゼル様へのものも、先月までは」


「ほら見ろ!」


「先月から書くのをやめたのは私の一存です。お叱りはいかようにも」


 ユーリ様は深く頭を下げた。書類を抱えた腕が、細かく震えていた。


「お前は、クビだ」


 殿下が吐き捨てるように言った。


「いや、クビでは済まない。王族の名を騙って公爵令嬢をたぶらかした。牢だ。衛兵! こいつを――」


 わたくしの体が勝手に動いていた。


 ドレスの裾をからげて、大理石の床をまっすぐに。三百人のあいだを抜けて、殿下の前を通りすぎて柱の影へ。


 ユーリ様の前に、立った。


 背中に、殿下の視線を感じる。三百人の視線を感じる。足が震えた。扇を握る指が汗で滑りそうになる。


 怖い。


 公爵家の娘が婚約を破棄されたその場で書記官をかばう。明日の朝には、王都じゅうの噂になる。父にも、迷惑がかかる。わたくしの名前は、二度と、まともな縁談には上がらないかもしれない。


 ――それでも。


 八十五通。乳母の腰。新しい靴の擦り傷。雨の東屋。「三月の窓」。


 この方を牢になど、やらない。


「殿下」


 わたくしは振り返った。


「たぶらかされてなど、おりません」


 声が震えた。一度、息を吸った。


「わたくしは、二年前の三通目のお手紙で、書いていらっしゃるのが殿下ではないと気づいておりました。気づいていて、お返事を書き続けました。殿下にではなく、この方に」


 広間が凍りついた。


 背後で、ユーリ様が、小さく息をのむ音がした。


「わたくしが二年のあいだ恋をしていたのは殿下ではございません」


 喉が熱い。目の奥が熱い。泣いてはいけない。公爵家の娘は人前で泣かない。


「この方の、言葉です」


 言い終えた瞬間、膝から力が抜けそうになった。


 言ってしまった。二年間、文箱に鍵をかけてしまっていたものを。三百人の前で。


 誰も、何も言わなかった。


 楽団の誰かが弓を取り落とした。かつん、という音が、やけに大きく響いた。


 その静けさを破ったのは低い咳払いだった。


「――オルランド」


 広間の奥、玉座の脇の扉から、一人の男性が歩み出てきた。白いものの混じった金の髭。深い緋色の上着。広間じゅうの貴族が、慌てて頭を下げる。


 国王陛下だった。


「ち、父上」


「話は、扉の向こうで聞いていた。最初から、終わりまで」


 陛下の声は静かだった。静かすぎて殿下の肩がびくりと跳ねた。


「書記官に恋文を代筆させるのは、まあ、若い王族にはよくあることだ。わしも若いころ、一通か二通は、書かせたことがある」


 陛下はちらりと、王妃様の席のほうを見た。王妃様が扇の陰で目をそらした。


「だが、二年。八十五通。それを全部人に書かせておいて、その書き手を公の場で牢へ送れと叫ぶ。……オルランド。お前は自分が何をしているか分かっているのか」


「ち、父上、ですが、こいつは」


「その書き手が書いた手紙で、お前は二年、公爵家との婚約を保ってきたのだ。ジゼル嬢の心をつかんだのも、その書き手の手紙だ。お前自身が書いた手紙で何が起きた?」


 ジゼル様が手の中の便箋をそっと握りつぶした。


 殿下は口を開けたまま、何も言えなかった。


「お前は、今夜から、ひと月、自室で手紙を書け。自分の字で。誰にも見せずに。誰に宛ててもいい。自分の言葉で、一通、まともな手紙が書けるようになるまで夜会への出入りを禁じる」


