渡宝橋
空を雨雲が覆う季節。王都の連中は洗濯物の心配をし、農民は畑の水加減に神経をすり減らし、盗賊は家々の窓の締まり具合を気にし始める頃だった。
一年に一度だけ天空に現れる影がある。果てしない天を横切る大河のごとき巨大迷宮。雲の裂け目から覗く石造りの回廊は、年ごとに中の構造が変わり、罠も魔物も気まぐれで冒険者たちを翻弄する。
迷宮を渡った先は異世界に通じているという。大抵そういう話は九割が後からついた尾ひれだ。しかし残り一割にお宝が隠されているなら――マグパイは曇り空を見上げた。
マグパイはギルドに所属しないローグだ。上品に言えば個人の遺跡探索家、率直に言えば盗掘屋。指先は誰より器用、良心は財布の厚みによって形を変える。
今年も天空に迷宮が出現する時期、彼のもとに一人の騎士がやってきた。
「マグパイというのは君かい?」
酒場の奥、安いエールと湿った木の匂いの中、その男は場違いなくらい真摯な顔で立っていた。濡れた青銀のマントは高級ベルベット。周囲の酔っ払いが映り込むほど磨かれた胸甲にはドラゴンの紋章。背筋が槍みたいにまっすぐな騎士はヒューゴ・アステリア、王都でも名の知れた天竜騎士だ。
「違うと言ったら?」
「仕事が一つなくなる」
「じゃあ、俺がマグパイだよ。何の用だ」
ヒューゴは椅子に腰かけもせずに本題を切り出した。
「迷宮を渡りたい。護衛ではなく、突破の技術が必要だ。君の腕前を聞いてきた」
「報酬は?」
「宝箱を好きにしていい」
「俺好みだ」
「ただし、最奥への道だけは優先してもらう」
「いいけどよ。毎年恋人に会いに迷宮を渡るって噂、本当なのか」
「もちろん」
噂話の根にいる者は気まずそうな顔をするものだが、ヒューゴは違った。「雨雲があるから雨が降る」と同じ調子で言うのだ。
「オリビア・ウィービング。彼女は迷宮の先の異世界に住んでいる」
「へえー、それはそれは」
「向こうで工芸を司る女神をしているんだ」
「急に話がデカくなったな」
「神の職務のため、彼女はこの世界に来られない。だから私が行く」
あまりにも真顔なのでマグパイは一瞬「からかわれているのでは?」と思ったが、騎士の顔に冗談の文字は見当たらない。
「迷宮が現れる時だけオリビアのもとへ渡れるのだ」
「あんたが向こうに住めば?」
「私にも騎士としての仕事がある。疎かにしては彼女に怒られる」
「恋愛ってなぁ不便なんだな」
「愛は不便を問題にしないさ」
「便利だったらもっと流行ると思うがね」
そうしたら高く売れるだろうにとマグパイが笑い、今年の契約が成立した。
七の月の七番目の日、ヒューゴの騎竜を駆って二人は天空の迷宮の入り口に立つ。雲から垂れ下がる石の大門。雨粒は門の手前で糸を紡ぐようにくるくると曲がり、内部へ吸い込まれていった。
「そのドラゴンがいりゃ迷宮渡りなんて簡単じゃねえのか」
マグパイが革手袋を締めて尋ねると、ヒューゴは騎竜を門に繋ぎながら首を振る。
「今年の迷宮に必要なのは鍵開け、罠外し、抜け道探しだ。ドラゴンには向かない」
強行突破はすでに試したと言わんばかりだった。それでローグを雇うのも極端な話だ。
「私はオリビアに会いたい。他のことはどうでもよい」
そしてマグパイは理解した。この騎士殿は、頭の大部分を恋人に持っていかれている。
迷宮の中は噂通り滅茶苦茶だった。最初の部屋には天井から百本の雨傘がぶら下がり、そのうち九十九本は引くと毒矢を吐いてくる。道を開く唯一の正解である一本は、なぜか子供向けみたいな黄色い鵲の絵柄だった。
「趣味悪ぃ」
「オリビアは可愛いものが好きだから」
「だからなんだってんだよ」
次の回廊は、はずれの床石を踏むと壁の鎧が恋を歌い出す仕組みだ。詞を聞くと呪いが発動するのか身体が重くなる。
『嗚呼、織りあげた帯より長い君への想い――』
「最悪だぜ」
「彼女の比喩は時々独特なんだ」
「さっきからよ、この迷宮の罠はあんたの恋人が作ってんのか?」
「作っているわけではないが、おそらく影響している。彼女があちらで人々に加護を与える時の力が漏れ出しているのだろう」
