あの時、僕は何も言えなかった
「あぁ、急がなきゃ急がなきゃ!」
4月から不動産会社に就職する大学4年生の優斗は、埼玉の実家から東京の社宅へと引っ越すための荷造りに追われていた。外では冷たい雨が降りしきる。
大学では社会学部に所属していたものの、コロナウイルスの影響で授業のほとんどがオンラインだった。部活やサークルに入ることもなく、さえない日々が続いた。
そんな優斗にも、就活という名の避けては通れない通過儀礼がやってくる。書類選考を通過して面接に進んでも、最後の一押しができなかった。志望動機を問われても、無難な言葉しか出てこない。”あのとき”と同じだ。優斗はふと思った。
そんな優斗も、不動産会社から内定を得て、就活を終えた。あとは、この荷造りを終えるだけだ。
(あとはこの机の一番下の引き出しだけか…)
小学校入学のときに、両親に買ってもらった学習机の引き出しを開ける。そこにはボールペンが3本と、行方不明になっていた授業ノートが入っていた。
(これで全部かな…)
優斗は引き出しをのぞき込むと、黒いカバーの手帳が一冊入っていたことに気が付いた。その手帳を手に取ると、うっすら積もったほこりを手で払った。表紙には金色の字で”2023”と書かれていた。
(え…3年前の手帳か…何を書いたんだっけ…)
手帳の存在自体を忘れていた優斗は、恐る恐る手帳を開いた。偶然開いたページには、こう書かれていた。
5月24日
夢のような日々から現実に戻されて、早くも一週間が経った。彼女は本当に人間だったのだろうか。きっと何かの間違いで天使が迷い込んだのだろう…
「うっげぇぇ!!!なんじゃこりゃぁぁ!!!!!」
優斗は思わず声を上げ、顔を赤らめた。いったいどこの誰がこんな文章を書いたのか、思考を張り巡らせて明らかにしようとした。しかし、そんなことをしても無駄である。この文章を書いたのは、紛れもなく優斗自身なのだから。
机上のブラックコーヒーを一口飲み、いったん気を落ち着かせた優斗は、文章の続きに目を移した。
天使はもう僕の前から姿を消し、再び姿を見せることはない。半人前のプライドなど捨てて、貴方の優しさを受け止めるべきだった。こんなにも苦しい思いをするのは、生まれて初めてだ。こんなにも人に思いを馳せることは、19年間生きてきて一度もなかった。
(いや、冷静になれよ…俺以外にいないだろ…なんか頭がくらくらしてくるな…)
そうつぶやきながらも、いまさら引き返すのも気分が悪いので、優斗は恐る恐る続きを読む。
貴方はあまりにも輝きすぎていて、僕には釣り合わないと思ってしまったんだ。
(この“貴方”って、いったい誰のことなんだ?今から3年前の春に、いったい何があったっていうんだっ!)
優斗は記憶を辿っていく。“貴方”の記憶にたどり着くまでには、それほどの時間はかからなかった。
「あぁっ!!さくらちゃんのことか!!!」
優斗は目をまん丸に見開き、思わず椅子から立ち上がった。すると、さっきまで感じていた小恥ずかしさは不思議と消えて、懐かしくて、温かくて、どこか切ない感情に包まれた。
高橋さくら—優斗が大学1年の終わりの頃に今のコンビニバイトを始めて、ちょうど2か月が経過した頃に知り合った同い年の女性だ。
今日のように、冷たい雨が降りしきり、お客さんは全くと言っていいほど来ない1日だった。そんな日に彼女を一目見た時の第一印象は“高嶺の花”だった。艶のある長い黒髪に、ぱっちりとした二重。透き通るような透明感のある肌で、あまりに美麗な女性だった。
「は、はじめまして、大林優斗です。よろしくお願いします。」
優斗は美女を目の当たりにして、少し早口になりながらも名を名乗った。
「高橋さくらです!よろしくお願いします!」
手をこすり合わせながら、さくらは一言返した。さくらの様子を見た優斗は、右ポケットをまさぐり、そっとカイロをさくらに手渡した。
「あ、あの、よか、よかったらこれ、使ってください!」
「えっ、いいんですか!?ありがとうございます!!」
さくらは優斗にそっと微笑み、こう続けた。
「大林さんって、優しいんですね!」
(眩しい!笑顔が眩しすぎる!!)