「父上……!」


「ジゼル嬢」


 陛下がジゼル様のほうを向いた。ジゼル様はぴんと背筋を伸ばした。


「愚息が、すまなかった。そなたが望むなら、男爵家への詫びは、王家から改めてさせよう。……婚約の話は、そなたが決めるといい」


 ジゼル様はしばらく、殿下を見ていた。


 それから、小さな声で言った。


「あたし、殿下が、ご自分で書いたお手紙をちゃんと読んでから、決めます。綴りが合ってるやつを」


 どこかで誰かが吹き出した。それがさざ波のように広がっていった。殿下の耳が真っ赤に染まった。


 陛下は最後に、わたくしたちのほうを向いた。


 わたくしはとっさにユーリ様の前で裾を広げて深く礼をした。後ろで、ユーリ様も頭を下げる気配がした。


「ユーリ・ヴェント」


「……は、はい」


「王太子付きの任を解く」


 わたくしの指が扇の骨を握りしめた。


「明日からは、王宮書記局の本局へ移れ。外交文書の起草を任せる。他国の王に宛てる手紙は、心のこもったものでなければ困るからな」


 ユーリ様がはっと顔を上げた。


「へ、陛下……」


「それから、ローデン公爵」


 陛下が公爵家の席を見た。父が立ち上がった。


「そなたの娘は、婚約を破棄されたばかりだ。次の縁談はそなたと娘でゆっくり決めるといい。……わしは口を出さん」


 父は白い髭の下で口元をわずかにゆるめた。


「御意に」


 陛下は殿下の襟首をつかむようにして、玉座の脇の扉へ消えていった。殿下の「父上、父上」という声が、扉の向こうでだんだん遠くなっていく。


 楽団が思い出したように、ワルツを奏ではじめた。


 三百人のざわめきが、ゆっくりと戻ってくる。


「あの……ベアトリス様」


 桃色のドレスの裾が、目の前で揺れた。ジゼル様だった。握りつぶした便箋をまだ手の中に持っている。


「ごめんなさい」


 ジゼル様はぺこりと頭を下げた。蜂蜜色の巻き毛が、肩からこぼれた。


「あたし、ベアトリス様が冷たい方だって殿下から聞いてて。それで、殿下がかわいそうって思っちゃって。でも、ちがったんですね。冷たかったの、殿下のほうだったんですね」


「ジゼル様……」


「秋の麦畑みたいな髪、って書いてくれたの、あの方なんですよね」


 ジゼル様はわたくしの後ろのユーリ様をちらりと見上げた。ユーリ様が小さく身をすくめた。


「あたし、あの一行、ほんとにうれしかったんです。だから、お礼だけ言わせてください。……ありがとうございました。それと、ごめんなさい。あたし、ベアトリス様の手紙の人に、ちょっとだけ、恋しかけてました」


 ジゼル様はえへへ、と照れくさそうに笑った。


 わたくしは思わず、笑い返していた。この方は悪い方ではないのだ。ただ、まっすぐすぎるだけ。


「殿下が、ご自分の字で、綴りの合ったお手紙をお書きになれるといいですわね」


「はい。ひと月で書けなかったら、あたし、麦畑に帰ります」


 ジゼル様はもう一度頭を下げて、ぱたぱたと広間の人波の中へ戻っていった。


 わたくしはその場に立ったまま、動けなかった。膝が震えている。扇を持つ手も。今になって、全身が、がくがくと。


「……ベアトリス様」


 すぐ後ろで声がした。


 振り返ると、ユーリ様が立っていた。書類の束をまだ胸に抱えている。眼鏡の奥の目が赤い。


「あの、私は」


 言いかけてユーリ様は口を閉じた。開いた。また閉じた。


「……申し訳、ございません。私は口で話すのが、ひどく、下手で」


「存じております」


 わたくしは少しだけ笑った。笑ったら、目の端から、ひとしずく、こぼれた。


「二年前、書記局の廊下で、書類を落としかけていらしたでしょう。あのときも、そうでしたわ」


 ユーリ様の耳がみるみる赤くなった。


「……覚えて、いらしたのですか」


「忘れるものですか」


 父がこちらへ歩いてくるのが見えた。周りの貴族たちが、好奇の目をこちらに向けている。


 わたくしは扇を開いて、声をひそめた。


「庭の東屋でお待ちしています。……雨は、降っておりませんけれど」




 庭は冷えていた。


 夜会の喧騒が遠い。大広間の窓の明かりが、芝生の上に長い四角を落としている。冬の終わりの空気は澄んでいて、星がよく見えた。


 東屋の石のベンチに、わたくしは座っていた。ショールを肩にかけて膝の上で手を重ねて。


 さっき、父と少しだけ話した。父は「よく言った」とも「軽はずみだ」とも言わなかった。ただ、わたくしの頭に大きな手を一度だけ置いて、「冷えるから、長くいるな」と言った。その手が少し震えていた。


 砂利を踏む音がした。


 ユーリ様だった。書類の束はもう抱えていない。代わりに、上着のポケットが四角くふくらんでいた。


「お、お待たせ、いたしました」


「いいえ」


 ユーリ様は東屋の入り口で立ち止まった。中に入っていいのか、迷っているようだった。わたくしはベンチの端に寄って隣を空けた。


 ユーリ様はベンチのいちばん端に、浅く腰かけた。わたくしとのあいだに、もう一人座れるくらいの隙間をあけて。


 杜松の匂いがふわりと漂った。


 しばらく、どちらも何も言わなかった。


 噴水の水の音。遠くのワルツ。ユーリ様の、少し速い息づかい。


「……最初は」


 ユーリ様が口を開いた。膝の上で、インクに汚れた指を組んでいる。


「最初は、本当に、命じられて書いておりました。殿下が婚約者に手紙を書くのは面倒だから、適当に書いておけ、と。私は殿下ならこうお感じになるだろう、と考えて書こうといたしました」