工芸の女神の趣味が迷宮設計に反映されているとしたら、あちらの世界は神々の採用基準を見直すべきだとマグパイは思った。
尤も、宝は悪くない。三つ目の部屋では糸巻きの刻印がある黄金の小箱を三つ発見した。うち二つはミミックだったが一つは本物、中には星屑を練り込んだ銀糸が詰まっていた。売れば小さな屋敷が買える代物だ。思わず頬がゆるむ。
「騎士殿よ、今この瞬間、あんたの恋路を応援する気持ちが芽生えたぜ」
「それはよかった。感謝するよ」
ヒューゴは実に素直に頷いた。その率直さは好ましい。マグパイは、宝以外の余計なものが嫌いだ。ただ問題は率直すぎて彼が周囲を見ていないことだった。
雲の橋が編まれた第七層でマグパイが足場の強度を確かめながら慎重に進んでいると、ヒューゴは欄干もない橋で遠くの光を見つめながら後をついてきて、危うく空に落ちそうになった。
「おい馬鹿、何してる!」
「この風の匂い、向こうの世界が近い。オリビアの工房の窓辺はいつも……」
「前見ろ! 恋の回想で転落死した天竜騎士なんて墓碑に刻むやつも困るだろうが!」
襟首を掴んで引き戻すとヒューゴは少しだけ不本意そうな顔をした。恋人の気配がすると本当に他がどうでもよくなるらしい。
「あんた普段の任務もそんな調子なのか」
「冷静沈着で気配り上手と評判だ」
しかしヒューゴの名は戦いよりも年に一度の迷宮渡りで知られている。それだけ落差が激しいのだろう。
「恋ってなぁ、もはや病気だな」
「だとすれば診断したのは名医だろう」
悪びれもしない顔を見て、こいつの厄介さはむしろ真剣さにこそあるのだとマグパイは思い知りつつあった。
歯車が無数に噛み合う大広間はそれ自体が巨大な機織り機で、近づく者をシャトルが串刺しにする仕掛けだった。マグパイは歯車の回転を読んで飛び石のように進み、核になっている魔石を抜こうとしたが、途中で機構が変則的に切り替わった。刃が唸りをあげ、ヒューゴが叫ぶ。
「マグパイ、赤い歯車を探せ! オリビアは左右対称を崩す時、必ず暖色を基点にする!」
「女神の恋人って、んなことまで覚えるのかよ!」
「当然だ!」
指示通りに身を滑り込ませ、歯車に短剣を突き立てた。甲高い金属音。機織り機は大きなくしゃみでもしたみたいに震えて動きを止めた。
「癪だが、助かったぜ。一応素直に礼を言っとく」
「どういたしまして。私も素直に返すと早くオリビアに会いたいよ」
「あ、そ」
この男の頭蓋骨を開けば内側には「オリビア」とびっしり刻まれているに違いない。
いくつもの罠と二度ほどの落下と三度の裁ち鋏型魔物からの逃走をくぐり抜け、二人はついに迷宮の出口手前に辿り着いた。
静かな白い部屋だった。壁にも床にも繊細な模様が彫られている。正面に異世界へ通じると思しき門。その前には台座があり、金文字でこう記されていた。
『手仕事の神の領域に入る者、心をこめて作られた贈り物を捧げよ』
財宝なら山ほどある。金杯、宝石、銀糸、魔石、光る短剣、やたら上等な靴べらまで。だが「心をこめて作られた贈り物」とは。マグパイの荷袋に心など一粒も入っていたことがないし、もらうのは好きでもあげるのは嫌いである。
「あんた、贈り物は?」
「……ない」
ヒューゴの荷物は剣と食料と予備のマントだけ。恋人に会いに行くくせに、贈り物を忘れてきたのか。
「カス」
「いやその、用意はしたのだが、作りかけというか、なんというか」
ヒューゴは竜を駆る騎士の顔ではなく、厨房で皿を割った少年みたいな顔をした。
「私は不器用でな。去年の逢瀬でオリビアに『あなたの作ったものが欲しい』と言われたんだ。それで一年かけて髪飾りを作ったが」
「一年もかかんのかよ」
「途中で短剣になってしまって」
「なんで?」
白い部屋に、自覚ある男の沈痛な沈黙が落ちた。
マグパイはため息を吐く。宝は得たが、ここまで来て門前払いでは気も晴れない。なにより、この騎士は今後もまた誰かを雇うだろう。上客は逃がしたくなかった。
「作りかけでも残骸でも手作りならいいだろ。まさか持ってきてないなんてことは?」
「持ってきては、いる」
「なら早く出せ」
「笑わないでくれるか?」
「へいへい、努力しまさぁ」