さくらの笑顔にすっかり心を奪われた優斗は、胸の鼓動が一気に高まり、呼吸も早まる。軽いパニック状態に陥った優斗は胸に手を当てながらとっさに、
「はぁ、はぁ、お役に立ててよかったです!!」
優斗はオーバー気味に返した。決してウケを狙ったわけではない。冷静さを欠いた優斗は、反射的にこのような返しになってしまったのだ。すると、さくらのほほえみは満面の笑みへと変わった。
「ハハハ!大林さんって、面白いんですね!!」
さくらは子どものように大きく笑いながら返した。話す前はさくらにクールな印象を抱いていた優斗だったが、ケラケラと笑い続けている彼女の姿を見て、そのギャップに驚いた。不自然な返しをしたことで変なヤツ認定をされてないか心配になったもの、その心配はなさそうだ。優斗の緊張は一気にほぐれた。そして、さくらに合わせるように優斗もケラケラと笑い出した。
(なんだ、この心地よさは…)
初対面のはずの目の前の女性に、優斗は妙な安心感を得た。別嬪さんだから緊張するなんて単純な話ではない。まるで幼馴染であるかのようなフィーリングの良さを、ひしひしと感じる。こんな感覚は、19年間生きてきて初めてだ。
「あれれー?お二人さん、いつから付き合ってるの??」
優斗の2歳年上で、バイトの先輩の隆が、2人の間に割って入ってきた。
「いや、今日初めて会ったばっかで…ぜ、ぜんぜん、そんなんじゃないっすよ!」
優斗が慌てて声を上げ、さくらの方に目をやると、耳を赤らめながら少しうつむき、唇を小さくかみしめていた。さくらが否定しないことに若干の戸惑いを覚えながらも、優斗はこれまでの出来事を隆に説明した。
「なーんだ、そういうことか。それにしても、傍から見たお2人はお似合いだったな」
隆は懲りずに続けた。
(第三者から見てもそう感じるなら、やっぱり相性いいんじゃないのか…)
優斗の心の中で小さな期待が急速に膨らむ。さくらを意識しすぎて、もはや平然と話をできる状況ではなかった。
「大林くん、これからよろしくね!」
「は、はい、よろしくお願いしますっ!!」
優斗にとって、今まで味わったことのない感情が芽を出した1日だった。
次に優斗とさくらが顔を合わせたのは、2人のシフトが被った一週間後のことだった。初めて会った時と同じく雨模様で、相変わらず客足は悪い。
「あ、優斗くんおはよう!」
先に声をかけたのはさくらの方だった。
「さくらちゃん、おはよう!」
優斗もすかさず意気揚々と返す。なお、先週は苗字呼びだったさくらに急に下の名前で呼ばれたことに胸が高まったことは言うまでもない。
ぽつぽつと来るお客さんの対応をこなしながら、他愛もないやりとりを重ねていった。そこで優斗が感じたことは、さくらの些細な声掛けの多さである。
「優斗くん、ありがとう!」
優斗がレジのフォローに入っても、お客さんが希望した銘柄のたばこをそっと見つけて渡しても、カウンターをサッと乾拭きしても、さくらは感謝の言葉を欠かさなかった。接客中だとしても、優斗の方を向いて、ニコッと微笑んで小さくお礼を言う。
「なんて気遣いのできる人なんだ!!」
優斗の見返りを求めない気遣いに、さくらの優しさが呼応する。優斗が初日に感じた妙な居心地の良さは、やり取りを重ねるにつれて、少しだけ深い安心へと変わっていった。時間はあっという間に過ぎていき、気づけば優斗の退勤時間となっていた。
「お先に失礼します!さくらちゃん、またね!!」
「こちらこそ今日はありがとう!またね!!」
優斗は砕けたコミュニケーションを取れるようになったことを喜んだ。そして、もっと彼女について知りたい、仲を深めたいという想いが強まっていった。制服を脱いで退店すると、雨はほぼ止んでいた。
(早く会えないかな…)
この日以降、優斗はさくらのことをふと考えてしまう時間が、少しずつ増えていく。
2人が次に会ったのは、2週間後のことだった。この日は曇り空で、お客さんはいつもと比べて少し多い。互いにフォローし合いながら仕事をしていると、水族館のパンフレットを持った親子が、店内に入ってきた。親子はオレンジジュースを2本買って店を出た。
「水族館かー!私、しばらく行ってないなぁ」
「さっきの子が持ってたパンフレットの水族館、イルカショーが有名だよね」
「えー、優斗くん、相当行ってるんだねー」
優斗がその水族館に行ったのは、今から約10年前の話。そのことをさくらに打ち明けることは、ちょっとしたプライドが邪魔をしてできなかった。
「行きたいなー、水族館」
さくらがふとつぶやいた。
「え?」
優斗は思わず聞き返した。
「行きたいなー」
さくらがもう一度つぶやいた。優斗の脳内は、今にもパンクしそうになっていた。
(え、これって、誘っていいのか?誘うにしても、どう誘ったらいいんだ?)