「はい」


「でも、書けなかったのです」


 ユーリ様の指がぎゅっと組み直された。


「お茶会の席で、私は、殿下の後ろに控えておりました。殿下が狩りの話をなさっているあいだ、私は、ベアトリス様を見ておりました。手袋の染みを隠そうとして膝の下に手を入れられた。殿下が欠伸をなさったとき、一瞬だけ、窓の外の雨を見られた。……その目が」


 声がかすれた。


「その目が、ひどく、寂しそうで」


 わたくしの胸がきゅっと縮んだ。


「殿下ならこうお感じになる、ではなく、私が感じたことしか、書けませんでした。書いてしまってから、出すべきではないと何度も思いました。でも、ベアトリス様から、お返事が届いて」


 ユーリ様はうつむいた。


「八十五通、全部、読みました。殿下は一通もお開けになりませんでした。私が読んでお返事を書きました。……読むたびに、これは殿下宛ての手紙だと、自分に言い聞かせて」


「言い聞かせてどうでしたの」


 ユーリ様は答えなかった。


 代わりに、組んでいた指をほどいて、上着のポケットに手を入れた。取り出したのは掌ほどの紙の束と、細い携帯用のペンだった。インク壺のいらない、軸にインクを仕込んだもの。


「……口では、うまく、申し上げられないと、思います」


 ユーリ様は紙を一枚めくって膝の上に置いた。


「手紙で、申し上げても、よろしいでしょうか」


 わたくしはうなずいた。声が出なかった。


 ユーリ様はペンを持った。


 大広間の窓の明かりが、紙の上に落ちている。ユーリ様のペン先が、紙に触れた。さらさらと、細い音。右に少し傾いた字。文の終わりの、長いはね。


 わたくしはその手を見ていた。


 二年間、見たいと思っていた。この手がわたくしへの手紙を書くところを。


 ペンが止まった。


 ユーリ様は紙を一枚、そっと切り離した。両手でわたくしに差し出した。その手が震えていた。


 わたくしは受け取った。


 短い手紙だった。


 ――ベアトリス様。


 二年分の手紙の、最後の一行だけは、どうしても書けずにおりました。殿下のお名前では、書いてはいけない一行だったからです。


 今夜、はじめて自分の名前で書きます。


 あなたが好きです。


 ユーリ・ヴェント


 ベアトリスの頭の一文字、その最後の線が、小さな輪になって閉じていた。


 わたくしは紙を胸に押し当てた。


 二年前の、二通目の手紙のときと同じように。心臓がうるさかった。あのときよりもずっと、ずっと。


 涙が止まらなかった。公爵家の娘は人前で泣かない。でも、ここは東屋で、見ているのはこの方だけで、だから、いいのだと思った。


「……ベアトリス様」


 ユーリ様がおろおろと手を伸ばしかけて止めた。指先が宙で迷っている。


 わたくしはその手を取った。


 インクで汚れた、細い指。二年前、書記局の廊下で一瞬だけ触れた指。少し冷たくて、今夜は震えていた。


「お返事を書かなくてはいけませんわね」


 わたくしは涙をショールの端で押さえながら言った。


「でも、わたくし、今夜は紙もペンも持っておりませんの」


「あ、ここに、紙ならまだ――」


「ですから」


 わたくしはユーリ様の手を両手で包んだ。


「口で申し上げます。わたくしはあなたと違って、口で話すほうが得意ですから」


 ユーリ様が目を見開いた。眼鏡が少しずれた。


「わたくしも、あなたが好きです。三通目のお手紙から、ずっと」


 ユーリ様の喉がごくりと鳴った。


 何か言おうとして、口を開いて、閉じた。開いて、また閉じた。


 わたくしは笑った。泣きながら笑った。


「お返事は、明日、手紙でくださいませ。あなたのお名前で。……明日も、あさっても、その次の日も」


 ユーリ様はうなずいた。何度も、何度も。


 それから、ようやく、小さな声で言った。


「八十六通目から、ですね」


 大広間のワルツが、ちょうど終わった。拍手の音が星空の下までかすかに届いた。


 わたくしはユーリ様の手を握ったまま、その音を聞いていた。インクの匂いと、杜松の匂いがした。


 文箱の鍵はもう、かけなくていい。




(完)


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