ヒューゴが鎧の内側から慎重に布包みを取り出した。現れたのは銀製の――髪飾りを目指した過去があったかもしれない何かだった。
星を模したらしい部分はどう見ても潰れたイソギンチャク。芯は首狩り鎌のように曲がり、留め金は鈍器、飾り糸は海賊のロープに似た結び目が主張している。理想と現実が殴り合って両方負けたかのごとき代物だ。
「笑わないっつーか、笑えねえ」
「努力はしたのだ。陛下に剣を戴いた時よりも心を込めた」
この国は大丈夫なのだろうかとマグパイは他人事のごとく思った。
しかし二人の不安に反して、台座に置かれた髪飾りは淡く光り始める。そして門が開いた。
「合格なのかよ」
「もちろんです」
門の向こう、陽だまりのような光の中に一人の女が立っている。
オリビア・ウィービングは、マグパイが想像していた“工芸の女神”よりもずっと人間くさかった。生成り色の作業着に金糸の刺繍が入った前掛け。髪はゆるく結われ、耳には色違いの小さな糸巻きの飾りが下がる。神々しいといえば神々しいが、それ以上に、工房に籠もりっぱなしの職人の風情だ。
そんなことを考えている間にヒューゴは一瞬で距離を詰め、彼女を抱きしめていた。
「オリビア、会いたかった」
「ヒューゴ、わたくしも」
恋人たちの再会はそれだけ切り取れば美しかったが、背後でマグパイが「じゃあこの区画のお宝は」と品定めしているので全体としては締まりがなかった。
オリビアはくすりと笑ってマグパイに視線を向ける。
「今年の案内役さんね。ありがとう。ずいぶん苦労したでしょう」
「まあな。そこの騎士殿が道中ずっと恋煩いで役立たずだった」
「確かに否定できないわ」
「手厳しいね、オリビア」
「あなた、また贈り物を最後まで作れなかったのね」
「持ってはきたよ。髪飾りになるはずだったものを」
「ひどい出来だこと」
「だって君が欲しいと言ったから……」
「ふふ。だから嬉しいのよ」
オリビアの微笑みにノックアウトされたかのごとくヒューゴは押し黙った。天竜騎士が女の一言で黙る様子は少し面白い。
オリビアは台座の上の髪飾り(?)を手に取ると、指先でそっと撫でた。
「すまない。君の力があればもっと美しくなるはずだ。私の愛だけは籠っているから」
「いいの、ヒューゴ。このままで」
潰れたイソギンチャクでも、山賊が振り回すフレイルのような留め金でも、海賊船を留める結び目でも。
「あなたが一生懸命作った形がいいの」
工芸の女神の手にあると、それは美しい機織り道具に見えた。――髪飾りには見えなかったけれど。
二人が再会の甘ったるい空気を一段落させると、オリビアはマグパイに小箱を差し出した。
「案内役さんへのお礼。迷宮の財宝とは別口よ」
「おや、女神様は話が分かるねえ」
箱の中には黒銀色の不思議な光沢を持つ細い道具が一本入っている。
「『仕立て屋の盗人針』。錠前にも、絡まった糸にも、しつこい縁談にも使えるわ」
「最後の用途おかしくねえか」
「人の世では一番需要があるでしょう?」
「ま、王都では要り様かもな」
試しに近くの装飾箱に差し入れてみると、かちりと軽い音がして複雑そうな鍵が一瞬で開いた。マグパイの目が輝く。
「こいつはいいぜ、女神様」
「そうでしょう」
オリビアは得意げだ。工芸の女神は、手先の器用さを重んずる盗人に案外優しいらしい。
ヒューゴは今日一日彼女の世界で過ごす。帰りは入り口で待つ彼の騎竜が送ってくれるそうだ。マグパイが踵を返す直前、二人がひらひらと手を振った。
「ありがとう、マグパイ。来年も頼む」
それだけ言うと彼らはすぐに互いしか見えない二人の世界に入ってしまう。
肩を竦めつつマグパイはお宝の山を抱えて帰還した。盗人針のおかげで帰りは楽なものだった。
迷宮の外は相変わらず雨。地面に降り立つ頃には夜になり、天空の迷宮が星々の光を集めて夜空を横切る。王都の連中はあれを見上げてまた好きなように物語を作るのだろう。
マグパイは恋人たちの逢瀬になど興味がない。だが年に一度の、天の川を渡す仕事。それはなかなか悪くない。少なくとも、来年の雨雲を待つ理由としては充分だった。