2人の間に、刹那の沈黙が流れた。互いに顔を合わせられず、声をかけることもできない。
(どうしよう、どうしよう、何を話そう…先週の休みに何してたか聞いて、ちょっとお茶を濁そうかな…いや、不自然か…うーん…)
優斗の脳内で結論を導き出せないでいると、店の自動ドアが開く音がした。
「あ、いらっしゃいませ!」
さっきまでの重い沈黙を破るように、さくらが明るい声を放った。
「…らっしゃいませー」
優斗も追いかけるように言い放った。
(お客さん、来るのがもう少し遅ければなぁ…)
優斗はタイミングを失ったことを少しばかり後悔した。結局その日はプライベートの話に踏み込むことはなく、遊ぶ約束を取り付けずに、さくらの退勤時刻となった。
「優斗くん、今日もありがと!またねー」
「うん!またねー」
さくらが退勤して2時間ほどが経過した頃、優斗も勤務を終えて自宅へと向かった。優斗はふと、自身の過去について振り返った。
優斗は中学時代に生徒会長を務め、生徒の満足度向上のために様々な施策を行った。周囲からは高い評価を得たが、それをよく思わない女子生徒から罵声を浴びせられることもあった。この出来事以降、優斗は異性との距離感を意識するようになった。
(でも、さくらといるときだけは、今までと違う。次こそは絶対に誘うぞ!)
優斗の中で小さな決意をした瞬間だった。
「さくらちゃん、おはよう!」
前回会った日から10日ほどが経過した夕方に、優斗とさくらは再び顔を合わせた。
「あぁ、おはよう…」
さくらには、いつもの笑顔がなかった。むしろ、ムスッとした表情にも見えた。優斗は今までにない表情を見て困惑したものの、いつもの笑顔を取り戻そうと必死に思考を巡らせた。
「あれっ?さくらちゃん、前髪切った?」
優斗からとっさに出た言葉に、さくらは眉をひそめた。
「何?今さら?」
優斗の緊張は高まる一方だった。たくさん笑って、たくさん話したい。もっと知って、もっと知ってもらいたい。もっと深い仲になりたい…そんな気持ちを抱えながらも、目の前にいるさくらは、あまりにも不機嫌に映った。
(あれ、俺、何かしたっけ?)
優斗は頭の隅から隅まで記憶を辿ったが、どうも心当たりがない。優斗は相手の表情や言葉の間によって真の感情を読み取ろうとする、繊細な心の持ち主だ。対象が意中の人であれば、より一層意識が高まる。
(何か言わなきゃ…いや、何も言わない方がいいのか?)
人間であれば、機嫌の良いときも悪いときも当然ある。優斗自身だってそうだ。冷静に考えれば当然のことだが、このときの優斗は、自分が嫌われたと断定する以外に意識がなかった。
刹那の沈黙でさえも、耐え難い苦痛となって優斗を苦しめた。結局この日は会話が弾むことはなく、2人の間には終始重い空気が流れた。
「今日はダメだったけど、次こそは何とかして遊びに誘うぞ!」
優斗は自分を鼓舞するように小さくつぶやき、帰路に就いた。
「優斗くん、おはよー」
2週間前の重い空気がウソのように感じるくらい、さくらのあいさつは軽やかだった。さくらの気持ちが不可逆的なものではなかったとわかって、優斗はほっとした。
「おはよー!元気?」
この2週間、脳内で途轍もない葛藤があったことを悟られないよう、優斗はわざとそっけない返しをした。
「元気だよー」
今日は大丈夫だ。優斗はそう確信し、次にどう話を切り出そうか必死に考えた。するとすかさず、さくらから思いがけない言葉を投げかけられた。
「優斗くん、いつヒマなの?」
「えっ」
「私はヒマだよ」
思いもよらない言葉に、優斗の脳内はフリーズした。さくらは耳を赤らめ、もじもじしているように見えた。
(これって、誘ってくれてるのか?)
もう答えは出ているようなものだが、あと一歩のところで確証を得られない感覚に陥っていた。その確証を得るためには、当然ながらただ一つの方法しかない。自分から誘うことだ。
(お、俺と…)
すぐそこまで出かかった言葉が、なぜか最後まで言えない。千載一遇のチャンスなのに。時間が経つにつれて、胸の鼓動が高まる。2人の間には、妙な緊張感が漂った。
「あ、さくらちゃん、そういえば、あのドラマ見た?」
優斗は恥じらいのせいからか、意に反して話題をガラッと変えてしまった。
「…録画したけどまだ見てない」
さくらの声色が少し暗くなった。表情も険しくなった。
「あ、そうだったんだ…」
さっきまでの和やかなムードから一転し、重苦しいムード包まれた。優斗はなんとか挽回しようとするも、次の言葉が出てこない。さくらがバックヤードに入ると、優斗は小さくうつむいた。
(ったく、何やってんだよ俺…)
想いが強くなればなるほど空回りしていく。優斗は、自分への苛立ち感じるようになっていた。結局この後も、2人は会話らしい会話をせず、次の出勤のアルバイトへの引継ぎをして、優斗は退勤した。
次に2人が顔を合わせたのは、2週間後のことだった。いざさくらが目の前にいる状況になると、優斗の緊張は一気に高まった。いつものように軽くあいさつを交わし、他愛もない会話を続けた。どうやら、今日は話に乗ってくれるようだ。業務を淡々とこなし、さくらの退勤時間となる数分前に、勇気を振り絞って優斗から切り出した。
「俺、この前友達とUSJ行ったんだよねー」
「えー、誰と行ったの?」
「高校時代の男友達だよ」
「…いいなぁ、私も行きたい」
ついにこの瞬間が来た。優斗の緊張が一気に高まった。この日のために、優斗は日々のイメージトレーニングを重ねてきた。
(じゃあ、俺と…)
もうすぐそこまで出かかっている。それなのに、なぜか言い出せない。優斗は過緊張によって、イップスに陥ったようだった。優斗が言葉に詰まっていると、さくらが畳みかける。
「私、ヒマだよー」
自分が言うべきことは、頭ではわかりきっている。それなのに、言葉が出ない。こんなことは今まで生きてきて初めてだ。さくらが声を発して、5秒ほど経過した。さくらは目をそらさず、ただまっすぐに優斗を見ていた。優斗はそれに応えるように、目を合わせた。早く返事をしなければならない。それなのに、身体が言うことを聞かない。
(はっきり言わなきゃ、伝わらないだろっ!!)
優斗は意を決した。小さく息を吸って、もう一度さくらに声をかけようとした、その時だった。
「私、今日で最後だから」
さくらの表情は険しかった。
「え?いや、ちょっと待って!」
「…バイバイ」
さくらはただ一言残して、優斗の前から去っていった。あまりに突然の出来事に、優斗は茫然とした。優斗は自分が置かれている状況を、しばらくの間理解できなかった。
一連の出来事から約3年の月日が経ち、今日に至る。当時のように涙が止まらなくなることはさすがになくなったものの、今でもたまに、ふと思い出すことがある。半年に一度くらい、夢に出てくる。当時の記憶を何度も忘れようとしたが、到底忘れることはできない。自分の不器用さに、ちょっぴり嫌気がさすくらいだ。
窓から太陽の光が差してきた。さっきまでの強い雨がウソのようだ。
「やべぇ!もうこんな時間か」
小さくつぶやいた優斗は、手帳をそっと閉じて、荷造りに戻った。




